第4話その8
家に帰ると、その日は優三一人が結衣を出迎えた。
「ご苦労様、浅井さん。今日はこれで結構よ。」
「はい、奥様。」
浅井は深くお辞儀をし、そのまま玄関から去っていった。
不思議そうな顔をする結衣に、優三は言った。
「今日は、使用人に休みを出したの。すぐ、お茶にしましょうね。私がケーキを焼いたのよ。」
優三が踵を返すと、薄いクリーム色のフレアスカートが優雅に揺れた。
結衣には、何も気取られてはならない。優三は、いたって普通に振舞うように心がけた。
今日は、遠野美鈴が家に来る。
使用人に暇を出すのは、遠野研究所と真崎家の繋がりを秘密にするためだ。
優三は、不安だった。
潤一が美鈴を家に招くとき。それは、特別な命令を下すときだ。一体、それは何なのか?結衣に関係がなければいいが・・・。
夜も更け、潤一が自ら運転する外車で帰宅した。
それから10分もしないうちに、玄関のドアをだまって開ける者が現れた。
地味なスーツを着て、長い髪を三つ編みにした、痩せた長身の中年女。それが遠野美鈴だ。
美鈴は玄関で待ち構えていた優三を一瞥すると、何も言わずに家の中へと進んでいく。
優三は、その後を黙ってついていった。
結衣は、自室に閉じ込めてある。
結衣と美鈴を会わせてはならない。結衣は「二葉」であった頃、美鈴が近寄るだけでひきつけを起こしていたのだから。記憶を失くしても、美鈴を見て何も感じないわけがない。
防音装置のついた地下の部屋は、普段、その存在を隠している。
鉄製の扉の前で、美鈴は優三の方を振り返った。
「残念ながら、あなたはここまでよ。」
「わかっているわ。私は、ここで見張るだけ。」
「見張る?」
「二葉に、何もしないように。」
すると、美鈴は小さく笑った。
「ずいぶんな可愛がりようね。まるで、本当の娘みたい。」
優三は、美鈴を睨みつけた。
「悪いかしら?」
「一緒にいられるのは、1年だというのに。」
「かまわないわ。そんなこと・・・関係ないわ。」
美鈴はもう一度鼻先で笑い、扉の向こうへ消えていった。
間接照明のみで照らされた地下室の中は、潤一の趣味で固められていた。
黒革のリクライニングソファにクリスタルガラスのテーブル、アンティークの飾り棚。それらに囲まれて、見るからに高そうなスーツを着こなした潤一がグラスを傾けている。
美鈴が中に入ると、潤一は言った。
「仕事を、してもらいたい。」
美鈴は背筋を伸ばしたまま、潤一を見つめた。
「はい。それで、ターゲットは?」
「そこに書類を作っておいた。」
テーブルの上の紙切れ1枚。美鈴はそれを手でつまみあげた。そこには、一人の少女の名前と写真が貼ってあった。
「この子は・・・。」
「二葉のクラスメイトだ。」
「いつ、拉致すればいいでしょうか。」
「明日から、二葉は不登校になる。その1ヵ月後。1学期末考査の最終日だ。」
「それで、二葉は・・・。」
「9月になったら、別の学校に転校させる。」
「この少女は、どうなさいますか。」
「冷凍するほどの価値はない。その程度の遺伝子がどこまで発展するか、実験に使えばいい。」
「・・わかりました。」
潤一は、美鈴のほうを一度も見なかった。美鈴は黙って頭を下げ、部屋から出た。
外で腕を組んで待っていた優三を見ると、美鈴はため息をついた。
「安心しなさいよ。私が入るのを許されてるのは、この部屋だけ。あとの勝手は許されないのだから。」
「・・・玄関まで、送るわ。」
「それはご丁寧に、どうも。」
優三は、美鈴を先に歩かせた。
二葉には、絶対部屋から出るなと言ってある。しかし、安心はできない。
長い、白い廊下。
この家は、こんなにも広かっただろうか。
美鈴は、後ろからついてくる優三に言った。
「二葉が、記憶を取り戻す様子はなくて?」
「・・時々、記憶の断片が頭をかすめるみたい。」
「そう。」
美鈴は、本当は何を聞きたかったのだろう?優三には、わからない。
玄関先で、美鈴は優三と向き合った。
「一つ、聞いてもいい?」
「・・・ええ。」
「二葉に、今、友達はいるの?」
優三の身体が、ビクッとなった。
不安の色が、顔中に溢れる。
「いる・・けど。」
「名前は?」
「それを言ってどうするの?また、拉致するの?」
美鈴は、静かに息をついた。
「いいえ。それを決めるのは、私ではないから。」
「でも、命令されたのね?あの人に、命令されたんでしょう?」
美鈴は、眼鏡の奥の細い瞳をゆっくりと瞬いた。
「さようなら。」
閉ざされた扉の音が、優三の心に冷たく響いた。
(また、始まってしまった。)
優三は、力の抜けた身体を白い壁にもたれかけさせた。
(また、悪夢の続きがやってきてしまったのだ・・・。)