第4話その7
結衣の生活は一変した。
自分の生活が、常に誰かに聞かれているなんて。
優三の悲しげな顔を見たときは平気なふりをしたが、一人になって、そのおぞましさを、まざまざと実感した。全身をかけめぐる鳥肌が、治まる気配はない。
呼吸一つにも、気を配る。歯を磨いたり、顔を洗ったりするごく普通の生活の音さえ、たてないように気を遣う。そうせずには、いられない。
「おはようございます。お嬢さん。」
「・・おはよう、浅井さん。」
そんな何気ない会話でさえ、考えてからするようになった。そして、その顔の筋肉は常に強張っていた。本当は、浅井に昨日の礼を言いたかった。だがそれによって、浅井が不当に結衣の味方をしていると潤一に誤解されるのではないかという不安が襲ってきて、結局何も言えなかった。
学校に着いて、初めて祥子のことを思い出した。
そういえば、昨日あれから、祥子はどうしたのだろうか。
父親にあんなことを言ってしまって、どうなったのか。
始業のチャイムの鳴るぎりぎりに、祥子は教室に入ってきた。
その顔は、結衣が声をかけることをためらうほどに生気を失っていた。
授業が始まってからは、耳の盗聴器を気にしながらも、結衣は祥子に気を配っていた。
祥子は座った目で、教科書とノートを凝視している。黒板や教師をまったく見ていない。おそらく、授業の内容もまったく耳に入っていないのだろう。
15分ほど経ち、教師が祥子の様子に気付いた。
「三橋。・・三橋祥子!」
祥子は、頬杖をついていた手をはずし、驚くでもなく、ゆっくりと立ち上がった。
「三橋。今の続きを読みなさい。」
わかるわけがないことを知っていながらの常套句。結衣はノートに大きく「56ページ3行目」と走り書きし、祥子にそっと見せた。
しかし。
「すみません。聞いてなかったので、わかりません。」
と悪びれずに答えた。祥子のふてぶてしい態度が、更に教師の癇に障ったようだ。
「君は、私の授業をバカにしているのか?邪魔だ。教室の後ろで立ってろ!」
教室の中が、水を打ったように静まり返る。
祥子は、好奇の目と、祥子を見まいとする生徒の間を縫うように歩き、教室の後ろに立った。
祥子は、結衣のノートを見ていたはずだ。なのに、まるですべてがどうでもいいかのような態度。だが、結衣も祥子の気持ちがわからないわけではない。昨日の一件は、祥子にとっての大事件だったのだ。
潤一は、宿題などしなくていいと言った。だが、これは結衣だけの問題ではない。駄目だったら校長に直談判に行こうなどと啖呵をきったのは結衣だ。しかし今となっては、それが躊躇われる。
結衣が潤一と交わした約束は沢山あった。自分の家で暮らす以上、主人の言うことには絶対従ってもらうということで、それはある意味当たり前だと思っていたから、昨日までは疑問にも思っていなかった。だが、潤一の取り決めは結衣の思っていた以上に厳密で、絶対だった。しかもそれは、人としての行動を制限するかのような決まりだったのだ。
潤一の取り決めの中に、「学校では絶対に問題を起こさないこと。保護者呼び出しのような事があった場合は、即刻退学させる。」というものがあった。
(ちょっとでも約束から外れるようなことは許されないのだ。旦那様が10と言ったら絶対10で、11も9もないいんだ。)
授業が終わると、祥子は職員室へと連れて行かれた。
「父親が父親だから、子どもも子どもよね。」
そんな囁きがあちらこちらから聞こえる。
結衣は、奥歯をグッと噛み締めた。
― 問題を起こすな ―
監視されているとわかった途端、生活が規則で雁字搦めになる。今まで規則は、心の奥で時折思い返すぐらいで、結衣の行動そのものを制限するものではなかった。だが、今は違う。
(軽はずみなことはできない。退学になってもかまわないけれど、あの家を追い出されたら私には行き場がなくなってしまう。帰るところがなくなってしまう・・・。)
それが、結衣の一番の恐怖だった。あの家を出て、一人で生きていく術はない。
だが、問題を起こさずとも出来ることもあるはずだ。潤一に聞かれてもかまわない言葉で、祥子を助けることができないか。
昼休み、結衣は意を決して担任の教師のもとを訪れた。
結衣は、祥子が父親のリストラのことで多くの生徒から揶揄されていること、そして、職業調べの宿題を完成させることが困難であることを訴えた。
担任はだまって聞いていたが、一通りの話が終わると、こう言った。
