第10話その1
美鈴は研究所員に命じ、必要と思われる物品や薬品の購入を急がせた。
検査そのものも研究所員に手伝わせたい所だが、どんな種類の伝染性を持つとも限らないため、データ解析のみ頼ることにした。
どんなに祈ったって、最悪の事態は、起こる時には起こる。だったら、それに備えておくことの方が賢明だ。
所長専用の研究室の一角の無菌室で、美鈴は一人で組織培養によるウィルスの分離に取り掛かった。
この研究室に他人を入れるつもりが毛頭なかったことから生じた、油断による災難だ。ただひたすら、自分自身を責めるしかない。我を忘れた二葉がメスを手に取れるような状況を生み出したのも、自分だ。その責任を取るために、寝る間を惜しみ、実験机に向かう。
指先が冷たくなっても、手が小刻みに震えても、やめられはしない。
徹夜が2日ほど続いた時、研究所員の一人から内線で連絡が入った。
『お知らせしたいことがあります。伺ってもよろしいでしょうか。』
「いいえ、私のほうからそっちへ行くわ。」
立ち上がると、頭の中がぐらりと揺れたような感覚におそわれた。思わず目を閉じてしまったが、そうするとそのまま眠ってしまいそうだ。
美鈴は眼鏡をはずすと眉間を指先で押さえ、拳をぎゅっと握りなおした。
所長室から他の研究員達のいる研究室へ行くためには、5つのセキュリティゲートを通り、迷路のように複雑な道のりを、どんなに慣れても3分以上はかかって歩かねばならない。美鈴にとって最も足が疲れない5cmヒールの踵が、今は地面に埋まりそうなほどに重い。
やっとの思いで研究室に着くと、所員たちが美鈴の下に集まってきた。
「主任、これを。」
出された書類に素早く目を走らせた。
「あんなに色々なプライマーを用いたのに、PCR検査の結果はすべて陰性だったのね。」
「はい。そこで提案なのですが、私達にも検査を手伝わせて下さいませんか。」
美鈴は、首を振った。
「いいえ。それは危険すぎるわ。」
「主任は、ウィルスの正体を掴むことを急いでますよね?でしたら、」
「急いでいるわ。でも万が一あなたたちに感染したら、それこそ一大事よ。所長のいない今、そんな無謀なことはできないわ。」
研究員8名の顔を一人ひとり見渡し、美鈴は頷いた。
「ありがとう。気持ちは本当に嬉しい。もし本当に行き詰ったら・・・お願いするわ。でも、今はできるだけ被害を最小にとどめておきたいの。」
「主任は相当お疲れのようです。少しは睡眠をとりませんと。」
「そうね。転寝して液体をばらまきでもしたら、それこそ取り返しがつかないものね。」
美鈴は、微笑んで見せることで研究員たちを安心させ、無菌室に戻った。
リクライニングのついた椅子に身体を投げ出し、瞳を閉じた。
(オーナーが感染していないことを、祈るしかない。でも、でも・・・。)
考える間もなく、美鈴は深い眠りについていた。
そのとき見た夢を、美鈴は覚えていない。
だが、今の美鈴に、見る夢など必要ない。
あと少しすれば、嫌になるほどの悪夢を見なければならないのだから。
美鈴からの留守電を聞いて以来、真崎潤一は手の甲の傷に十分な注意を払っていた。
薄い唇を指先でなぞりながら、潤一は傷口の行く末を毎日眺めていた。
傷は浅かったためか、3日後には完全になくなった。
潤一は安堵の息をついた。
ところが。
その3日後、突然傷口が再び痛みだした。
見た目は、何もない。だが、皮膚の奥深くが疼くのだ。
(一体どういうことだ・・・?)
眉をひそめて、再び手の甲を睨みつける。傷口の跡も、何も見えない。気のせいかもしれない、と、そのままにしておくことにした。
次の朝。
(これは・・・!)
目覚めた瞬間、潤一はさすがに身の毛がよだった。
傷口が、もとに戻っている。
うっすらと浮かんだ一筋の血。
潤一は慌てて手を流水にさらした。
血はすぐに洗い流され、しかし、またすぐに浮き出してくる。
10分経過しても、状況は変わらない。
潤一は傷口を清潔な包帯できつく縛り上げ、携帯を手に取った。
美鈴の伝言どおり、すぐに報告せねばならない。
潤一からの一本の電話は、検査の出口が一向に見えなくて焦っていた美鈴を、恐怖で振る上がらせるのに十分だった。
潤一から話を聞いた美鈴は、目の前が真っ暗になるのを感じていた。
すぐ、手を打たねばならない。
「今日中に、研究所にいらっしゃれますか?」
『それは無理だ。3日待ってくれないか。そしたら仕事に蹴りをつける。』
「・・・一般の病院に行ってください。この際、止むを得ません。」
『あのメスは、実験に使っていたものだろう?一体、なんだったんだ?』
「正体がわからないウィルスで・・・正体を探っている最中だったんです。」
『では、病院になど行けない。遠野研究所との繋がりが、どこでどう暴かれるかわからないからな。』
美鈴は、顎をぐっと持ち上げた。
「では、3日後にお待ちしています。私達も全力を尽くします。」
『・・・頼む。』
電話を切ると、知らず知らずのうちに、美鈴の瞳から大粒の涙がこぼれた。
最も怖れていたことが現実になってしまったのだ。
(あの人にもしものことがあったら、私は・・・!)
美鈴は拳を何度もぎゅっと握りなおし、奥歯を噛んで必死で涙を止めた。泣いてたって、何も始まらない。帰らぬ兄を待つことも、意味の無いことだ。
(落ち着いて・・・。落ち着くのよ。できる。絶対に、できるはず・・!)
美鈴は唇を噛むと、呼吸を整えて研究員達の部屋へ内線電話をかけた。
「集まって頂戴。あなた達にお願いせざるを得ない状況になったわ・・。」