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第10話その6

 窓がほとんど無い研究所内では、昼も夜もわからない。

 鳴り止まない電話の呼び出し音で起こされた時も、一体何時なのか検討もつかなかった。

 電話の主は、美鈴だった。

『優三、すぐに身支度を整えなさい。手伝いが要るの。』

「私は、手伝う気なんかないわよ。」

『すぐ迎えにいくわ。』

優三が反論する間もなく、電話は乱暴に切れた。

 五分後、密室の扉が開けられた。鍵は、中から開けることができない。

 美鈴は優三に防護服を渡した。

「すぐに着て。」

 優三はフイッと横を向いた。

「・・・いやよ。」

すると、すかさず美鈴の平手打ちが飛んだ。

「早く!あんたの都合なんかどうだっていいのよ!」

「いいえ、私は犯罪の片棒なんか絶対に担がない。」

「これは人助けよ。このウィルスを克服できれば、生物兵器の恐怖から逃れる術を見出せるかもしれない。よく胸に刻み付けておきなさい。あんたに頼まなければならないほど、切羽詰っているってことを。」

 優三は唇を噛み締め、美鈴を凝視しながら防護服に手を通した。

 葬式のような足取りで廊下を進みながら、優三はたずねた。

「二葉は?二葉はどうしているの?」

「・・あの子も手伝っているわ。」

「手伝うって・・・。あの子はまだ15歳でしょう?」

「血圧測って検温するくらいはできるわ。」

「それはそうだけど、」

 次の自動扉が開かれた瞬間、優三は思わず息を呑んだ。

 直線に伸びる廊下を挟んで並ぶ複数の小実験室。そのすべての覗き窓から、病人が見える。

「これは・・・!?」

「感染したのよ。研究員全員に。」

「全員!?」

「そうよ。オーナーを連れて研究所に戻ったら、このざまよ。」

「あなたは、感染していないの?」

「わからないわ。でも、歩けるのが私だけなのよ。」

 一つの部屋で、二葉が血圧を測ってメモしているのが見えた。

「二葉は、今どういう状態なの?」

「正気よ。セシリアのことも思い出して、しばらく放心はしていたけど。」

「そんな二葉を、無理やり連れ出したのね。」

「二葉にはウィルスへの抗体があるらしいのよ。看病にうってつけじゃないの。それに、役割を与えたら結構しっかりとした目つきになったわ。人とは、多分そういうものなのよ。」

 廊下の突き当たりの特別室に、潤一は眠っていた。

 美鈴は、優三にメモを渡した。

「薬の投与も任せるわ。私が解決策を見出すまで、何としても生かして。」

「・・・私は、この男の生死なんてどうでもいいのよ。」

「優三!」

 美鈴の手が、優三の胸倉を掴んだ。

「この期に及んで、まだそんなことを言うの!?あんたがやらないで、誰がやるのよ!」

美鈴はそのまま、優三を激しく揺さぶった。

「あんただけなのよ!あんたにしか許されないこともあるの!この世であの人の妻はあんただけで、その座が許されたのはたった一人なの!あんたがやらないで、誰があの人を救うっていうの!?」

 間近で見た、眼鏡の奥の美鈴の瞳は、ハッとするほど綺麗だった。水晶色に潤んでいるからだろうか。

 優三は美鈴の手から逃れると、言った。

「今回・・・だけよ。この先二度と、こんなことはないわ。」

「当たり前よ。この次があれば、私はもう、迷わない。」

 それは、どういう意味だったのか。

 優三が尋ねる間もなく、美鈴はすぐにその場を離れていった。

 優三はメモの支持に従い、動き出した。

 初めてだ。

 潤一を看病するなんて。

 多忙な潤一は生来丈夫な体質らしく、滅多に病気になどならなかった。多少の風邪や熱なら、何事も無いように仕事に行ってしまう。寝込んだ例など、記憶に無い。

 熱を測ると、39度以上ある。

 吐く息が熱くて、病を実感する。

 額に寄せられた皴と乾いた唇が、見るからに苦しげだ。

(インフルエンザになったときの私と、あまり変わらない気がする。ただ、高熱の期間が長すぎる気もするけど・・。)