「宿題の件は、前田さんの保護者の方に協力していただいたら?」
「無理だと言われてます。」
「なら、あなたたち二人で組まないで、別のパートナーを見つけたら?」
「今の三橋さんの状況で、どうして他のパートナーが見つかるんですか?八方ふさがりなんです。だから、先生に相談しているんです。」
担任は眉間に皴を寄せ、やがてため息混じりに言った。
「わかったわ。宿題の担当の先生と相談させて頂戴。三橋さんの件は、別にいじめられているわけではないし、そのうちおさまるでしょうから、様子を見ましょう。」
結衣は、その答えに納得がいかなかった。
「じゃあ、それまで三橋さんに耐えろとおっしゃるんですか。」
「噂や中傷は、どの世界にもあることよ。いちいち気にしていたら、やっていけないの。それに、お父様との確執が、学校生活をないがしろにしても良い理由にはならないのは、前田さんだってわかるでしょう?強くならなきゃ。それを繰り返して、人は大人になるのよ。」
何の解決にもならなかった。
体のいい言葉で、誤魔化されたような気がする。
大人というのは、子どもを上手く言いくるめてしまう。百戦錬磨の教師ともなれば、その達人なのかもしれない。現に、結衣はもっと色々言いたいことがあったのに、結局二の句がつげなくなって、退散せざるを得なかった。
暗澹たる気持ちで教室に戻ると、一人ポツンと座る祥子の姿が目に入ってきた。
結衣は、ゆっくりと祥子の横に立った。
「何も・・・できなくて、ごめんね。」
祥子はうつむいたまま、首を激しく横に振った。
「昨日、大丈夫だった・・・?」
祥子の表情は、前髪に隠れて見えない。だが、その肩が小刻みに震えだし、両手で目元を拭い始めたのを見た。祥子の気持ちが痛いほどに伝わってきて、結衣も目頭が熱くなるのをおさえきれそうになかった。だが、ここで自分が弱気になってはいけないと思った。
(私が、しっかりしなければ。私が三橋さんを守らなければ。大人なんか何もしてくれないし、大人ができることなんか上っ面ばかり。だから私が何とかしなきゃ。)
祥子は、何も語ることができない。
こういうとき、優三は結衣を抱きしめてくれる。だが、今それを祥子にするには、他人すぎる。そういう意味でも、やはり優三はただの他人ではないのだろう。
午後の授業が終わり、放課後に結衣はもう一度、祥子に近づいた。
「校門まで、・・・一緒に帰ろう?」
祥子は、赤い目で頷いた。
結衣は、祥子を導くように、その手をしっかりと握り締めた。
廊下を進む間も、色々な目が向けられる。色々な囁きが聞こえてくる。だが、それを跳ね飛ばすように結衣はまっすぐ前を凝視して歩いた。自分達にやましいことは何もない。それをとやかく騒ぎたがる連中など、意に介さなければいい。
昇降口を出て、校門までの緩やかな坂道をゆっくりと下っていく。
別れるまでの時間を、惜しむように。
結衣は、おそるおそる聞いた。
「お父さんと・・・大丈夫だった?」
祥子の、結衣の手を握る手に力が入った。
「・・・昨日は、顔を合わせなかった。」
「三橋さんが帰った後、お父さん、すごく・・・悲しそうな顔してたよ。」
祥子は泣き笑いの様な表情を浮かべた。
「わかってる。あんなこと娘に言われて・・・傷つかないわけないもん。」
「・・・三橋さんのお父さん、恰好いいよ。一生懸命働いてて、どんなお客さんにも丁寧で。本当、すごく、素敵だった。」
「ありがとう。・・・私も、それはわかってるんだけど・・・。」
祥子が口ごもり、ほどなく校門前にたどりついた。
結衣は、祥子の手を離した。
「もう、寄り道・・・できないの。宿題はできないって、先生には言っちゃった。」
祥子はそのとき、今日、初めて結衣を見つめた。
「もしかして、寄り道のこと、怒られた・・・?」
「ううん、それは、大丈夫。」
結衣は、手を軽く挙げた。
「じゃあ、また、明日ね。」
浅井が車の扉を閉めた。
結衣は、扉の外に立ちつくす祥子を見て、車の窓を開けた。
祥子の不安げな顔に、結衣はしっかりとした笑顔を見せた。
「私、三橋さんが一緒でよかった。本当よ。」
車は走り出した。
本当は、こんなセリフを言うつもりはなかった。普段なら、照れくさくて、言葉に出すことは憚られる。だが、今はこの気持ちを、伝えるべきだと思った。伝えねばならないと思った。それが、落胆する祥子を少しでも救うことができると信じたからだ。
結衣は、胸の前で両手の指をしっかりと組んだ。
今の結衣の思い。それは、祈りに近いものだった。