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第4話その6

 前田結衣という名前は、真崎優三が勝手につけた名だった。こだわりは唯一つ、名前の中に数字を入れないこと。優三の「三」は、遠野研究所の三番目の遺伝子操作による人工児である証。結衣の本当の名である二葉の「二」は、二代目研究所長である遠野基とおのもといにとって二番目の人工児である証だった。そんな呪縛のような名から、せめて今だけでも開放してやりたいという、優三の強い思いから生まれた名前だった。

 遠野二葉。

 そういう存在は、今、この世から抹消されている。

 実際、二葉には前田結衣としての人生だけを刷り込んである。記憶喪失であることは事実だから、芝居めいた部分は見られない。

 優三にとって、二葉は運命共同体だった。生まれながらにして、人としての権利を全て奪われている。耳にはめられた盗聴器と発信機。自らの手では決して外せない、呪縛という名の運命。

(いいえ、私は諦めない。二葉を、絶対にこの運命から救ってみせる。人としての道を歩ませてみせる。それができれば、私は単に真崎潤一のためのお飾り人形として作られたのではない、別の存在意義が生まれるのよ。私は自分の意思で、私のすべきことを成し遂げてみせる。)

 長い間潤一の下で虐げられてきた優三にとって、二葉の存在は一縷の望みだった。希望だった。愛してもいない男と一生二人で生きていかねばならないことに絶望していた中、例え1年であっても、愛しいと思える相手と一緒にいられる機会が与えられたのだ。世間が羨む美貌も資産も、優三にとって何の価値もないことだった。それらがもたらすものが、いかに上辺だけで中身のないものか、知り尽くしてしまったからだ。

 

 その夜。めずらしく、潤一が夕食に間に合う時間に帰宅した。

 玄関では、お手伝いの者と一緒に優三も二葉も潤一を出迎える。

 「お帰りなさいませ、旦那様。」

 二葉が、深く頭を下げた。

 『奥様』『旦那様』

 家では、優三と潤一をそう呼ぶよう、潤一が徹底させている。そして、他所では「おばさま」「おじさま」と呼ばせる。世間体を重んじる潤一らしいやり方だ。

 潤一は二葉を一瞥すると、優三とともに書斎へ来るように言った。その低い声が、優三を震撼させた。潤一は怒っている。二葉に、良くないことがもたらされるのだ。

 書斎に入ると、スーツの上着を脱いで、ネクタイを片手でゆるめている潤一がいた。

 重い扉により、外から固く閉ざされた空間に閉じ込められる。

 優三は固唾を呑み込みながら、潤一の第一声を待った。

 潤一はソファに座ると、二葉をにらみつけた。

「今日お前は、やってもいいことの範疇を超えたな。」

 二葉は下唇を噛み、うつむいた。一応、覚悟はしていた。だが、友人を車に乗せ、寄り道をしたくらいのことは許されるだろうと、楽観視していたのも確かだった。

 優三が二葉の代わりに答えた。

「結衣ちゃんは、宿題のために友人と一緒に寄り道をせざるを得なかったんです。これ以外、方法がなかったんです。それはあなただってわかってらっしゃるはずよ。」

「優三!お前は誰に向かって口をきいてるんだ!?口を慎め!」

 二葉はビクッとして、身体を硬直させた。

 潤一は、他所では信じられないほど穏やかで人当たりがよかった。だが、家の中では別人になる。

「宿題?くだらん。私の言いつけに背かねばできないような宿題など、する必要はない。そんなもの、無意味だ。」

 何という横暴さ。潤一は、世界が自分中心に回っていると思っているに違いない。

 潤一は、二葉の腕をつかむと、優三の隣に立たせた。そして、優三のやわらかな髪をつかむと、耳を露にした。白い耳に光る、紅いピアスが二葉の目に飛び込んでくる。

「よく見ろ!これと同じものが、お前の耳にもあるはずだ。これが何だか教えてやる。これは盗聴器と発信機だ。お前達がどこで何をしているか、私が把握するためのものだ!」

「!!」

 二葉は、唇が勝手に震えだすのを止めることができなかった。

 塞ぐことのできない口中が、みるみるうちに乾いていく。

 そんなものだったなんて。

 ずっと、「宗教上の理由で」つけられたものだと言われ、学校にもそう説明していたのに。

 そしてそれが、優三にもつけられていたなんて。

「わかったか。お前に自由はないんだよ。私の家で、私の稼いだ金で生かされている以上、私の言うとおりに生きてもらう。当たり前のことだ。」

 優三は悔しさに眉根を寄せた。

 何もできない。

 ここで潤一に口答えをすれば、おそらく殴られる。顔ではない、どこかを。蹴られるかもしれない。それを、二葉に見せたくない。これ以上怯えさせたくない。できるだけ平穏にすませたい。そのためには、我慢するしかないのだ。

 潤一は煙草に火をつけながら、背を向けた。

「・・・わかったら出て行け。宿題などしなくていい。必要がない。・・・勉強など、その女には不要だ。」

 優三は固くなった二葉の身体を支えるようにして、書斎を早々に後にした。

 優三は不安だった。これをきっかけに、二葉が記憶の糸を少しずつ手繰り寄せてしまわないか、と。

 優三は二葉を自分の部屋につれていくと、きつくその身体を抱きしめた。

「ごめんなさい・・!私に力がなくて。あなたに、こんな思いをさせてしまって。」

搾り出すような切ない声に、二葉は首を振った。

「いいえ・・・。」

二葉は、優三の美しい顔を見つめて尋ねた。

「教えてください。奥様は、本当は私にとって何なのか。」

「え・・・。」

「紅いピアス。私は、これをずっと前から自分の一部としてきた気がするんです。この家に来るずっと前から。それを奥様もお持ちだなんて、偶然なはずありません。」

 優三は、何と言うべきか迷った。本当のことは話せない。盗聴器の問題だけではなく、真実の過去を、二葉に話すことはできない。

(私の考えは変わらない。二葉は、すべてを忘れたままの方がいい。親友二人を失った経緯を思い出して一体どうなるの?自分の使命を思い出してどうするの?このまま・・・このまま私のもとで、成長することが許されれば・・・!)

 優三は再び二葉を抱きしめた。

「あなたは、私と同じ運命の下に生まれたのよ。でも、私と同じ道を歩んでほしくない。」

「・・・どういうことですか?」

「あなたが私にとって、とても大事だということ。あなたは私の生きていく希望なの。私が生きていくうえで、初めて見出した希望なのよ。」

 二葉はかつて、同じような感触を味わったような気がしていた。

 遠い記憶の中で、今と同じように、柔らかで暖かな身体に包まれていた覚えがある。

 暗闇の中で見た、たった一筋の光。

 それを、二葉は今、まざまざと思い出していた。

(奥様は、確かに私の過去に関係がある。でも、それを私が思い出すことを望んでいないのだろう・・・。)

 二葉にとっても、優三の存在は大切だった。この世でたった一つの、自分の戻れる場所。

 しかし、優三は決して幸せな富豪婦人ではなかった。盗聴器と発信機で監視されているなんて、人としての権利を奪われたも同然だ。

(そして、私も・・・同じ。)

 二葉は唇を噛み締めた。

(私も、人では・・・ない・・?)

 

 その晩、潤一は、遠野遺伝子研究所の留守を預かる遠野美鈴に電話をかけた。

 それは、二葉が「前田結衣」となっても果たすべき、悪夢の続きを示していた。


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