第8話
美鈴が触れる窓ガラスは、いつも冷たい温度を含んでいる。
研究所の最上階に位置する自室から外の景色を眺めていると、なぜか過去のことばかり思い出してしまう。そしてその度に、苦い記憶を噛み締めるのだ。
潤一が美鈴と関係を持ったのは、後にも先にも、あの一度きりだった。
(つまりあの男は、私を支配するためには一度で十分と踏んだのだ・・・。)
5年後に帰国した潤一はすぐに優三と結納を交わし、優三の大学卒業を待って結婚した。当然、結婚式にも披露宴にも遠野家が招かれることはない。ただ美鈴は、聞かされた事実だけを空想し、現実として受け止めるだけだ。
美鈴が、どれほど優三を羨んだことか。
同じ手順で同じ境遇に生まれたというのに、遺伝子操作の結果如何で、この差だ。美鈴は遠野一族の知能をそのまま継いだだけで、それ以上の成果は何もなかった。一方優三は、もととなる遺伝子以上の美貌と品格と、望まれる知性を備えた成功品。真崎潤一に納めるだけの価値を持って生まれたのである。
代々、真崎家に仕えてきた遠野一族。
これは、今後も続くのだろうか。互いの血が、引き継がれていく限り。
(この研究所は二葉が継ぐのだろうか・・・。あんな生活で、まともに勉強もさせてもらえないあの子が、研究所を継ぐことなどできるのだろうか?)
口に当てた指の関節を軽く噛みながら、美鈴は部屋の中をゆっくりと巡り歩いた。
一体、自分たちはどこへ向かって歩いているのかわからなくなる。優三に、「何をしたいのか。」と聞かれたとき、ちゃんと答えられた。それなのに、時々自信がなくなる。
(それは、そうよ。だって私達の方向は、私達の意志で決まるものではない。真崎家の意向次第で、どんな方向へも行かざるを得ないのだから・・・。)
そんなある日、美鈴のもとへ小さな木箱が届いた。
それは、外国の研究所にスパイとして潜入している兄からだった。真崎潤一に命令され、二葉の命と引き換えに危険な任務についている兄。手紙一つ出せないと思っていたのに、これは一体どういうことだろう?
(まさか、兄の名前を語った爆発物とか・・・!?)
一瞬、そんな不安が美鈴の脳裏をよぎった。しかし、宛名の文字は確かに兄の筆跡だと思う。
固唾を呑み込み、美鈴はおそるおそる蓋をあけた。
明るみに出た箱の中身は、一枚の手紙と、何重もの新聞紙に包まれた小さな試験管だった。
(・・これは・・・?)
白茶けた薄っぺらな小さな紙切れには、『この液体の正体を調べておいてほしい。』とだけ書かれていた。
試験管の中には透明な液体が八分目まで入れられている。うかつに蓋をあけて臭いを嗅ぐことも、僅かな液体をこぼしてしまうことも厳禁だ。伝染病の菌だった場合、失敗したら美鈴だけでなく研究所自体が絶滅する可能性もある。
(・・・実験台があれば、手っ取り早いんだけど。)
しかし兄のいない研究所を守らねばならない立場上、半日以上留守にすることは躊躇われる。
(はやく帰ってきてほしい。私一人では、この研究所は重過ぎる。)
兄の基だって、どちらかといえば気弱な性格だ。特に潤一と出会ってからは、いつも一歩引いて物事を傍観しているような感じさえする。
本当は、虫一匹殺せない兄。なのに、医師としての訓練を続けるうちに人間の身体を刻むことには慣れてしまった。人間を実験に用いることは殺戮ではないと、まずは脳にたたきつけ、段々と心に理解させていったのかもしれない。美鈴自身が、そうであったように。
きっと、二葉も同じなのだろう。
気が弱く、人を貶めることなどできない性格。だから今、かつての美鈴や基と同じように自分自身との葛藤に苦しんでいるのだ。
(初めから強い人間などいるわけがない。色々な状況に揉まれ、強くならなければ生きてこられないから、強くなろうと努力をしてきただけなのに。)
― 君は、強いから大丈夫だね ―
昔、何かの危機的状況下に置かれたとき、教師にそう言われたことがある。その教師は、別の場所で泣いていた女子の方へ行ったきり、戻ってこなかった。美鈴だって、怖くてたまらなかったが、ここで泣いても何も始まらないと思って必死に耐えていただけだった。誰かにすがりつきたいのを、我慢していただけだった。その我慢を、「強い」と言うのか。
(世の中には、我慢しようとしても出来ない人がいるのだろうか?そういう人が弱い人として、誰かに守ってもらえるのだろうか。)
ただ、誰にも守ってもらえない人生を歩まねばならない美鈴に選択の余地はなかった。しかし我慢できない人ほど、他人の優しさをもらえるという現実が許せなかった。弱さを隠し、強くなろうと必死に戦っている自分が可哀想になることさえあった。
(・・・ああ、そうだ・・・。)
美鈴は、潤一に陥落した決定的な理由を思い出した。
それは、潤一が美鈴を抱いた後に言った言葉。
― 君は、君のその強さを誇りにするがいい。それこそが、真崎家が遠野家を信頼する何よりの証なのだから ―
冷たくなっていく裸の肩を自分の手で温めながら、美鈴は潤一の言葉を身体の芯にまで刻みつけたのだった。
美鈴は、潤一から愛されようなどという甘い幻想は抱いていない。
ただ、潤一が美鈴の人生の支えだった。この支えなくして、美鈴はこんな人生を生きてはいられない。潤一がいるからこそ、すべて耐えられるし、すべてを呑み込めるのだ。
研究所を続けている以上、潤一との繋がりが絶たれることはない。うまくいけば、一生、潤一を見続けていることが許されるのだ。そのためなら、どんな命令にも従う。
もし潤一がいなくなったら・・・。
(私はきっと、生きていない。)
大恋愛なんて、いらない。
結婚も、子を持つことも望まない。
平穏な人生も、いらない。
潤一と出会え、一生潤一を見つめ続けていられること。それ以上の人生など、あるわけがない。
それこそが、最高の人生だ。
それこそが、美鈴の道。