第10話その3
それは、金曜日の深夜だった。
間もなく12時をまわろうかという時間に、真崎潤一は玄関に立った。
使用人はすでに眠っている。そんな中、優三だけが潤一の様子に気付いた。
「こんな時間に、どちらへ・・?」
振り向いた潤一は、めずらしくネクタイをせず、白いワイシャツに紺のジャケットを羽織っただけのラフな恰好だった。
潤一は靴を履き終えると、言った。
「月曜の朝は、直接会社へ行くつもりだ。それまでに、使用人を全員解雇しておいてくれ。」
「!・・・どういうこと?新しい使用人を雇うの?」
「違う。しばらく、使用人無しで生活することになると思う。俺の名を使って、紹介状を書いて渡してやれ。あと、退職金代わりの小切手を。サインはしてある。リビングの机の上においておいた。好きな金額を書いて渡せ。」
優三は、潤一の突然の言葉に驚いた。いったい、何を考えているのか。
不気味、というより、胸いっぱいの不安を煽り立てる。
「こんな時間に、どこへ行くの?二葉を研究所に連れ戻して以来、あなたは毎日追い立てられるように仕事をしてた。その上、今度は留守にする上、使用人を解雇しろ、だなんて!」
「そんなこと、説明する義理はない。」
潤一は背を向け、そのまま出ていった。
重たい玄関扉の閉まる音が、優三の背骨に響いた。
(一体、何が起こっているというの・・・?)
今まで、使用人をすべて解雇しろなどということはなかった。それに、解雇するときは紹介状はおろか、退職金なんて微々たる額しか渡したことがない。その潤一が今回は、優三に好きな額を書いていいと言う。
絶対、尋常でない。潤一の身に、何かが起こっているはずだ。
(もしかして、警察の捜査にでも遭うというの・・・?)
潤一が捕まれば、優三も疑われるだろう。そして、研究所のことも。
(そしたら私は、解放されるのだろうか。それとも・・・・)
研究所を訪れた潤一は、見た目は、以前と何も変わらない。
ただ、傷口に包帯を巻いているだけだ。
出迎えた美鈴は、すぐに特別な部屋へ潤一を案内した。
バイオハザードのマークが掲示された扉の向こう側。それがAブロック ― 防護服を着用した関係者以外の出入りを厳禁とした、特定エリアである。
ベッドに寝かされた潤一は、麻酔の注射を受けながら言った。
「月曜の朝には、社へ戻りたい。」
「・・・わかりました。全力を尽くします。」
もし、このまま潤一が二度と目を覚ますことがなかったら・・・?
そんな不安が一瞬、美鈴の脳裏をかすめた。が、躊躇う暇はない。
潤一の麻酔が完全に効くのを待って、美鈴は生涯最大ともいえる試練にメスを入れた。
日曜日の朝が訪れた。
無菌室にこもりっきりで、必要最小限の研究員とともに緻密な作業が続く。
潤一の検体から、病原体診断として新種ウィルスの遺伝子検出と培養細胞による新種ウィルスの分離を行う。
研究員の一人が美鈴の隣に立った。
「主任。私がウィルス分離検査にまわります。」
「細胞変性効果を観察して。陰性でも、あとで培養上清をPCRにかけてウイルス遺伝子の
検出の有無を確認して。」
「ですが主任。『あとで』とは、一体どれくらい?」
「・・・今はわからないわ。」
ウィルスによる身体への影響が特定できない上、潜伏期間が不明のため、いつ、どう動き出すかわからない。
ただ、潤一の傷口は徐々に悪化していることだけは確かだ。二葉には、傷が再び浮かび上がるなんて様子は微塵もないのに。
「主任。二葉の血液と髄液の分析と遺伝子解析の結果です。」
「オーナーの方は?」
「すみません、もう少しかかります。」
「オーナーは、あと24時間しかここにいられないのよ!?もう少し危機感を持ってよ!」
美鈴は持っていたデータ用紙の束を、机に叩きつけていた。
誰の顔にも、疲労の色が滲み出ている。そんなことは、わかっているのに。
研究員は深く頭を下げ、去っていった。
次の瞬間、美鈴の膝がガクンと崩れた。
目の前の景色が歪んでいる。
(・・・こんな大事なときに、私は・・・。)
眼鏡の奥から、涙が溢れてきた。
疲れているのか。
自分に、絶望しているのか。
所長である兄が開発した検査法は、既存のものとは比較にならないほど優秀だったはずだ。だが、それら全てを試しても反応が見られない。兄が改良に改良を重ね、他国の研究所で作られた人工ウィルスのデータにも対応した解析プログラムでも、手に負えない。
(だからお兄様は、このウィルスに興味を持ったのだろうか。新しいデータになると思って、危険を承知で送ってきたに違いない。それをばら撒いたのは、私。私の失態だわ・・!)
