第10話その5
いくら広い屋敷の中でも、同じ屋根の下にいるはずの人間の気配が全く感じられない状況というのは、どうしても不安を駆り立てる。
潤一がどうなろうと構わないが、「どうなっているのか」が気になって仕方がない。
ソファから立ち上がり、一歩踏み出しては躊躇して、再び腰を下ろす。
そんな行動を何十回と繰り返し、とうとう優三はリビングから廊下へ出た。
空気の流れる音さえ聞こえそうな静寂。
この家は、使用人が何人いても、何十人もの客を招いても、いつも生活の臭いが無い。
生きている人間の生気が感じられない、白い屋敷。
廊下の窓からは、今にも降り出しそうな雲行きが窺える。
日の射さない薄暗い廊下を、優三は足音を立てないように進んだ。
潤一に、様子を見に来たことを気取られたくない。
ただ、そっと部屋の中を覗いて、生きてるのか死んでるのかを確認したいだけだ。
ほどなく、潤一の書斎の前にたどり着いた。
アラベスク模様の彫刻が施された漆塗りの扉に、そっと耳を寄せてみる。
息を押し殺しても、何の音も聞こえてこない。
優三は固唾を呑み込み、意を決してドアノブに手をかけた。
白魚のような指で、ゆっくりとノブを回す。
ほんの少し扉を押したところで、僅かな隙間から中をうかがった。
(・・・・。)
優三の視線の先に、机に向かう潤一の姿があった。
薄暗い中、デスクライトで手元を照らし、何かに憑りつかれた様にペンを走らせている。
優三は息を潜めたまま、静かに扉を閉めた。
(何だ・・。全然平気じゃない。)
拍子抜けした。熱で倒れていてくれることを期待していたのに、これでは以前と何も変わらない。
(新種のウィルスなんて、美鈴さんの取り越し苦労なんじゃないの?別に使用人を解雇する必要も、点滴も、全部無意味だったんじゃないの?)
大きなため息をついて、優三は自分の寝室に戻った。
安心して眠ってもいいのだと思った。
潤一の行く末を憂う必要なんかない。それより、この先もまだ当分潤一の道具として生きていかねばならない覚悟をするほうが建設的だ。
(今のうちに休んでおこう。私の安息なんて、滅多に無いのだから・・・。)
羽根布団の上掛けに身を沈め、優三は無理に固く瞳を閉じた。
約束の日の夜中に、美鈴が迎えに来た。
優三は美鈴に、「新種のウィルスなんて杞憂ではないか。」と言うつもりだった。しかし、3日前よりずっと険しく、殺気立っていた美鈴の表情を見た瞬間、何も言えなくなった。
美鈴の顔は、正気ではない。何かの薬物を使って、身体を持たせている・・・そんな異常ささえ感じる。まるで、潤一を迎えに来た死神のようだ。
美鈴は自ら潤一の書斎に向かった。優三はそれを追う気にもならず、ただ玄関ホールで待っていた。
どうせ、潤一は大丈夫なのだ。
生きて、再び優三の脅威となるのだ。
10分後。
ようやく現れた二人の姿に、優三は(やっぱり・・。)と落胆した。
潤一は青い顔ながらも、自分の力で立っていた。それを美鈴が軽く支えている程度だ。
潤一は分厚い封書をいくつも抱えていた。
潤一は美鈴に
「先に車に乗っていてくれないか。」
と言った。
「わかりました。」
美鈴が従い、家から出て行く。
二人きりになると、潤一は優三に封書を差し出した。
「俺が死んだら、これをポストに入れてくれ。」
優三は、すぐには手を差し出せなかった。
「あなたは・・・死にそうに見えないわ。」
「そうかもしれない。だが、一応の覚悟はしておかないとな。」
「あなたらしくもない。いつも自分が一番で、無敵のような顔をしていたくせに。」
すると、潤一は疲れた頬で苦笑した。
「・・・そうだったな。」
優三は、重い封書の束を恐る恐る受け取った。
死にそうに見えないのに。
なぜ潤一は、こんなにも重い覚悟をしているのか。
もう二度と戻らないような眼差しで、玄関から家の中を見つめているのか。
(ここに居るのは、本当に私の夫なんだろうか・・・。)
夫婦というより、主従関係だったと思う。
潤一は由緒正しい家の令嬢を娶って跡継ぎをつくることよりも、一生意のままに操れて世間受けの良い人形を妻にすることを選んだのだ。煩わしい人間関係を嫌い、自分以外の人間を愛することなど絶対にできない潤一には、正しい選択だったろう。誰の人生とも重なり合おうとせず、独りを好む冷徹漢。薬指にはめられたプラチナの指輪は、二人で交わした約束の証ではない。潤一にとっては、勝手に群がる女に対する印籠であり、優三にとっては一生とれない犬の首輪のようなものだった。
その絶対的な力が、今の潤一からは感じられない。
それは、単なる病気のせいなのだろうか。
やがて、潤一は自ら玄関の扉に手をかけた。
そして、優三に背を向けたまま言った。
「優三。」
「・・・。」
潤一の痩せた背を見つめながら、優三は次の言葉を待った。
「俺たちは、跡継ぎをつくっておけば良かっただろうか。」
思いがけない言葉に、優三は一瞬躊躇ったが、冷静に答えた。
「それは、人工的に?それとも自然に?」
「・・・そうだな。」
潤一の言葉尻が、少し笑ってるような気がした。
その時初めて、優三は潤一の終わりを予感した。
それなのに、初めて、二人を繋ぐ空気がほんの少し柔らかいと感じた。
美鈴の運転する車の後部座席に潤一が乗り込み、優三は助手席に座った。
「・・・私が運転しましょうか。」
「いいえ。悪いけど、私は優三を信じていないの。」
「でも、途中で事故をおこしそうなほど顔色が悪いわよ。」
「オーナーを無事送り届けるために、事故なんて絶対に起こさないわ。」
そう言い切ると美鈴はサイドブレーキを力任せに下ろし、アクセルを踏んだ。
助手席からミラー越しに見える後部座席の潤一は、いつの間にか静かに眠っていた。