第10話その2
美鈴の招集からぴったり5分後。
会議室に全研究員が集合した。
美鈴は真崎潤一の傷の経過と、今まで把握したウィルスの特徴をデータとスライドで説明した。
「現在、ヒト、動物、細菌細胞への感染状況を観察中。分解と増殖は今のところ緩やか。ただし、複製のための酵素を自ら持ち込むタイプよ。」
すると、研究員の一人がちょっと考えながら言った。
「オーナーが怪我をしたとき、実験台上のメスは一本でしたか。」
「ええ。それ以上は机上に出していないわ。」
「じゃあ、そのメスで二葉も傷を負ってますよ。」
美鈴は驚いて、思わず立ち上がった。
「何ですって?」
研究員は落ち着いた表情で、美鈴を見上げた。
「オーナーを傷つけた反動かどうかはわかりませんが、確かに、親指から少し血がでていました。」
「・・・その後、二葉を見た?」
「死なせない程度に生かしておけという命令でしたから、毎日、私は会っています。傷は小さかったので、2日後には殆どなおっていました。今日も会いましたが、再び傷が浮き出るようなことはありません。」
「間違いない?あなたの思い過ごしとか・・。」
「とんでもない。二葉は試料です。きちんと観察記録をつけています。間違いありません。」
美鈴は、1分ほど考え込むと、一気に命令を下した。
「研究はすべて所長の研究室と、隣接する無菌室で行います。セキュリティレベルを最高位まで上げて、Aブロックからの出入は禁止。くれぐれも慎重に、頼みます。この研究所存続のためにも、オーナーを絶対に救わなければ。」
研究員達が動き出すと、美鈴は一人、二葉が閉じ込められている330号室へと向かった。
鉄の扉は引き戸になっている。
開けると、錆くさい臭いが美鈴の鼻をついた。
二葉は眠っているのか、呆然としているのか、死んでいるのかわからないような表情で灰色の壁にもたれていた。
美鈴は二葉の脇に跪くと、親指を見た。
記録によれば、右手の親指の第一関節に斜めの傷があったという。今は、研究員が言ったとおり、見た目は何もない。美鈴は試しに、二葉の親指を強く圧迫してみた。
痛みは感じないのか、二葉の身体はビクとも動かない。
「ここ、痛みを感じない?」
美鈴の声を聞いても、二葉は虚ろな目のままぼんやりとしている。
美鈴は業を煮やして二葉の頬をたたいた。
「しっかりしてよ!痛いか、痛くないか、はっきりして!」
しかし、二葉の様子は変わらない。仕方なく、他の研究員を呼び出した。
「二葉の採血、それから細胞組織の検出。分析データを急いで出して頂戴。」
「はい。」
潤一が感染していても二葉が感染していなければ、何かの手掛かりが掴めるはずだ。
(こんな時くらい、役に立ってもらわないと・・。)
と、そのときだった。
「主任!早く来てください!」
別の研究所員が駆けつけた。
「どうしたの?」
「ウィルスのヒト細胞への反応が顕著に!」
美鈴は研究所員とともに、研究室へと走った。
電子顕微鏡の周りに、皆が集まっている。
美鈴が来ると、所員は数枚のデジタル画像を提示した。
「ヒトのリンパ球にウィルス感染させた試験管内から採取した様子です。新しい細胞株に変異しています。しかも、頻繁に形が変わるんです。」
「頻繁に?」
「はい。1時間ペースで、遺伝子組み換えが行われています。」
美鈴は、額に浮かんだ汗を拭った。
自分の手には負えない。
そう思ったが、立ち止まるには早すぎる。
「1時間ごとのウィルスの構造を出してちょうだい。それから、ヒトの他の部位のウィルス状況と比較して。もう少ししたら二葉の細胞があがってくるはずだから、それをすぐに検査にまわして。」
美鈴は時計を見た。
今が午前11時なのか、午後11時なのかさえわからない。
誰かに助けてほしいと思った。
だが、誰もいない。
研究所員達はあくまでも研究所の手先であり、協力以上のものは求められない。
美鈴は、今までどれほど兄に依存していたか、つくづく思い知らされた。
兄がいなければ、何もできない無力な人間だったのだ。
