第10話その4
真昼間に堂々とこの屋敷を訪れたことは、未だかつてなかったと思う。
車を玄関に横付けすると、すぐに優三が出てきた。
美鈴は後部座席の潤一の身体をほぼ背負うような形で、家の中に入った。
優三は潤一の変わり果てた姿に絶句した。
「オーナーの寝室はどこ?」
美鈴の厳しい口調に、優三は言われるまま、玄関から遠くに位置した東向きの部屋へと案内した。
潤一はベッドに横たわると同時に、深くてだるい息を吐いた。
「書斎にベッドを用意します。それまではこちらで休んでください。」
美鈴はそう言い残し、優三を連れて廊下に出た。
「一体、何があったの?」
優三の悠長な質問が腹立たしくて、美鈴は答えもせずに自分の質問をぶつけた。
「優三、3日分の食料くらいはここにある?」
「・・・ええ。使用人達が辞める前に買いだめしておいてくれたから。」
「あなたは、身体に変化はない?」
「ないわ。」
「・・オーナーが二葉を研究所に送り届けて以来、あなたはオーナーとどれくらい接触している?」
優三は思わず眉をひそめた。
「どう答えればいいのかしら?まあ、手も触れ合っていないけど。」
「そう・・・。じゃあ、多分大丈夫ね。」
「何が言いたいの?いい加減、教えて。」
美鈴は、廊下の窓から外を凝視しながら答えた。
「オーナーは、新種のウィルスに感染してる。」
「・・・それは、研究所で?」
「そうよ。二葉がウィルスの付着したメスでオーナーを傷つけ、そこから感染したのよ!」
優三はハッとして、美鈴の腕をつかんだ。
「二葉は?二葉は今、どうなってるの?」
「生きてるわよ。忌々しいことにね。オーナーと同時に感染しているはずなのに、二葉には何の症状も出ないのよ。」
「そのウィルスは、どの程度危険なの?」
「全然検討もつかないのよ。だから優三も、この家から出ないで頂戴。」
すると優三は、失笑した。
「発信機と盗聴器に縛られた私が、自分の意思でこの家を出るなんて許されると思うの?」
「そうね。ただ、今はオーナーがあんな状態だから。逃げ出そうと思えば、逃げられるでしょ。」
優三は、背の高い美鈴を見上げた。
「逃げても自由にならないことは、私が一番よく知っているわ。私がほしいのは、真の自由だけよ。」
すると今度は、美鈴が嘲笑した。
「真の自由、ね。そんなもの、この世に存在しないわ。」
美鈴はそう言うと、潤一が身体を休めながら仕事を片付けられるよう、書斎を整えた。優三に手伝わせて簡易ベッドを運ばせ、用意してきた点滴や薬品を配置する。
美鈴は細かな指示を記したメモを優三に渡した。
「解雇した使用人に電話をかけて、身体に異常がないかすぐに確認してちょうだい。それから、二葉には効かないウィルスでも、優三には効くかもしれない。感染しないように万全を尽くして。あとは、薬、消毒、栄養、点滴、全部書いといたわ。私は3日後の夜、迎えにくるから。そのときは優三、あなたも一緒に来るのよ。」
「・・・それは、あの人の命令?」
「ええ。研究所の所有物は、オーナーに万一のことがあったら、研究所で朽ちてもらわないと。」
優三は唇を噛んだまま、美鈴の目をまっすぐに睨みつけた。
「真崎潤一がこれで死んだとしても、それは当然の報いだわ。そんな私が、あなたの指示通り看病するとでも思うの?」
「これは所有物であるあなたへの命令よ。逆らう権利などないわ。」
「でも、あなたが研究所へ戻る以上、監視はできないわよね?命令に逆らったら、私を殺す?でも、命令を守っても研究所に連れ戻されて朽ち果てるのなら、どちらでも同じことじゃないの。」
「くだらない問答する時間はないのよ、優三。じゃあね。」
優三は、大声をあげた。
「待ちなさいよ!あなたが看病すればいいでしょう!?なんで私があんな男を助けなきゃならないの!私は、この男の死を待っていたのよ。そんな私に何を委ねるの?もはや命令なんて何の効力もないことを知りながら、どうして涼しい顔で私に任せるの!?」
踵を返して歩き始めた美鈴の背中に、優三は更に叫んだ。
「いいの!?私は何もしないわよ!他人に感染することは怖れるけれど、あの男が苦しむことは一向にかまわないんだから!」
常に盗聴を怖れて発言を制限されてきた優三が、今、初めて生の声を発している。
美鈴は肩越しに振り返って、その美しい顔を一瞥した。
「勝手にすればいい。ただ私はオーナーを救うために、研究所へ戻らざるを得ない。ここで看病するよりも救える可能性が高まるから。・・・それだけよ。」
玄関の扉の閉まる重い音を聞きながら、優三は震える前歯で唇を噛み締めた。
優三の抵抗など、美鈴には怖るるに足らないということなのか。
それとも・・・。
リビングのソファの隅で膝を抱えながら、優三はまんじりともせず次の日の朝を迎えた。ここなら、潤一の書斎の様子を微塵も感じずに過ごせる。例え今あの男がどうなっていようと、知ったことではない。だが、実際に潤一の身が滅びていく様子を目の当たりにはしたくない。目にした時の自分の行動が予測できないからだ。
美鈴のメモは、破いて捨てた。
優三にとって、それが「何があろうと絶対に潤一を助けない」という決意だった。
初めて会ったあの日から、ずっとあの男に隷属させられてきた。
それが優三の人生の全てだった。
どんなに美しい宝石や服を買い与えられても、それらはすべて潤一のために過ぎなかった。
優三には、「自分自身の人生」を生きることが許されなかったのだ。
逆らえば、殴られ、蹴られ、監禁される。
警察に逃げ込もうとしても、その寸前で連れ戻された。
マスコミにリークしようとしたら、すぐ潤一にばれて、薬を打たれて半日以上悶え苦しんだ。
(どうして、そんな男を助けなきゃいけない?苦しめばいいのよ。いくら苦しんだって足りないくらいよ。あの男が一体何人の人間の人生を奪ったと思うの?新種のウィルスに感染なんて、因果応報というものよ。十分に苦しめばいい。そして、死んでしまえばいい!)
抱えた膝に額を埋めて、優三は奥歯を噛み締めていた。
潤一の苦しむ姿なんて、一生見られないと思っていた。
それが、こうして現実になったのだ。念願が叶ったのだ。
(なのに、どうして嬉しくないの?どうして・・どうしてこんなに苦しいの・・・!)
優三は知っている。
美鈴が、潤一を一途に思い続けていることを。
そしてその恋心を、潤一がずっといいように操ってきたことを。
すべて承知で、美鈴は未だ潤一だけを思っている。
それが、切ない。
美鈴がしていることを思えば、決して同情などできない。
だが、恋を知らずに生きてきた優三には、時々美鈴が羨ましくなることがあるのだ。
そしてその思いから、優三はどうしても美鈴を憎みきれないでいる。
(彼女は命がけだわ。それはわかる。でも、だからといってあの男を助ける気はない。だって、二人とも今まで多くの命を弄んで犠牲にしてきたのよ。そんな人間が命を救われるなんて、間違ってる・・・。間違ってるわ。)
置き時計の秒針が空間を刻むたびに・・・
優三はその考えを、骨の髄に刻み続けた。