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第5話

 自分が「人間ではない」という考えが浮かんだ瞬間の感覚を、結衣の身体が忘れない。あの時、激しい衝撃が全身を貫いた。

(つまり、私は人間ではないんだ。それを、記憶の片隅が思い出したに違いない。)

 だがそれは、それ以上の記憶を引き出すきっかけにはならなかった。「遠野二葉」という本名も、冷凍睡眠の実験台にされている親友のことも、研究所のことも、12歳までの幸せな日々のことも、何も、思い出せない。

(でも、希望の光は見えた。)

 それは、優三の存在だ。同じ紅蓮のピアスをつけられた女性。いくら潤一の庇護下にあるとはいえ、優三との間にはもっと別の共通点があるような気がする。「盗聴器と発信機」をつけて生きていかねばならない、共通の宿命のようなものを感じる。それが何なのか思い出せば、すべてが明らかになると思う。

 だが、優三は言う。

「あなたは、何も思い出さなくていい。思い出さないほうがいい。」

 そのセリフそのものが、結衣の過去を知っている証だ。しかし、優三は懇願する。

「このままでいいのよ。あなたさえこのままでいてくれたら、私達はずっと一緒にいられるかもしれない。」

 優三はそう言って結衣を抱きしめる。だから結衣もその時は、思い出さないほうがいいのだと思う。しかし、記憶がないことが途轍もなく辛くなる時も確かに存在する。忘れてはならない大事なことを、過去に置き去りにしてしまっている気がするからだ。

 

 9月。

 前田結衣という仮の名を纏って、遠野二葉は再び新しい学校に足を踏み入れた。

 

 結衣は、学校では必要以外の言葉を一切発しないと、心に決めていた。他人に関わっても、何の責任もとれないことに気付いたからだ。この前のように祥子のトラブルを目の当たりにしても、解決するだけの力がないばかりか、行動の制限まで受けている結衣に、なす術はない。

 (私は、思い上がっていたのかもしれない。)

 自分の無力さを棚に上げて、何を勘違いしていたのだろう。「誰かの役に立てる」、だなんて。

 今回は「寡黙な転校生」で押し通すつもりだった。

 だが学校というのは厄介な所で、何かとグループでの行動を強要してくる。独りでポツンとしていても、必ずしっかり者の女の子が飛んできて「ちゃんと参加しなきゃ駄目よ!」と言われ、手を引っ張られてしまうのだ。

 もちろん、仲間に入っていれば楽しい場面にも遭遇する。だが、一緒になって笑っていると、突然、思い出すのだ。耳に着けられた、盗聴器と発信機のことを。

 その途端、景色に亀裂が入った音を聞く。目の前が歪んで、沈んでいく。

 そんなある日のロングホームルームの時間、全校生徒が講堂に集められた。

 何かの講演だという。

 客席側が暗くなり、明るく照らされた舞台の上に一人の女性が現れた。その女性は、悪質な飲酒運転の車に娘を轢き殺されたという体験を話し始めた。次の男性は、妹を通り魔に殺害された体験を語った。どうやら、犯罪被害者の体験談を聞かせることが目的のようだ。

 結衣は、自分の不幸だけがこの世の不幸なのではないと痛感した。泪を瞳に一杯浮かべながらも、まっすぐ前を見据えて語る姿に、犯罪を絶対に許すまいとする強い意志を感じた。

 最後の講演者は、中年の夫婦だった。

 父親は明らかに日本人だが、母親とおぼしき女性は栗色の髪をした、欧米系の白人だ。

 突然場内が真っ暗になり、壇上のスクリーンに、美しい少女の笑顔が映し出された。

「これは、私達の娘、セシリアの最後の写真です。」

 結衣の口元が、勝手に緩んだ。

「3年前、12歳の時に突然行方不明になりました。手がかりも全くなく、現在に至ります。当時はマスコミにも取り上げられ、多くの方が協力してくださいましたが、今ではもう、警察さえ捜索を諦めている状態です。ですが、私達親が、娘を諦めることなどできないのです。何年経とうと、例え死んでも、諦められる日など来はしないのです。私たちは現在、セシリアの行方に少しでも心当たりのある方を探すため、全国をまわっています。セシリアは日本人離れした特徴のある顔立ちをしていますが、もしかすると、整形手術などで顔を変えられているかもしれません。記憶がないかもしれません。皆さんのお友達の中で、もし、ちょっとでも思い当たる節のある人がいたら教えてください。失礼な結果になるかもしれませんが、どうか、私達の必死の思いに免じて協力してください。」

 結衣は、この話は他人事ではないと感じた。

 スクリーンに映し出されたあんな美少女が自分だとはとても思えないが、事実、結衣は記憶もないし、年齢も同じだ。何せ記憶がないのだから、整形手術をしていない保障はどこにもない。この学校の教師はともかく、生徒は誰も結衣の境遇に気付いていないようだ。そのため、結衣は一人でこの胸中のざわめきに耐えた。

 講演会が終了すると、結衣は走って舞台裏に向かった。

 さっきの夫婦に実際に会って、話がしたかった。あの「セシリア」という少女と自分が同一人物だなんて可能性はゼロに等しいとは思う。だが、「ゼロ」ではないのだ。結衣と同じような境遇にある少女が、この世にそう何人もいるわけがない。

 もし、あの夫婦が自分の本当の両親だったら?

