第9話その1
集団暴行を受けた一件以来、誰の思惑でもなく、二葉は家から一歩も外へ出られなくなった。庭を散歩できても、門から一歩踏み出そうとすれば、吐き気や頭痛で立っていられなくなるのである。ただでさえ記憶を失くしている事を悩んでいたというのに、追い討ちをかけるような衝撃。優三がどんなに優しく接しても、それはもはや意味の無いことだった。
二葉とて、その状況を脱しようと必死だった。優三をこれ以上心配させたくない。そうでなくても、厄介になっている身だというのに。だが、もがけばもがくほど深みにはまって、身動きがとれなくなるのだ。
二葉は、優三に懇願した。
「お願いです。どうか、私の過去を教えてください。記憶を取り戻せば、少しは前へ進めそうな気がするんです。奥様は、何かご存知なはずでしょう?私のピアスと奥様のピアスが同じである理由を、教えてください。」
優三は、ただ首を振るしかない。無理だ。二葉に、これ以上のショックを与えることなどできない。
潤一は新しい学校への転入手続きを済ませたが、1月になっても二葉の症状は少しも好転しなかった。新しい制服を見ることさえできない。だが、潤一はそんな二葉に容赦なかった。
「言ったはずだ。この家にいる以上、主人の言うことに従うのは当然だと!」
潤一は、身体が動かない二葉を布団から引きずり出した。そして、運転手の浅井に手伝わせて二葉を車へ乗せようとした。
二葉は、抵抗するわけでもなく、嫌がって叫ぶわけでもない。ただ、恐怖に震え、吐き気を訴えるだけである。
「やめて、あなた!」
裸足のまま外へ飛び出した優三が、潤一にすがりついた。
「無理です!そんなの、見ればわかることでしょう!?」
「甘ったれるな!学校へ行くことが、この子の使命だ!それを拒否する権利などない!」
「あなたは勝手です!都合によって学校へ行くことを禁じたり、逆に強いたり!」
「当たり前だ!二葉は私の研究所の道具なのだから!」
その瞬間、骨抜きになっていたはずの二葉の身体が、ピクンと反応した。
(ケン・・・キュウジョ・・?)
この単語を、どこかで、何度も、何度も聞いた気がする。
二葉の瞳に、僅かな生気が戻った。
細い足でよろめきながらも、二葉は地に足をつけた。
「研究所・・・って、何ですか。」
潤一は、にやりとほくそ笑んだ。
「ほ・・・う。流石にこの言葉には反応するんだな。」
優三は青ざめ、唇を震わせた。今の二葉が、過去の真実を受け止めることなどできるわけがない。
しかし今回は、二葉のほうが潤一に詰め寄っていた。過去を知ることでこの精神状態から脱することができるのならば、このチャンスを逃す手はない。
二葉は潤一に言った。
「教えてください、私が何者か。どんなことを聞いても、私は驚きません。覚悟はできています。」
「言ったな?後悔しても知らんぞ。」
「後悔などしません。過去を知り、そのおぞましさに耐えられなくて発狂したとしても、絶対に後悔しません。今のこんな情けない状況で鬱々としているより、ましです!」
優三は、二葉の前に立ちはだかった。
「駄目よ!後悔するわ!知らないほうがいいのよ。そのためにあなたの記憶は封印されているのだから!」
言ってしまってから、優三はハッとした。
今、言ってはならない事を口走ってしまった気がする。
「・・・そんな・・・ひどい過去なんですか・・・。」
二葉が震えながら訊いてきた。答えられない優三の隙を見た潤一は、二葉の腕を掴むと車に乗せた。そして、振り向きざまに言い放った。
「浅井、今日一日休め!これは、命令だ。」
「・・・はっ。」
潤一は運転席に乗り込むと、すぐに車を走らせた。使用人のいる前で、あれ以上のことは喋れない。むしろ、喋り過ぎてしまったくらいだ。
(まあ、いい。余計な事が起こりそうなら、あいつらを消すまでだ・・。)
不安気な二葉を助手席に乗せたまま、潤一は高速に乗った。
行く先はただ一つ。
約1年ぶりの、遠野遺伝子工学研究所だ。