第4話その5
その日の帰り、結衣は祥子と一緒に帰ると初めて言った。
「え、大丈夫なの?お迎えがきてるでしょ?」
「だって、三橋さんのお父さんが働いてるところ見たいもん。」
「でも、パートだよ?そんなの、職業になるの?」
「当たり前じゃない。働いて、お金をもらってれば、立派な仕事よ。私には親兄弟がいないんだから、三橋さんが頼りなのよ。それに休日は、一人で外へ出してもらえないの。だから、放課後しかないのよ。」
校門の高級車の前に立っている運転手と結衣は3分ほど話をしていた。そして、やがて遠巻きに見ていた祥子を手招いた。
「一緒に乗って。場所を言ってくれれば、連れてってくれるって。」
初老の運転手、浅井は白い手袋をした手で咳払いをした。
「私はお嬢さんを無事家に送り届けねば、クビになります。」
「ね?じゃあ、決まり。乗って乗って。」
促されるまま、祥子は車の後部座席に乗り込んだ。何だか、臭いまで高級な感じがする。
「・・すごいね。」
ため息混じりに祥子がつぶやくと、結衣はうなずいた。
「本当。すごいよね。」
「私なんかが一緒に乗っていいわけ?怒られたりしない?」
「宿題のためよ。仕方ないじゃない。」
他人の家で、結衣にどれほどの自由が許されているのだろう?休日に一人ででかけられないというのは、記憶喪失のせいなのだろうか。
祥子の父親は駅前の大型スーパー内の軽食店で働いている。一般の売り場から少し離れた休憩所で、クレープやソフトクリーム、たい焼き、焼きそば、ドリンクなどを販売する。祥子の父は昼間、これらのメニューの調理から販売まで一人でこなしている。何十種類もあるメニューを捌ききることは相当大変らしく、働き始めの一ヶ月は家でもずっとレシピを勉強し、試作に明け暮れていた。
この駅は、祥子の学校の生徒の多くが最寄り駅として利用している。だが、「みつはし」と書かれた胸の小さなネームプレートくらいでは、祥子の父とまで気付かないはずだ。
スーパーの屋上に設けられた広い駐車場に運転手を待たせ、二人は中に入った。
ここへ来ることを、父には言ってない。実は、職場を訪れたのは初めてだ。家の外で家族に会うのは何だか気恥ずかしい。
だが、一度くらいはいいかもしれない、と祥子は思った。それに、結衣のことを紹介したい。自分には今、こんな素敵な味方がいるということを、父に教えてあげたい。
2階の婦人服売り場の離れに、店はある。
ソフトクリームの看板に、蝋細工サンプルの入ったショーケース。蒸し暑くなってきた季節を反映して、「かき氷」のポスターも貼ってある。客対応のカウンターの前のスペースを挟んで、白い丸テーブルと細長いベンチが並んでいる。毎日の清掃は徹底されているようだが、食べ終えたばかりの汚れや食べかすは、そのままになっている。
カウンター前の鉄板で、痩せた男性がお好み焼きを作っていた。白髪交じりの乱れた頭に紙製のキャップをのせ、ワイシャツの上に白いエプロンをしている。遠くからでも、それが祥子の父であることは明らかだった。
祥子は遠目から父の姿を捉えると、足を止めた。
「三橋さん、どうしたの?」
「・・・ちょっと、心の準備が・・。」
そんな躊躇いの間に、カウンター前がにわかに騒がしくなった。
見ると、祥子たちと同じ中学の制服が溜まっている。
祥子は思わず、婦人服売り場の太い柱に身を隠した。
「え・・・、何?」
結衣はその場に取り残されながらも、カウンター前の様子を見守った。
「おじさん、バナナチョコクレープと、アイスカフェオレね。」
「あ、私、ピーチ生クレープと、ティーソーダ!」
「私はクリームチーズ&ベリークレープ。」
彼女達は、結衣たちのクラスメイトではない。
祥子の父は、あらかじめ焼いてあったクレープ生地を広げ、具材の入ったタッパーを冷蔵庫から取り出した。その間、女子中学生たちは祥子の父に話しかけていた。
「おじさん、三橋祥子さんのお父さんなんですよね?」
ハッとした。
結衣は、祥子の方を見た。
祥子の顔が強張っているのがわかる。
祥子の父は笑顔で会話に入った。
「ええ。よくご存知ですね、お嬢さんたち。祥子のクラスメイトですか?」
「ううん、違うんだけど、・・・ねー。」
少女達は顔を見合わせてクスクスと笑っている。そんな中、祥子の父は手早く注文の品を作り上げていく。
「お待ちどうさま。えーと・・、まずバナナチョコとアイスカフェオレ。500円になります。」
会計の間も、少女達と祥子の父の会話は続く。
最後の会計が終わると、一人の少女が去り際に言った。
「リストラされて大変でしょうけど、がんばってくださいね。」
ヒラヒラと手を振り、3人はクレープ片手に、笑いながら店を去っていった。
次の瞬間。
結衣の目の前を、ものすごい勢いで祥子が通り過ぎていった。
祥子はカウンター越しに、父の前に立ちはだかった。
祥子は息を切らしながら、父を恐ろしい形相でにらみつけた。
「どうしてよ!どうして私の父親だってこと、ばらすのよ!?」
人目など気にしていない。祥子は今、自分の気持ちだけで、周りなど見えていない。祥子の父は、突然のことにただ驚いている。
「私が今、学校でなんて言われてるか知らないでしょ!?父親が会社リストラされて、こんなところでパートで働いてるなんて、知られたい娘がいるわけないじゃない!」
