第4話その10
結衣は、家から一歩も外に出してもらえない生活が続いた。
まるで檻に閉じ込められたペットの気分だ。
(私は一体、何者なんだろう。)
テレビや雑誌を見ることも許されず、外界と完全に遮断されている。
(私は、人として生きることが許されてない。外へ出る自由さえ無い。一体私は、どうしてこんな目にあうのだろう・・・?記憶がないから?でも、それだけで、勝手に学校までやめさせられてしまうものだろうか・・?)
窓を閉め切った部屋の中がたまらなく暑い。外はきっと、真夏の陽気だ。
窓に切り取られた英国風庭園の景色。
それだけが、今の結衣の全世界。
時折、祥子を思い出し、心配になる。
さよならさえ言えずに、別れてしまった。学校で、どうなったろうか。父親とは仲直りできたのだろうか。
そんなある日のこと。
平日の午後、真崎家に一人の訪問客があった。
「え・・・?」
お手伝いからそのことを告げられ、優三は躊躇した。
「彼女、一人なの?」
「はい。どうしても、お嬢さんにお会いしたいそうです。」
優三は、首を振った。
「駄目よ。結衣は、誰にも会うことができないの。」
「ええ。私もそう申し上げましたが、どうしても、と聞かなくて。」
優三は少し考え、やがて立ち上がった。
「わかったわ。私が直接、お話しましょう。」
玄関を出て、1分以上歩かねば、門にたどりつかない。
金色に塗られたアールヌーボー調の門の向こうに、制服姿の少女がいた。
少女は痩せて顔色が悪かったが、優三の姿を見ると微笑み、深々とお辞儀をした。
その顔を見て優三は、授業参観で出会った少女であることを思い出した。
「あなたは、いつか、教室へ案内してくださった・・・。」
「覚えてて下さったなんて、光栄です。三橋祥子と申します。」
優三は閉められた門越しに、祥子に言った。
「せっかく来ていただいたのですけど、結衣は誰とも会えないんですよ。」
「私のせいですか?私が、学校に来られない原因なんでしょうか。」
「いいえ。そうではないと思うわ。・・・もしかして、あなたのお父様、たい焼きをお作りになる?結衣が『友達のお父さんが作った。』って自慢げにご馳走してくれたことがあります。」
祥子の顔が明るくなった。
「ええ、ええ。そうです。私の父です。・・・そうですか、前田さん、たい焼き買ってくれたんですね・・。」
嬉しそうな祥子の様子を見て、この少女は本当に結衣を心配して来てくれたのだと実感した。優三は、この少女をこのまま帰すのは忍びないと思った。
「三橋さん・・とおっしゃいましたね。少し、お時間大丈夫?」
「ええ、もちろんです。」
「では、ここで5分ほど待っていてくださるかしら?ちょうど今、お菓子を焼いたのよ。ぜひ、お持ちになって。お父様と一緒に召し上がって頂戴。ね?」
祥子が返事をする間もなく、優三は小走りに邸宅へと戻っていった。
結衣とは、結局会えないままなのか・・・。祥子は肩を落として、門扉にもたれかかった。
ここの住所を、やっとの思いで担任から聞きだした。担任は、結衣が不登校になった責任を一方的に負わされ、弱気になっているようだった。
生きる目的を見失ってしまった祥子の、最後の砦だった。結衣に会おうと思い立ったとき、祥子の瞳は再び生気を取り戻した。そして、その実現の日を指折り数えて待った。だが、その望みも絶たれてしまう。
本当に5分後、優三は息を切らせて戻ってきた。
「奥様、そんなにお急ぎにならなくても、よろしかったのですよ。」
「いいえ、こんな暑い中、待たせては悪いもの。」
美しい可憐な容姿に似つかわしくなく、額に汗を浮かべている。
優三は、顔より大きな紙袋を門の鉄柵の隙間から手渡した。
「結衣と二人で作ったのよ。お口に合えば、よろしいのだけれど。」
「・・・とても嬉しいです。ありがとうございます。」
優三はやさしい瞳で、祥子を見つめた。
「お父様のたい焼きね、本当においしかったのよ。心に染み渡る、優しい味だったの。あれが、あなたのお父様の味なのね。」
こんな大邸宅に暮らす貴婦人が、父の作ったものを褒めてくれるなんて。しかも、この言葉は嘘ではないだろう。ただの社交辞令なら、こんなに心に染みるはずがない。
不思議だ。
心からの言葉は、心が聞くのだろうか。
心は、言葉の真意を見極める力を持っているのだろうか。
祥子はこのとき、初めて、たい焼きを焼く父を誇らしく思えた。
「父に、伝えます。きっと、とても喜びます。」
「本当のことだもの。結衣が元気になったら、ぜひ一緒にお店にうかがいたいわ。」
「前田さん、そんなにお悪いんですか。」
「・・・いえ、もう、だいぶいいのよ。あなたが心配して来てくれたことはちゃんと伝えますよ。きっと、喜ぶわ。」
「では、こう、お伝えくださいませんか。私は、大丈夫だと。学校のことも、父のことも、何も心配しなくていい、って。」
優三はしっかりと頷いた。
「わかりました。確かに、伝えますわ。」
本当は、何も解決などしていなかった。