と、その時だった。
「主任!来てください!」
一人の研究員に呼ばれ、美鈴ははじかれたように走り出した。
たどり着いたのは、潤一のベッドだった。
潤一の額の汗を見た美鈴の全身は、凍りついた。
発熱だ。
手術用の半透明の手袋をした手で、潤一の頬から顎、首にかけて、軽く押しながら感触を確かめる。
「リンパが腫れている・・。この熱は、いつから?」
「1時間前に検温に来たときは、平熱でした。」
美鈴はハッとして、研究員に尋ねた。
「二葉は?二葉の様子は誰が見ているの?」
「これから私が行く予定です。1時間前は、やはり平熱でした。」
「いい、私が直接行くわ。あなたはすぐにオーナーの処置を!それからX線写真を撮って。ああ、その前に血液採取。リンパと血小板数を出して頂戴。もし咳が出始めたら、すぐに知らせて!」
美鈴は二葉の部屋の扉を破らんばかりに開けると、眠っている二葉の上半身を起こした。
額に手をやるが、熱はない。
(二葉からもウィルスは検出されているはずなのに症状が起こらない・・・。でも二葉は遺伝子操作されているから、純粋なヒトであるオーナーとは違う。参考にはならない。万が一、二葉に生まれつき抗体があるのだとすれば・・・。)
美鈴は潤一のところに戻った。
看病に当たっている研究員は、体温の結果を美鈴に見せた。
「37度5分からは、上昇していません。」
「・・血圧は?」
「若干低下しています。」
「発疹などは?」
「今のところ、見られません。」
「胸部X線は?」
「異常はありません。」
「あとでもう一度撮ってもらうわ。とにかく油断は禁物よ。変化があれば、すぐに知らせて。」
「はい。」
ひっつきそうなほどに乾いた喉で、美鈴は高鳴る心臓を押さえ込もうと必死に深呼吸をした。
(一刻も早く手掛かりがほしい。そうでなければ、どうすればいいかわからない。)
同定できないまま、月曜の朝になった。
潤一の熱は下がらないが、他の症状は見られない。
目を覚ました潤一に、美鈴は言った。
「申し訳ありません。まだ手の打ちようがありません。ですが、感染は・・確実と思われます。このままここに、お残り下さい。」
「それは、無理だ。」
潤一は身体を起こした。美鈴は、慌ててそれを止めた。
「駄目です!感染経路が特定できません。オーナーを研究所から出すことは、研究者として絶対にできません!」
「このままここで死ねないんだよ。俺は色々なものに対して責任を負っている。あの3日では、1週間程度の穴埋めをしてきたにすぎない。・・・万が一に備えて、すべてを片付けたい。」
「感染を広げるわけにはいきません。」
「そんなことはわかっている。もう、会社へは行けない。だが、家へは帰ってもいいだろう。使用人はすでに解雇してある。接触するのは、優三だけだ。家でなら、すべての片を付けることができる。」
「・・・しかし・・・。」
「優三なら、感染してもかまわないだろう。次に俺がここへ戻るときは、優三も連れてくる。あれは、俺の所有物だからな。俺の見えないところで生きていくことは、許さない。」
美鈴は、唇をギュッと引き締めた。
「何日、お望みですか。」
「3日だ。」
「そんなにですか?駄目です。すでに発熱していて、潜伏期間はすぎています。この後どうなるか・・。」
「だが、これ以上の症状が現れることなく終わる可能性だってあるはずだ。」
「それはそうですが・・・!」
「どうせウィルスが特定できない以上、処置もできないんだろう?なら、どこにいても同じだ。」