 このウィルスが、長い発熱による衰弱死を狙って作られたものだとすれば、抵抗力の弱い年長者から死に至るのだろう。

 病室から病室へ5分おきに飛び回って働いている二葉の表情は、マスクや防護服に覆われて全くわからない。優三としては、すぐに駆け寄って話しかけたい。だが、今の二人にそんな余裕はない。

 今、この研究所で感染していないのは、遺伝子操作により生まれた者だけだ。それに気付いているのは美鈴だけだった。美鈴は失敗作と言われていたが、こういう状況では、やはり普通の人間とは違うのだと思い知る。だが今回は、それが救いだった。もし美鈴が倒れれば、優三も二葉も何もできず、この研究所は単なる墓場となって朽ち果てる。

 未知のウィルスをXとすれば、Xの中でも各ウィルス株間において病原性が異なることが判明している。症状の予測はできるが、誰がどういう症状になるかは確定できない。今のところ、一人が胃腸炎、別の一人が肝炎を引き起こしている。潤一が発熱やリンパの腫れ以上の症状が見られないのとは対称的だった。

 静寂も束の間、ある小実験室の緊急ブザーが鳴り響いた。

 美鈴はすぐ実験室に駆けつけた。二葉が廊下で助けを呼んでいる。

「急に痙攣をおこしました!」

 その声は、優三の耳にも届いていた。思わず病室を出て、美鈴に「どうしたの?」と声をかけると、物凄い勢いで怒鳴られた。

「優三は部屋から出ないで!あんたは、絶対オーナーから目を離しちゃいけない!」

 二葉と美鈴が一つの実験室に入り、病人の手当てを始めた。

 言われたとおり潤一の病室に戻った優三には、それ以上何が起こったか窺い知る由もなかった。

 1時間後。

 優三は、二葉が廊下をふらふらと歩いているのを目にした。

「二葉!」

 ガラス越しに、声をかける。

 防音になっているわけではないから、何とか会話はできるはずだ。

 額にへばりついた前髪が、二葉の疲れを痛々しく現している。

「どうなったの?」

 二葉が、何を忘れ、何を思い出したのかはわからない。だが、半年以上一緒に暮らした自分を忘れたとは、優三には思えない。

 二葉は優三の眼を見ると、黙って首を振った。

 それは、どういうことなのか。

 死んだ・・・ということなのか。

 優三は真相を確認すべく、美鈴に内線をかけた。

 美鈴は、優三からの用件を聞くと、冷たい声で言い放った。

『つまらないことで電話しないでよ。』

「だって、亡くなったのなら、その症状を知りたいのよ。前兆がわかれば、」

『無理よ。人によって症状が違うの。あと3人くらい死なないと、関連性の有無もわからないわ。』

 優三は、思わず眉をひそめた。

「あと3人くらい、って・・・!どうしてそんな冷たいことを言うの!?」

『ただの真実よ。ウィルスの早期同定のためには少しでも多くの症例が必要なの。』

「まさか症例のために、わざと研究員達に感染させたわけじゃないでしょうね?」

『冗談じゃないわ!私はそんなことしない!研究員の命を守ることは、代理所長としての私の責任よ。絶対、そんなことはしないわ!』

 美鈴の苦しい叫びに、優三は声を落とした。

「・・・悪かったわ。」

『・・・・。』

 受話器が置かれた。

 美鈴は唇を噛み、頭を抱えてうなだれた。

 もしかしたら、研究員達は自らウィルスに感染し、症例になったのかもしれない。潜伏期間を考えれば、美鈴が留守にするずっと前から、彼らはそれを覚悟していたのかもしれない。

 美鈴が行き詰っていることを悟り、最後の手段に出たのかもしれない。

(私は責任者として失格だわ。でも、今はともかく、一人でも多くの命を救わなくてはならない・・!)

