第6話その2
広いリビングを行ったり来たりしているうちに、ようやく日が暮れた。
誰も帰ってこない屋敷の中で、優三は飲まず食わずで一日を終えようとしていた。
心配でならない。あの研究所には、遠野美鈴や冷凍実験にされた少女など、二葉の忌まわしい記憶を呼び覚ます材料が山のようにある。そんな所で一気に覚醒し、再び地獄に突き落とされるようなことになったら・・・!?
と、その時。
突然、来客をつげるインターホンが鳴り響いた。
優三は弾かれたように立ち上がり、玄関へと走った。
クリスタルガラスのシャンデリアの下、優三は想像通りの姿をとらえた。
「やっぱり、あなたでしたのね。」
眠る二葉を抱きかかえた美鈴は、無表情のまま言った。
「この子の部屋へ案内してちょうだい。」
「・・・いいわ。」
優三は、美鈴を二葉の部屋へ連れて行った。そして、ベッドに二葉を横たえたことを確認すると、すぐに美鈴を部屋から追い出した。
「一体、どういうことなのか説明して。」
「二葉の診察をしたのよ、真崎潤一に頼まれて。大丈夫。骨にも脳波にも異常はなかったわ。」
優三は、美鈴の腕をつかんだ。
「どうして、わざわざあなたが!?」
美鈴は、つかまれた腕を強く振り払い、優三から逃れた。
「『どうして』?当たり前じゃないの。あなたは、二葉を普通の病院にでも連れて行くつもりだったの?冗談じゃないわ。二葉は、うちの研究所の大事な試料なのよ?切り傷の手当てならともかく、精密検査なんて絶対に許さないわよ。」
「でも、研究所に連れ帰って記憶が戻って錯乱状態になるリスクだって十分あったはずよ。」
「ぐっすり眠らせて連れて行ったから、目もあわせてないわよ。第一、勘違いしないでちょうだい。物事の主体は、研究所とその持ち主なのよ。試料の都合なんて関係ないの。まだそんなことも認識できないの?」
美鈴の眼鏡が、氷のように冷たく見える。
優三は、拳を握った。
「・・・わかっているわよ。でも私はいつも、例外を願っているだけ。」
「例外?ありえないわね。」
美鈴は、優三を嘲笑した。
「・・さあ、オーナーが戻るまで、少し待たせて欲しいのだけど。」
「あの人は今、どこにいるの?」
「もちろん仕事よ。二葉のことは、頼まれて私がすべて一人でやっていることですもの。」
優三は、美鈴をリビングに入れた。とにかく、ここで足止めしておくしかない。もうこれ以上、二葉に関わってほしくない。いつかは、二葉は研究所に再び連れ戻されるのだろう。だが、せめて自分の眼の届く所にいる間は、平穏に過ごさせてやりたい。
優三はピーチフレーバーの紅茶を淹れ、美鈴に差し出した。
カップをそっと口に運ぶ美鈴に、優三は言った。
「あなたは、本当に真崎潤一に対して従順よね。」
美鈴は、カップを唇から放さずに、優三を一瞥した。
「・・・当たり前でしょう。オーナーがいなければ、研究所はなくなるのよ。」
「なくなったって、構わないでしょう?あなたは、医者として十分に食べていけるのだから。」
すると、美鈴は鼻の先で笑った。
「そんな人生、私はいらないわ。研究して、自らの手で新しい成果を生み出すことができる喜びは、優三には絶対にわからないでしょうね。」
「違法な研究だから言っているのよ。そうでなければ、私は何も文句はないわ。」
「違法・・・ね。そんなもの気にしていたら、新しい発見なんて生まれるわけないじゃない。」
「え・・・?」
「世界を驚かせている研究発表を見てみなさい。違法だったり、倫理に触れるものばかりじゃないの。でも、それが次の進化の糧になることは確かなのよ。法律だの倫理だの、そんなもの怖れていたら人類の発展はありえないわね。」
優三は、訊いた。
「美鈴さん、あなたの言う『人類の発展』とは、何?」
「もちろん、価値ある人間を自在に作り出せる能力を生み出すことよ。そして、価値ある人間を後世の科学の研究のために生きたまま保存することを可能にすること。私達は、それを必ず実現するわ。遠くない未来でね。」
得意げな美鈴に、優三は侮蔑の眼差しを向けた。
「くだらないわね。」
「・・なんですって?」
「価値のある人間って、何よ。知能指数が高くて、運動神経が良くて、顔もよければいいってこと?大体、遺伝子操作して生まれた私達を『道具』扱いしているくせに、価値ある『人間』だなんて、よく言えたものだわ。」
美鈴も、負けてはいない。
「生憎、優三も二葉も完璧ではないから、『道具』止まりなだけなのよ。」
「どこが完璧でないというの?私も、二葉も、ヒトとして必要な肉体的要素は満たしているはずよ。」
