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第7話

 美鈴が拉致を実行したのは、12月半ば。

 街中がクリスマスムードに溢れ、話題全てが年末へと向かっている最中だった。

 通常は麻酔で眠らせ、そのまま実験を行うのだが、今回は少し勝手が違っていた。

「目を覚ましたら、やれ。」

 それが、潤一からの指令だった。

「この少女を刻めと言ったのは、優三だ。めずらしいだろう?だから、そのリクエストにきっちり応えてやってくれ。なに、他人を傷つけることを厭わない子なんだから、自分が痛めつけられても文句は言えまい?」

 美鈴はメスを握り締めながら、固唾を呑んだ。いくら美鈴でも、意識のある人間に手をつけたことはない。だが、潤一の命令ならば従うしかないのだ。

 美鈴は、覚悟を決めた。

 少女は、猿轡をはめられたまま、目に涙を一杯溜めて美鈴を見ていた。

 まるで、「助けてくれ」と懇願するように。

「・・・残念ね。でも、二葉をリンチしようと誘ったくらいだもの。それなりに肝は据わっているんでしょう?」

 少女は、必死に首をふった。だが、美鈴は容赦ない。

「大丈夫。二葉が味わった痛みより、ほんの少し痛いくらいだから。私の腕は確かよ。ちゃんと綺麗に皮を剥いであげる。手早く、破らないようにね。」

 メスの銀色の光の向こうで、声にならない悲鳴が静寂を切り裂いた。



 美鈴が潤一と初めて会ったのは、10歳のときだった。

 13歳の潤一は、父親に連れられて研究所にやってきた。近い将来、自分のものとなる施設を見学に来たのである。

 すでに自分の容姿が人並み以下であることを嫌というほど思い知っていた美鈴にとって、潤一は近寄ってはならない別人種だった。理知的な瞳に自信あふれる唇。当時15歳であった美鈴の兄と、対等か、それ以上に堂々と渡り合っていた。

 一目で惹かれたのに、それ以上は何もなかった。潤一は美鈴などまるで目に入っていなかったようだったし、それ以来、潤一が研究所を訪れることも殆どなかったからだ。それに、潤一の婚約者となるべく作られた優三のことも初めから知っていたため、余計な期待も生まれる余地はなかった。

 美鈴は大学への入学を期に、都心で一人暮らしをすることになった。もしかしたら、キャンパスで潤一を見かけることができるかもしれない・・・。そんな淡い思いで、学部は違うが、潤一と同じ大学に入学した。

 経済学部4年の潤一と医学部1年の美鈴。一つの町ほどある敷地内で二人がすれ違う確率は限りなく低い。だが、その毛先ほどの可能性に、美鈴は賭けたのである。

 潤一は、有名人だった。真崎グループの御曹司であるだけでなく、そのずば抜けた容姿から、女子学生がいつも取り巻いていた。その集団は当然目立つ。彼らがよく現れる時間や場所を美鈴が探ることは、そう難しいことではなかった。

 狙った時間を気にしながら授業を受け、終業と同時に講義室を飛び出す。それは、実技以外の授業にしか許されないことだったが、可能な限り潤一を追った。実際にすれ違えるのは10回に一度程度で、しかも取り巻きの中央にいる潤一は一瞬しか捉えることができなかったが、美鈴には十分すぎるほど幸せだった。

 秋になり、4年生は卒論以外の授業が皆無に近いため、美鈴が暗記した「潤一出没ルート」はすべて無意味になった。こうなると、もうお手上げである。

(二度と・・・会えないのかもしれない。研究所に来ても、どうせ私には会う理由もないんだし。)