 今、会いに行かねば一生会えないかもしれないではないか!?

 講演者たちは、教師に連れられてどこかへ引き上げようとしていた。

 結衣は一瞬躊躇したが、後悔したくないと思い、声をあげた。

「あの!」

 大人たちが、一斉に振り向く。

 結衣は、夫婦の下にかけよった。

「あの、さっきのお話、もう少し詳しく聞かせていただけないでしょうか。」

「・・え・・?」

「突然すみません。でも私、記憶がないんです。自分が誰だか、わからないんです。」

 夫婦は息を呑み、結衣を見つめた。

 それを見た教師は慌てた様だが、すぐに個室を準備してくれた。教師とて、校外の大人と生徒だけ置き去りにしていくことは心配らしく、「すぐに戻るから」と言って、足早に去っていった。

 ソファで向き合い、セシリアに良く似た美しい母親が紅茶色の瞳で、結衣をじっと見つめた。だが、すぐに瞳を伏せ、首を振った。

「残念ですが、あなたは私達のセシリアではありません。」

 結衣は、あまりにもきっぱりと断言されたことに合点がいかなかった。

「どうしてわかるんですか?整形とかしてたら、わからないじゃないですか?」

 だが、母親の表情は落ち着いていた。

「わかりますよ。どんなに顔が変わっていても、本当の娘なら、わかります。」

「そんな・・・。」

「そういうものですよ。あなたが、本当にセシリアだったら、私達はどんなに救われるでしょう?でも、違うものは違うとしか言えません。」

 女性は、結衣の手を優しく握り締めた。

「せっかく名乗って下さったのにごめんなさい。あなたも、記憶がなくてさぞ辛いことでしょう。出口の見えない苦しみは、よくわかるつもりです。」

 すると、今まで黙っていた父親が、初めて口を開いた。

「・・・どちらかといえば、君は、セシリアの一番の仲良しだった子に似ている気がする。」

その言葉に、母親も頷いた。

「そう、そう。どこかで見た感じがするとは思っていたのだけれど・・・確かに似ている気がするわ。細かい部分は似ていないのだけれど、全体の面影が・・・どことなく。」

 結衣は、高鳴る胸を押さえて聞いた。

「その子の名前、わかりますか。」

「ええ。家にも何度も遊びに来ていたもの。遠野二葉ちゃん、っていうのよ。」

「トオノ・・・フタバ・・・。」

 結衣は、必死で思い出そうとした。この名前は、記憶の片隅に残っていないだろうか?

「二葉ちゃんは、セシリアがいなくなるちょっと前に引っ越して転校してしまったのよ。だから、その後のことはわからないの。引越先の住所も何も教えてくれないまま、いなくなってしまって。」

「そうですか・・・。」

「あなたは今、ご両親と一緒に暮らしているのではないのね?」

「はい。ある夫婦に引き取られています。」

「そう。本当に独りなのね。」

 落胆する結衣に、セシリアの母は一枚の紙を渡した。それは、セシリアの行方を尋ねる内容のチラシだった。

「私達は全国を回っていますから、あなたのご両親探しに協力できるかもしれません。このチラシに、私達の連絡先が書いてあります。何かあったら、連絡を下さい。私達も何かわかったら、この学校へ連絡を入れます。」