「研究所にいてくだされば、一刻も早く手を打つことはできます。」
「・・・責任があるんだよ。上に立つものとしてのな。」
美鈴と潤一の視線が、激しくぶつかった。潤一の気持ちもわかる。第一、助けられる見込みもない、こんな状態では・・・。
やがて、美鈴は頷いた。
「わかりました。ただし、私が運転してお宅までお送りします。熱が上がって、途中で事故でも起こされては困りますので。」
「だが、今みたいな防御服で運転するのは無理だろう。」
「もちろん、脱ぎます。私自身は、感染を怖れてはいません。怖れているのは、他の研究員に感染してしまうことだけですから。」
「・・・いいのか。」
「こういう仕事です。感染を怖れていては、何もできません。それに・・・。」
(どうせあなたが死んだら、私も生きてはいられない・・・。)
だが、他の研究員達は、潤一と美鈴が狭い車の中で接触することに猛反対した。
「もし主任に万が一のことが起こったらどうするんです?誰がこのウィルスに対処するというんですか!?」
美鈴は苦しい表情で、首を振った。
「でも、何の解決策も見出せない今、オーナーをここに引き止めておくことはできない。ただ、死を待てとは言えないのよ。」
「では、私が邸宅まで送ります!それなら、よろしいでしょう?」
美鈴より若い研究員の申し出を、美鈴は優しく断った。
「いいえ。そんなことをしたら、それこそ所長に叱られる。私の使命は、研究員の命を守ることでもあるのだから。」
「そうおっしゃるなら、なおのこと、ここにお残り下さい!この危機を救えるのは所長が留守の今、主任しかありえないのですから!」
研究員達の言葉は、疲れた美鈴の身体に染み渡った。
美鈴だって、もう、どうしたらいいかわからない。
大体、新種のウィルスの同定には時間がかかるものなのだ。いくつかの発症事例を参考にしながら様々な検査で特定していくのが通例だ。細胞変性効果が陰性であることが判明してからの培養上清の遺伝子検出までにだって2週間は待ちたいところなのに、そんな時間さえない。
「とにかく、オーナーを送ってすぐ戻るわ。長くても往復6時間の接触よ。マスクくらいはするしね。」
「ですが主任。オーナーが家から一歩も出ないことは本当に可能ですか。それに、優三だって外に出られては困りますよ。もしかしたら優三だって既に感染しているかもしれない。そんな身体で買い物なんかに出て、空気感染で広がりでもしたら、それこそ一大事です。この研究所だけの問題ではなくなります。」
美鈴は頷いた。
「それはもちろん、注意するわ。」
「しかし・・・いくらオーナーの申し出でも、やはり賛成しかねます。主任。」
「あなたたちの意見はわかったわ。でも、行くわよ。」
「主任!」
「だって、仕方ないでしょう!?」
美鈴は、思わず叫んでいた。
「もう、あなたたちだって覚悟してるでしょう?オーナーを救えないかも、って!救えない確率の方がずっと高い、って!」
大声をあげた瞬間、美鈴の瞳から涙が溢れた。
「死んでしまう人間を、どうして縛り付けておけるの!?最期の願いくらい聞いてやりたいじゃない?聞いてやるしかないじゃない!オーナーが何しに戻ると思うの?すべての清算をしに戻るのよ!?」
静まり返った空間で、美鈴の涙が頬を流れる音が聞こえるようだった。
美鈴は、心底自分が情けないと思った。
自分の命よりも大事な男の命を、救うこともできない。
もう、誰も何も言わなかった。
美鈴は潤一を連れ出し、車の後部座席に乗せた。
車の窓をきっちりと閉め、美鈴は早朝の高速を走りぬけた。