 うつむいたとき不意に目頭が熱くなることがあるが、すぐに頭をあげてしまえば、それも忘れ去ってしまえた。


 1月になった。

 美鈴は後期試験の準備で忙しく、その日も図書館で勉強していたため、帰りは9時を回っていた。

 雪が降るのではないかと思われるほど寒い中、駅までの道を急ぐ。

 目抜き通りにはオフィスビルや大型専門店が立ち並んでいる。夜9時とはいえ、まだ半分以上の建物に明かりが灯っており、駅に近づくほど、その明るさは増していく。

 石畳の歩道がいったん途切れ、横断歩道を渡ろうというときだった。

 突然、美鈴の脇に一台の高級車が止まった。だが、美鈴はそれが自分に関係するとは微塵も思っていなかった。

 何事もなかったように、信号が青になったのを確認して渡ろうとしたところへ、男の声がしてきた。

「遠野美鈴さん。」

 心臓がどっくんと音を立てた。

 驚いてふりむくと、そこには、憧れて焦がれた男の姿があった。

 信じられなかった。

 潤一から名前を呼ばれたのは、初めてだと思う。

 潤一は穏やかに微笑んでいた。

「僕のことは、わかるよね?ちょっと付き合わない?」

潤一は、車に乗るように親指で助手席を指した。

 呆然とする美鈴の腕を、潤一は手でつかんだ。

「さあ、乗って。」

 交通量が激しい大通りで、そう長い間車は停まっていられない。美鈴が助手席で扉を閉めると同時に、車は走り出した。

 通りを照らす、メタルハライドランプのオレンジ色が後ろへ飛び去っていく。その様子を瞳に映しながら、美鈴は今の状況がまだ信じられずにいた。

 わからない。

 潤一は一体なぜ、自分の前に現れたのか。

 いや。そんな事の前に、これは本当に現実なのか?

 運転席の潤一を見てしまったら夢から覚めてしまいそうで、美鈴は暫らく微動だにできなかった。

 やがて車は段々と暗い通りを進むようになり、やがて、森林の中に入った。ほどなくして目の前に、大きな噴水のあるイギリス風の庭園が広がった。そして緩やかな坂の上に、旧○○邸といった風情の白い洋館が現れた。

 停車したエントランスでは、二人の男性が礼をして待っていた。

「お待ちいたしておりました。真崎様。」

 助手席のドアが男性の手で開かれ、美鈴はよろめくようにして降り立った。この高級な雰囲気に呑み込まれてしまいそうだ。

 潤一が車のキーを男性に渡し、二人は館の中へと導かれた。

 サンドブラスト処理されたガラスに金色のアラベスク模様の縁取りの大きな扉。その向こうには、美鈴が見たこともないような煌びやかな世界が広がっていた。

 毛足の長い薔薇色の絨毯、クリスタルのシャンデリア、見るからに高価そうなアンティーク家具、花瓶、そして大理石の螺旋階段・・・。目まで金色に染まってしまいそうな豪華さに、眩暈さえ覚える。

 次の瞬間。

 美鈴は、ハッとして青ざめた。

「・・・どうした?」

 潤一の優しい声に、美鈴は震えた。

「場違いです・・!私、こんな恰好で・・・。」

 地味な紺色のコートの下は、白いシャツに黒いスラックス。ベージュのカーディガン。黒髪は後ろで一つにたばねただけ。それに、黒縁の眼鏡。だって、大学で勉強するだけなのだから、これで十分なのだ。まさか、こんなシチュエーションを与えられるとは想像だにしていなかったのだから。

 すると、潤一は微笑して美鈴の手をとった。

「大丈夫。僕と一緒なら。」

 ひんやりとした、骨ばった大きな手。

 これが、男の手の感触なのか。

 手を引かれてたどり着いた部屋は、全面ガラス張りで緩やかな円弧を描いていた。無数のろうそくの炎で照らされた室内には、いくつもの丸テーブルと椅子が整然と並んでいる。つまり、ここはレストランなのだ。しかし、客は一人もいない。