 結衣は、その力強い言葉に微笑んで礼を言った。孤独に冷え切っていた心が、味方を得たことで少し温まったような気がした。


 結衣と別れた後、セシリアの両親は応接室へと招かれた。そこでは、校長や理事長と講演者たちとの、簡単な茶話会が行われていた。

 その中に、真崎潤一の姿があった。

 潤一は、この犯罪被害者の会の後援会長をしていたのである。

「生徒達にとって、大変意義のある講演会でした。ありがとうございます。」

そう言って校長が頭を下げると、潤一は穏やかに微笑んだ。

「いいえ。礼なら、講演者の方々に。毎日、終わりのない苦しみに耐えながら活動なさっている姿には頭が下がります。私など、ただの仲介役にすぎません。」

 すると、講演者の一人が言った。

「真崎さんには、私達本当に感謝しているんです。莫大な寄付に、活動の場の提供と、何から何までお世話になりっぱなしで。」

「そうですとも。私達の活動は、真崎さんのご支援なしにはありえません。」

 潤一は、はにかんだ様な笑顔で、ただ首を振るだけだった。

 セシリアの両親がさっきの結衣の話をすると、潤一は頷き、

「彼女を引き取っているのは、私です。」

と答えた。

「どうぞご心配なく。私も全力で彼女の身内を捜索しています。見つかるまでは、私が責任を持ちますから。」

セシリアの父親は、思い出したというように目を見開いた。

「ああ・・!以前、週刊誌で記事を見た覚えがあります。そうでしたか、さっきの少女が真崎さんが引き取っているという子でしたか・・・。」

「そうです。まさか、あなた方に直接会いに行くとは思っていませんでしたが。」

「セシリアの親友だった子に何となく似ていました。・・・いや、同じくらいの年代だったので、そう見えただけかもしれません。」

「その線でも当たってみます。私の全力を挙げて、あの子の身内を探し出してみせますよ。」

「真崎さんが後見人なら安心ですね。」

 潤一は心の奥底で、ほくそ笑んでいた。

 結衣が、セシリアの顔を見て過去を思い出すか、試したかったのだ。

 そして、結衣の顔がどれほど遠野二葉の面影を残しているのか確認したかったのだ。それだけのために、潤一はこの講演会を学校側に提案したのだった。権力者である潤一の申し出を学校が断るわけもなく、会は実現した。そして潤一の思惑通りにことは進んだのである。

 結衣は、人気の無い廊下の隅で、セシリアの両親からもらったチラシを凝視した。

 白桃色の頬をした、睫毛の長い美少女の笑顔の写真。

 結衣は眉根を寄せて、唇を噛み締めた。

(私は、この顔に見覚えがあるのか、ないのか・・・。わからない。)

 何も、脳裏をかすめない。どんなに写真を見つめても、何も感じない。

 家に帰ると、めずらしく潤一が出迎えてきた。その不可解な行動が不気味で、結衣は思わず腰を引いた。

 潤一は、笑った。

「そんなに、怖れられてるとはね。」

 結衣は下唇を噛み、潤一とは目を合わせないようにした。その姿を見て、結衣のもとに駆け寄ろうとした優三を、潤一は自らの腕で制した。

「気になるか?セシリアという娘のことが。」

「!!」

 盗聴器で聞かれていることは覚悟していたが、それを直接指摘されるとは思っていなかった。潤一は一体、何が言いたいのか?

 優三は不安気に潤一を見上げた。

 結衣も、その答えを息を呑んで待った。

 潤一の濃い眉が、得意げにつりあがった。

「教えてやろう。君の正体を。」

「あなた!」

 優三の叫びは、潤一にとって何の意味も持たない。

「遠野二葉。これが本名だ。」

「!・・それは・・・。」

「つまり、セシリアという子は君の友達だったんだよ。」

 優三は夫の腕をすり抜けて二葉の下に駆け寄り、潤一から守るように抱きしめた。

「あなた!事実を教えることがまだ危険だということを知っているでしょう!?」

「ふん・・・。事実を知ることと、記憶が戻ることはイコールではない。見ろ、二葉の顔を。それは、何もわかっていない顔だ。」

 潤一の言うとおりだった。

 二葉は潤一の言っていることを理解しながらも、事実として実感することはできなかった。 セシリアの両親が言ったとおり、自分は遠野二葉という人間だった。だが、そんな名前には全く覚えがない。セシリアの顔も、見知らぬ他人だ。大体、潤一は二葉の身元をわかっていながら、なぜ親元へ返そうとしないのだろう?取材では、「身元が判明するまで預かる」と言っていたではないか。それとも、セシリアの両親との接触によって、潤一も今日初めて二葉の身元を知ったのだろうか。いや、そんなはずはない。それは、優三の「事実を教えることがまだ危険だ」というセリフが証明している。

 では、一体何が危険なのか。

 記憶を取り戻すことが、何故危険を伴うのか。

(どちらにしろ・・・奥様が何度も言ったとおり、私は記憶を取り戻さないほうがいいというのが事実なのだろう。)

 潤一が薄い唇を歪めて笑う。

 どうしてこの男は、他人を見下して喜ぶのだろう。他人の苦しむ姿に快楽を覚えるのだろう。

 自室に戻って、鏡に自分の顔を映しながら思った。

(私は・・・トオノフタバ。フタバ・・・。)

 覚えのない他人のような名前を突きつけられても、受け入れられない。だが、「前田結衣」という実体のない名とは違う。自分自身の、本当の名前なのだ。

 チラシのセシリアの写真を穴があくほど見つめて、脳裏に焼き付けようと思った。

 だが、自信がない。

 もう一度記憶をなくしたとき、この顔を覚えていられる自信がない。実際、今、親友であったはずのセシリアをまったく思い出せないではないか?

 二葉は頭を抱えて、うなだれた。

(私は、私がわからない。私が誰だか教えられたのにわからない今の私が、許せない!)

 おそろしい。

 自分は、失くした記憶の中で何をしてきたというのか。

 人でも殺したか。

 親でも殺めたか。

 本当は、あのセシリアを自分が殺してしまったのではないか!?

 その晩、二葉は部屋の片隅で身体を丸め、震えて過ごした。

 初めての感覚。

 それは、得体の知れない己への恐怖だった。


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