情けない。
もし潤一を救うことができなかったら、自分は生きていられない。
感覚の鈍くなった身体に鞭打って、美鈴は再び顕微鏡に向かった。
次の朝。
美鈴は、再び潤一からの電話を受けた。
「様子はどうです?」
『血は止まった。だが、傷口が少し化膿している。』
美鈴は、震える唇で言った。
「これ以上、放って置けません。どうか医者へ。オーナーの会社の医務室の医師でもいいから、医者にかかってください!」
『ウィルスの正体はわかったのか?』
「・・・いいえ。」
『ならば、普通の医者へかかったってどうにもならないだろう。』
「では衛生研究所でも、感染症研究所でもかまいません。」
『君がつかめないウィルスの正体を、公の研究所の奴らが容易く割り出せるとは思えない。大体、感染ルートをしつこく尋ねられて面倒なだけだ。』
美鈴は、首を振った。
「もう、手段は選べません。抗血清ができるかどうかも、効くかどうかもわからないんです。本当に、もしかしたら死んでしまうかもしれないんです。・・・お願いです。」
だが、潤一は迷わずに答えた。
『公の機関で命を救われても、遠野研究所のことが明るみに出れば俺は犯罪者だ。家名にも傷がつく。そんなことはできない。』
「ご自分の命を何だと思っていらっしゃるんです?名誉とか、家名とか、そんなものと引き換えになさらないでください!」
すると潤一は、ため息混じりに言った。
『・・・だから。だから俺は、遠野研究所に命を預ける。俺の研究所だ。俺の命くらい救ってもらわなければ、割に合わない。』
美鈴は受話器を握り締めた。
生涯ただ一人愛した相手から命を委ねられることは、幸せなことだ。だが、それは「救える」という前提での話だ。今は、救えない可能性のほうが高い。
「兄が・・・兄がいれば、可能性はあります。でも・・・。」
『そんな、泣きそうな声を出さないでくれないか。本当に、終わりのような気になる。』
潤一の声は、いつになく優しかった。それは、美鈴を奮い立たせるための計算だったのかもしれない。だが美鈴にとっては、この上なく切ないことだった。
指を胸の前で組んで、祈った。
この一件が、大事にならずに済むように、と。
だが、美鈴はその時、自分に問いかけた。
自分は一体、誰に祈っているのか。
神か?
仏か?
(違う。私は・・・。)
美鈴は、不意に思い出した。
優三から「あなた達は、神にでもなろうというのか」と問われたときに、答えた言葉を。
― 私は、神なんて実体のないモノには決してできないことを、実現するのよ ―
(そうよ。私は、偶像崇拝なんて愚かだと思っている。神なんていない。そんなものに、期待なんかしない。それなのに・・。)
では、今、美鈴は何に対して祈っていたのか?
「潤一が新種のウィルスに感染していないように」と、誰に祈ればいいのか。
(そうよ。祈る相手なんかいない。起こってしまった問題は、自分で解決する努力をするまでよ。)
今までもずっと、知らぬ間に祈っていたことはある。だが、それはいつも、無意味だった。
(そう。もう私は、何があっても祈ったりしない。私は、私を信じるだけ。信じて、実行することこそ、一番、いつも、私を救っていたはず!)
美鈴は白衣を翻して研究員達のもとへ走った。
「遺伝子構造の解析は?」
「まだです。」
「DNAの塩基配列の解読は?」
「全力を尽くしていますが、無理です。時間が必要です。」
「どんな手掛かりでもいい。何か気付いたら、すぐに教えて。」
空気が、ギリギリまで張りつめている。
美鈴の神経も、ちょっとした衝撃で切れてしまいそうだ。
だが、こんな時こそ冷静さを保たねばならない。
「電子顕微鏡での観察を続けて。とにかく、検査を急いで進めて頂戴。」
美鈴は、伸びすぎた前髪をかきあげた。
(早々に目途をつけなければ。もし本当にオーナーが感染していた場合、他の研究員にどう感染するかわからないのだから。そんなことだけは、絶対に避けなければならない。それが研究所の責任者としての務めだもの・・・!)