「そんなもの、自然に作れるじゃないの。私達はね、自然を超越した人間を作り出したいの。優三、あなたは確かにこの世のものとは思えないほど美しいわ。オーナーを満足させられるだけの美貌を備えて生まれた。でも、その性格・・・。持ち主に従順でない所が最大の失敗原因ね。」
「性格・・・?そんなもの、育った環境によるものよ。失敗というなら、私を調教できなかった真崎潤一こそが、要因なのではなくって?」
「もって生まれた性質ってものがあるのよ。・・・氏か育ちか。実際、あなた自身はどう?育ての親に似ている?それとも、見ず知らずの精子と卵子の提供者に似ているかしら?」
優三は、美鈴を睨みつけた。
「見ず知らずの人間はともかくとして、私は、誰にも似ていないわ。」
「そんなこと、ありえない。」
「いいえ!私の性格は、私の37年の生活が作り出した、私だけのものよ。誰にも似ていないし、誰かに依存もしない。誰のものでもない、誰にも変えられない、私自身の個の性格だわ。」
美鈴は、静かに首を振った。
「優三は、実の血の繋がりを知らないから、そんなことを言うのよ。私は、年々父にそっくりになってくるのを実感している。自分ではそんなつもりないのに、モノの言い方や、ちょっとした仕草、特に理性を失ったときの自分は、まぎれもなく父そのものなのよ。・・遺伝よ。そしてそれは、私や兄の手によってなら、根本から変えられるものだわ。」
「馬鹿馬鹿しい。その論理によれば、人類皆、同じ性格にできるということじゃないの。穏やかで、争いを憎み、殺人や賭け事なんて縁のない世界を作り上げられるとでもいうの?ありえないわね。」
「ええ。私達が作るのは世界のほんの一握りだもの。でも、その一握りが世界を牛耳ればいいのよ。」
優三は、身を乗り出して反論した。
「あなたたちは、一体何をしたいの?神にでもなろうというの!?」
「いいえ、神なんて実体の無いモノにはできないことを、実現するのよ。」
「必要ないわ!この世界には、もっと他に必要なものがあるでしょう?」
「貧困層を救えとでもいうの?それこそ偽善よ。世の中は弱肉強食だから成り立っているの。太古の昔からそうだった。皆が皆、平等に救われるなんて不可能よ。平等になったら、皆で生き残ることはできなくなる。平等に、朽ち果てるだけよ。」
「それを、可能にしてみせればいいじゃない!?」
「そんなことをして、何の得があるというの?私達は、慈善事業で研究しているわけじゃないのよ。くだらない感傷はやめてちょうだい。」
「・・・あなたの得になんか、ならないくせに。」
「!?」
優三は、立ち上がった。
「あなたの得にはならないでしょう?研究所の研究成果は、すべて真崎潤一のものだもの。成功報酬なんて、あのケチな男がたっぷり払うはずないし。それなのに、なぜあなたは人生をすべて投げ打って研究を続けるの?そんなに・・・そんなに、」
「言わないで!」
美鈴が、叫んだ。
その勢いで、空のティーカップが大理石の床で砕け散った。
美鈴の必死の形相に、優三は口をつぐんだ。
美鈴は、言った。
「これ以上の問答はやめましょう。愚にもつかないわ。ただの・・・空論よ。」
うつむいて陰になった美鈴の表情を、優三が窺うことはできなかった。
だが、どうしてあの場で美鈴が優三の言葉を遮ったのか、優三には十分わかっていた。
この会話は、優三のピアスを通して、すべて潤一に聞かれている。二人とも、それを確信しながら話をしていた。その中で美鈴は、優三のセリフの続きを、絶対に潤一には聞かれたくなかったのだ。
優三は、小さな声で言った。
「私達は、立場が逆だったら・・・幸せだったかもしれないのに。」
すると、美鈴は嘲笑した。
「ありえないことよ。・・・優三以上の失敗作である、私では。」
「でもあの人は、美鈴さんを道具呼ばわりはしないじゃないの。」
「それは、私が試料にさえならないからよ。遺伝子操作なんて呼べる代物ではなく、単純な人工授精で産まれた、ただの人間にすぎないからよ。」
「実験が失敗しすぎれば『人間』扱いだなんて、滑稽だわ。」
「それが、私達の世界なのよ。・・・面白いことにね。」
やがて潤一が帰宅し、優三はその場から追いやられた。
二人が何を話しているのか。知りたい気持ちはあるが、知ったところで胸が悪くなるだけだろう。
その夜遅くに、美鈴は研究所に帰っていった。
優三は、眠り続ける二葉の部屋の窓から、車の明かりを見送った。
美鈴が、なぜ潤一には絶対従順なのか。
それを知っているから、優三は美鈴を憎みきれない。そして潤一を、地獄に葬り去ることもできない。
(私だけが苦しんでいるのではない。それはわかっている。遠野研究所・・・!あの研究所さえなくなれば、みんなが、呪縛から解き放たれるのに。)