周りの客が足を止めて、祥子たちの方を見ている。いや、見物している。
「祥子・・・。」
「私が学校で仲間はずれにされてるのも、バカにされてるのも、全部お父さんのせいなんだから!・・・大ッ嫌い。大っ嫌いよ!!」
声がかすれるほどの叫びをあげ、祥子はその場から走り去った。
後に残された祥子の父の呆然とした顔と、乱れた白髪と、へなった紙帽子が、切なかった。 結衣はその父親の姿に、泣きたくなった。
だが、その場の気まずい雰囲気を悟り、このままでは祥子の父の立場が悪くなるのではと心配になった。周囲の好奇の目は、まだ治まらない。
結衣は、今、自分に出来ることを考えた。
祥子のため、祥子の父のため、今ここにいる自分に出来ることがあるはずだ。
結衣は意を決し、店のカウンターに立った。
「あの、たい焼き3つ、下さい!」
努めて明るく、大きな声で言った。
結衣の制服姿を見ても、祥子の父は何も言わなかった。ただ、にっこりと笑って「はい。」
と応えただけだった。
その場の雰囲気がもとに戻ったのを確信し、結衣は祥子の父に言った。
「すみません、今、財布を取りに行ってきますのでちょっと待っててください。」
たいやきを焼く祥子の父の表情が、少し曇った。さっきの今で、また、祥子の学校の生徒にバカにされているのではと思ったのかもしれない。結衣は慌てて訂正した。
「あ、ちゃんと絶対戻ります。ご心配でしょうから、私、鞄ここにおいていきます。ちょっと待っててくださいね。焼きあがる頃には戻れますから!」
結衣は屋上の駐車場へと走った。
祥子はどうしただろうか。
自分に黙って、帰ってしまっただろうか?
屋上に着くまでに、祥子には会わなかった。結衣はとりあえず車に戻り、運転席の窓をコンコンとたたいた。眠っていた運転手は慌てて起き上がり、外に出た。
「浅井さん、さっきの女の子、戻ってきた?」
「いいえ。」
「・・そう。あの、とりあえず500円貸してくださいませんか。」
「え?」
「事情があって、たい焼きを3つ注文してしまったの。後で奥様にお願いして返しますから。」
結衣に自由になるお金は一銭も与えられていない。それは、真崎潤一の方針だ。
浅井は困惑気味だったが、渋々財布を取り出した。
「・・・まあ、お嬢さんがそうおっしゃるなら。無銭飲食で問題になったらそれこそ大変ですし。」
「ありがとう!助かります。」
結衣は浅井から500円玉を受け取ると、再び急いで店に戻った。
たい焼きは既に紙袋に包まれていた。
「300円です。」
つり銭と袋を受け取り、結衣が何気なく見た祥子の父の胸元からは、「みつはし」のネームプレートが無くなっていた。
「ありがとうございました。」
次の客が来たため、結衣が再び祥子の父を見ることはなかった。
屋上へ戻る前に、結衣は5階建ての広いスーパーの中、祥子を捜し回った。だが、どうしても見つけることができない。女子トイレの個室まで見回ったが、わからない。もう、帰ってしまったのだろうか。
仕方なしに屋上へ戻ると、浅井は車の外で待っていた。
「どこへ行ってたんです?さっき、女の子が戻ってらっしゃいましたよ。」
「ええっ?」
すれ違いとは、空しい。
「それで、彼女は?」
「お帰りになりました。お嬢さんに、よろしくと。」
祥子は、結衣のことを忘れたり、放ってしまったわけではなかったのだ。
(でも、あんなことお父さんに言っちゃって・・・どうするのかしら。)
結衣はたい焼きとつり銭を浅井に渡した。
「まだ温かいですね。」
「ええ。作りたてなの。さっきの女の子のね、お父さんが作ってくれたのよ。」
祥子の顔と、結衣の悲しげな顔から、浅井は何かしら感じたようだった。
「では、一ついただきます。あとの二つは、お嬢さんと奥様で召し上がったらいかがでしょう?私からの奢りということで。」
結衣は思わず微笑んだ。
「本当?いいの?」
「ええ。これくらい、お嬢さんや奥様からお金をいただけません。それに、たい焼きなど久しぶりです。奥様も、多分そうですよ。」
「そうかしら?そうよね。でも、たい焼きなんて召し上がるかしら?」
「召し上がりますとも。お嬢さんが買ったものを、召し上がらないわけがありません。」
結衣は微笑み、浅井に頭を下げた。
家に戻ると、結衣は、優三にたい焼きを渡した。
「浅井さんがご馳走してくださったの。私の学校の友達のお父様が作ったのよ。」
「・・・友達?」
「ええ。」
優三は、少しだけ眉をひそめたが、すぐ笑顔に戻った。
「嬉しいわ。たい焼きなんて、何十年ぶりかしら。」
結衣は、冷めてしまったたい焼きをかじりながら、祥子とその父を思い、切なくなった。
祥子の気持ちもわかるが、あの父の気持ちのほうがずっとよくわかる気がする。
(私のお父さんも、あんな感じだったのかしら・・。だからこんな気持ちになるのかしら?)
結衣の浮かない表情に、優三は一抹の不安を感じていた。
友達。
その存在が、結衣の押さえ込まれた記憶を呼び覚ましてしまうのではないかと心配になる。
友人を二人も失った過去を、思い出させてはならない。
優三は、この表面上の穏やかな生活に一筋のヒビが入る音を、確かに聞いていた。