 乾いた唇を噛み締め、美鈴は再び頭をもたげた。

 次の犠牲者が出るのを食い止めたい。

 しかし、遅々として進まない研究も、病人の間を飛び回っての処置も、美鈴の気を焦らせるだけだ。 冷静になろうとしても、明らかなタイムリミットが全身を駆け巡る。

「主任!」

 治療中に、二葉が廊下から呼びかけてきた。

「2号室、咳が止まりません!」

 美鈴は急いで二葉と共に病室へと駆け込んだ。

 美鈴は症状を一通り見、二葉に指示を出した。

「レントゲンを撮るわ。ストレッチャーを!」

 廊下を走るガラガラという車輪の音を聞いていると、これが永遠に続く道のような感じがして、気が遠くなる。

 段々、自分が何のために動いているのか見失いそうになる。

 そのたびに美鈴は痛感する。

 自分は、凡人であると。

 天才と呼ばれた父や兄とは違う。美鈴は、平凡な女の子が必死の努力で這い上がってきただけなのだ。医師の娘だから、医師になる知力も財力もあるのだと、周りは噂した。そうかもしれない。だが、超人的な何かを持っていないのは確かだ。

 二人目の意識不明者が出たとき、美鈴は立ちくらみを起こした。

 昼光色の蛍光灯に照らされた明るい廊下で、美鈴はしゃがみこんだ。

 こめかみの内側が、ずきずきする。眉間の裏側が痺れている。

 美鈴はポケットから注射器の入ったケースを取り出し、左腕の袖をまくって注射しようとした。

 と、そのとき。

「駄目!」

 ハッとして振り向くと、そこには優三の顔があった。優三は、注射器を持つ美鈴の腕をしっかりと掴んだ。

「薬物でしょう?そんなものに頼っては駄目よ!」

優三の厳しい視線に、美鈴は鋭く言い返した。

「じゃあ、どうしろって言うの!?私の身体は限界なのよ!少しでも気を抜いたら、寝てしまいそうなの!倒れそうなの!でも、そんな暇はないのよ!!」

「依存症になるわ!例えこの現状を克服できても、その後あなたは地獄を見るのよ?死んでしまうかもしれないのよ!?」

「克服できればいい!その後の私のことなんか、どうだっていいのよ!」

美鈴の悲しい叫びに、優三は声を落とした。

「それは研究所のため?それとも、オーナーのため?」

「人の命のためよ。当たり前じゃないの?」

 優三は、首を振った。

「あなたは、その『命』を今までどれ程犠牲にしてきたの?犠牲にしてもいい命と、そうでない命があるとでもいうの?」

「・・・前にも言ったはずよ。くだらない問答をしている暇は無いの。」

「よく言う!『神なんていう実体の無いものには出来ないことをする』、なんて大口たたいたくせに!」

 優三が美鈴の身体を揺さぶった拍子に、注射器が床に転げ落ちた。

「今みたいな状況を回避するために、散々人の命を踏み台にしてきたんじゃないの?それも満足にできないで、何が『人類の発展』よ!?」

 美鈴は抵抗もせずに、優三に揺さぶられるままになっていた。

「答えてよ!何とかできるんでしょう!?そのために今まで人の人生を弄んできたんでしょう?私の人生を、二葉の人生を、奪ってきたんでしょう!?」

 優三は、震える唇で、なおも美鈴を叱責した。

「そうでなければ許さない!ここにいる全員を救えないのなら、今まであなた達が犠牲にしたすべてが無意味になってしまう!そんなこと、絶対に許せない!!」

「だから!」

 美鈴は身体を壁に預けたまま、力なく答えた。

「だから、私は自分を犠牲にしてもやり遂げようとしているんじゃないの。あんたの言ってることは矛盾してるわ。」

 床の上に転がった注射器を拾い上げ、美鈴は呟くように言った。

「この薬はメタンフェタミンといって、戦後しばらくは市場に出回ってたものよ。心配されるほどのものじゃないわ。」

 優三は、美鈴に尋ねた。

「それが、あなたの研究者としての使命だというの?」

「そんな立派なものじゃない。私は、自分の不始末の尻拭いをしているだけよ。」

 細くて力ない美鈴の背を見つめながら、優三は、何を望めばいいのかわからなくなっていた。

 潤一が死ねばいいのか?

 美鈴も含め、研究所が全滅すればいいのか?

 考えながら病室に戻ったとき、それは起こった。

 潤一が突然、身をよじって呻きだしたのである。


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