本当は、結衣に会って、愚痴って慰めてもらおうと考えていた。
だが、顔を見ることさえ叶わない結衣のことを思うと、自分が甘えてはいけないのだと思いなおした。逆に、祥子の方がしっかりして、結衣の気持ちを少しでも軽くしてやらねばならないのだと自覚した。
家に帰り、紙包みを開けると、市松模様のアイスボックスクッキーが沢山詰められたビニル袋が入っていた。そして紙袋の奥底には、折りたたまれた白い紙が入っていた。
開いてみて、祥子は息が止まるほど驚いた。
それは、結衣からの手紙だったからだ。
門先で優三はあんな風に言ったが、祥子が来ていることを優三が結衣に伝え、クッキーに託けて手紙をくれたのだ。
そんな回りくどいことをしなければならない理由は、祥子が知る由もない。
優三は、結衣が他人に会ったり、話をしないように潤一から厳しく言いつかっている。当然、祥子に会わせることもできない。だが、祥子が結衣にどうしても会いたいと思っているように、結衣も祥子に会いたいはずだ、と優三は判断したのである。そこで、紙での会話によって祥子が来ていることを結衣に伝え、手紙を素早く書かせ、お菓子と一緒に手渡したのだった。潤一の盗聴器がある以上、手紙だけを直接渡すことはできないし、「手紙」という言葉が会話に入ることも許されない。あくまでも祥子は何もわからないまま、お菓子だけ持って帰ったという筋書きにしておく必要があった。
結衣からの手紙には、学校へ行かなくなった理由などは一切書かれておらず、ただひたすら祥子の身を案じ、学校に一人取り残してしまったことを詫びていた。そして、父と一日も早く昔どおりの関係に戻ることを願っていた。
祥子は、結衣が自分を見捨てたわけではなかったと確信した。
記憶喪失で、一つ年上だという複雑な事情から、突然不登校になっても仕方のないことかもしれないと思った。
結衣からの手紙を胸に抱き、祥子は唇を震わせた。
自分は、独りではなかった。
自分をこんなにも案じてくれている人がいる。
祥子には想像のつかないような人生を歩んでいる結衣を思えば、自分は何と平凡で平和なのだろう。それを「堪らない」と思うなんて、そもそも幸せな証拠だ。
結衣からの手紙の、最後に書かれていた一文。
― 私は、忘れない。この先記憶が戻っても、再び記憶を失っても、三橋さんのことは絶対に忘れない ―
なんて嬉しい言葉。
この先の長い一生の間でも、こんな言葉を再びもらえるかどうかわからない。
(いいよ。一度で十分。十分よ。)
その日、祥子は久しぶりに父を玄関まで出迎えた。
「・・・お帰り。」
本当は、言いたいことが沢山あった。結衣のことや優三の言葉。伝えたいこと、謝るべきこと、数え切れない。しかし、今はまだ照れくさかった。ただ、祥子の出迎えに微笑んでくれた白髪頭の父が、痛いくらい愛おしいと思った。
まだ、明日がある。
伝えたいことは、明日から、一つずつゆっくり話していこう。
父にも、自分にも、時間はまだたっぷりあるのだから。
祥子は久しぶりに、明日という日を待ち遠しいと思いながら、布団に入った。
もし、「大っ嫌い」と叫んだ相手が父でなく友達だったら、おそらく絶縁状態になり、そのまま一生を終えてしまっただろう。だが、父子という関係が、終わりのない繋がりをもたらすのだ。それが、他人との決定的な差なのだろう。「血」のなせる業なのだろう。
母は、離婚によって父との関係を終わりにすることができたのかもしれない。だが、祥子にとって母はただ一人であり、それは断絶することができない。戸籍上何かできたとしても、それは真の意味で「断絶」したとはいえない。父と母はもとは他人だったのだから、自分達の意思で「夫婦」になることもできれば、他人に戻ることもできる。だが、生を受けた瞬間から「親子」である二人に、戻るところはない。
何年離れていても、どんなに遠く離れていても、「肉親」という根拠により会うことができる。「他人」なら、いつでもというわけにはいかない。会うからには、それなりの理由が必要だ。「友達」とか「幼馴染」とか、「師弟」とか、それなりの関係を築き上げておく必要がある。しかも、その関係をある程度維持していく必要もある。そんな努力が「血の繋がり」によって必要無くなるのだ。だが逆に、その切っても切れない繋がりが、枷になることもある。しかし、そこまで悟るには、祥子はまだ幼すぎた。
祥子は、他人である結衣と、この先も関係を築いていきたいと思った。
手紙を書こう、と思った。
返事はいらない。受け取りを拒否されてもいい。でも、自分が「ずっと繋がっていたい」と思っていることだけは、伝えたい。
空っぽだった祥子の胸に、確かな火が灯った。
それは、希望の火でもあり、命の火でもあった。
7月に入り、しばらく経った頃。
かつて結衣が在籍していたクラスでは、主を失くした机が、もう一つ増えた。
その机が主を再び迎えることはなく・・・
次の年の3月、クラスの終わりとともに処分された。