「貸切ったんだよ。これなら、人目は気にならないだろう?」

 確かに、そうだ。だが、こんな隠れ家のような、一握りの上流階級の人間にしか許されないであろう空間を貸しきるだなんて。

 いや、それは真崎潤一にとって不可能なことではない。

 控えめにライトアップされた美しい庭も、潤一を前にしては何の情感も生み出さない。かといって、潤一を見つめることもできず、美鈴は、ただ手元を凝視していた。

「飲み物は?」

「え・・。」

「アペリティフは、何がいい?」

 そんなことを突然聞かれても困る。だが、何か言わなくては潤一に恥をかかせるのではないかと思い、美鈴は上ずった声で答えた。

「あの、アルコール低いもの・・。」

「ああ、ごめん。まだ未成年だったんだよね。でも、少しぐらいなら、ね。」

 潤一は、初対面のはずなのに、どうしてこんなに親しげに話しかけてくるのだろう。まるで、ずっと前からの知り合いのように。

 ほどなく、美鈴の前には細長いフルートグラスが置かれた。中には炭酸の泡で浮き沈みする木苺が二つ、きれいなルビー色をしている。

「じゃあ、乾杯。」

 ティン・・

 グラスが重なり、二人は同時に飲み物に口をつけた。

 口の中が少し潤ったところで、美鈴は思い切って話を切り出した。

「理由を・・・聞かせてください。」

「理由?」

「そうです。どんな御用か、聞かせてください。」

すると、潤一はクスリと笑った。

「用がなければ、誘ってはいけないと?」

「用がなければ、誘わないでしょう?大体・・・よくご存知でしたね。私が同じ・・・大学にいたということを。」

「それは、君が入学する前から知っていたよ。君のお父様から、聞いていたからね。」

 美鈴は、唇を引き締めた。

「私は、あなたとの接触を禁じられております。それは、暗黙の了解だと思っておりました。」

「なるほど、それは賢明だね。だから僕も、今まで知らないふりを通していただろう?君が僕の通り道に何度出没したとしても。」

 美鈴は、身体の隅々までカッと暑くなるのを感じた。

 気付かれていたのだ。

 あんなに遠くから見つめていたつもりだったのに、潤一にはすべてお見通しだったのだ。

 恥ずかしい。

 まさに、穴があったら入りたい気分だ。

 そんな美鈴に、潤一は優しく言った。

「ごめん。意地悪な言い方だったね。」

 美鈴は、うつむいたまま顔をあげることができない。

 潤一は、続けた。

「君の一族は、僕にとって大事な財産なんだよ。しかも、今後の任務を背負うのは君と君のお兄さんだ。大いに期待している。」

 やはり、ビジネス上のことだったのだ。

 つまり、潤一は研究所の持ち主であり、美鈴は所有物の一部に過ぎない。その所有物が持ち主に対し、よこしまな気持ちを抱くなんてとんでもない・・・。そう、言いたかったのだ。

 美鈴は冷静に瞳を伏せた。

「すべて、承知いたしております。私どもが真崎家に対してどのように礼を尽くすべきか。」

「・・・じゃあ、顔を上げて。楽しく食事をしてくれないかな。」

「・・・はい。」

 それは、夢のようなひと時だった。

 潤一がどんな思惑で美鈴を誘ったとしても、今、目の前で優しく微笑んでいる青年はまぎれもなく美鈴の長年の思い人なのだから。

 食事を終え、最後のコーヒーを口にしながら、潤一は言った。

「いつ、こういう場に誘ってもいいように普段から気を配れるかい?」

「・・・すみません。普段、こんなことには縁がないもので・・・。」

「君は美人だ。思い切って、いやらしいくらい女を表現してみてごらん。きっと、世界が広がるよ。」

「それは、私の人生に必要がないことではありませんか。」

「僕の命令なら、必要がないことでもやるよね?」

「それは・・・もちろんです。」

「近いうちに、また誘うよ。そのときには、見違えるようになっていてくれ。」

上目遣いの挑戦的な目だった。それに、逆らえるわけがない。

 食事の後、レストランから最も近い地下鉄の駅で、美鈴は車から降ろされた。

「じゃあ、また。」

 時計は、12時近い。だが、潤一は美鈴の帰宅しやすさなど全く気にしておらず、どちらかというと早く別れたいかのような感じだった。

(当たり前のことよ。私は彼の所有物。今日は私に釘を刺すために連れ出したというだけのことだもの。)

 車の去った後の通りをぼんやりと見つめながら、美鈴は複雑な思いに苛まれていた。

 思い人との夢のような時間。

 裏腹な、主従関係のダメ押し。

(私を、意のままに操れるかどうか試したかったのかもしれない。)

 そして、彼の言う「女を表現」すれば、さらに意のままになるということを証明することになるのだ。

 

 潤一には、美鈴を手なずけておく必要があった。そのために美鈴の恋心を利用するなど、わけない事だった。

 この先、美鈴は犯罪に手を染めていかねばならない。

 どんな事にも動じず、命令に絶対服従するだけの関係を築いておかねばならない。

 潤一のためなら、人殺しだろうと、罪をすべて被ることも厭わない・・・美鈴を、そういう気持ちにさせておかねばならない。

 潤一は、周到だった。

 その後も、2週間に一度は美鈴をさそった。

 やがて潤一は大学を卒業し、真崎グループ傘下の会社に就職した。それからも、美鈴を誘い続けた。誘われるたび、美鈴は美しくなっていった。細い身体に最も似合う服を考え、都心の美容院で髪を整え、メイクをしてもらう。

 ただし、二人が会うのはいつも限られた場所だった。それは、従業員などの「金と権力で手なずけておける範囲」の人間以外は一切いない場所だった。

 半年も経っただろうか。

 潤一は、後学のためにアメリカへ留学することになった。期間は5年間。帰国は、優三との結納にあわせた時期になる。それまでは、日本に戻らない。

 出発を控えた前日。潤一はその夜、最後の仕上げに入った。

 美鈴が一生、潤一のために尽くすように。

 美鈴を、潤一のためなら命でも投げ打つほどの女に仕立てあげるために。

 それは、美鈴にとって地獄に足を入れたのと同じことだった。

 それは、絶対に踏み入れてはならない禁区だったのに。

 美鈴はすべてを承知の上で、その誘惑を受け入れた。

 美鈴はその夜、潤一に抱かれた。

 漆黒の宇宙そらでは、紅蓮あか色に染まった月が真円を描いていた。


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