第4話その3
月曜日の朝。祥子は結衣と目が合いそうになると、思わず下を向いてしまった。
(バカ・・・。変に思われたらどうするの。)
だが、真崎優三が整形かもしれないという話を気にしている後ろめたさが、祥子に下を向かせる。
「おぅ。」
気楽な顔で教室に入ってきた篠崎を、祥子は思わず睨み付けた。
「?・・何だよ、朝っぱらから。」
(篠崎君が悪いんだからねっ。あんな変なこと言うから・・!)
祥子は下唇を噛みながらも、フイッと横を向いた。
「・・・別に。」
「変なヤツ。」
篠崎は何も感じていないらしく、笑いながら席へ向かっていった。
と、そのとき隣の席の周りが俄かに騒がしくなった。祥子がちらっと見ると、結衣を数人の女子が取り囲んでいる。
「ねえ、一昨日の授業参観にいらしてたすっごく綺麗な女の人、前田さんのお母さん?」
「!!」となったのは祥子。だが、結衣はまったく冷静だ。
「いいえ。私の両親は事故で亡くなったの。あの人は、今お世話になっているお家の奥様よ。」
「そうなんだ。でも、いいなあ。あんな綺麗な人と同じ屋根の下で暮らせるなんて。」
祥子はスカートの裾をギュッと握った。
(何がいいのよ。両親がいないのよ?他人の家に引き取られてるのよ?どうして、そう無神経なこといえるわけ!?)
祥子だって結衣を羨ましいと思ったことを忘れて、腹立ちと苛立ちを口先に溜めていた。
結衣は、静かに微笑んだ。
「本当、あんなに綺麗な人と一緒にいられて私は幸せだわ。」
彼女達は、あの女性が真崎優三ということを知らないのだろう。それは、篠崎から教えてもらう前の祥子と同じだ。
「お名前は、真崎優三さんとおっしゃるのよね?」
突然、後ろから甲高い声がした。祥子も、結衣も皆振り返る。そこにいたのは、学級委員の布谷花音だった。腕組みをして、高飛車な眼差しで全員を見下ろす。
「上流社会では有名な美人よ?」
『そんなことも知らないのは、あなたたちが一般庶民だから』とでも言いた気な口調だ。
花音のツンとした赤い唇が、結衣を捉えた。
「本当に幸運よね?ご主人の真崎潤一は真崎グループの次男でハンサム。お金は湯水のように湧いてくるし。お陰で前田さんは両親を亡くしても、何不自由なく暮らせるのよね?」
結衣の顔からは微笑みが消えたが、冷静さは失っていなかった。
「布谷さんの言うとおりよ。でも、私は単なる居候。お金があるかどうかは私には関係ないわ。」
「そうかしら?毎日高級車で送り迎えがあるじゃない?」
「それはそうだけど。・・・それには理由があるのよ。」
結衣の冷静な唇が、そこで止まった。花音はここぞとばかりに言った。
「ああ、誘拐とか?身代金たっぷり出せそうだものね。でも、居候のあなたにお金を払うものかしら?真崎潤一は一族の中でも最もしまり屋で、その上あくどい、って聞いてるわよ。」
祥子は、自分のことの様にハラハラしていた。このまま結衣が言い負かされてしまうのか?そんなのは絶対嫌だ。大体、なんで花音のような女が学級委員なのか?成績だけで学級委員を決めるような教師が理解できない。
結衣の眼差しは、まっすぐに花音に注がれた。
「布谷さんの言うとおり、もし私が誘拐されても旦那様は身代金なんて払わないでしょうね。そんなの当たり前よ。私は他人なんですもの。送迎は、私が記憶喪失で、いつどうなるかわからない状態だから。これであなたの好奇心を満足させられたかしら?」
最後にちょっと笑った結衣とは逆に、返す言葉を失った花音は肩を怒らせ、やがて踵をかえして立ち去った。
(よしっ!)
祥子は思わず、机の下で拳を握り締めていた。
だが、結衣の横顔を見た瞬間、祥子の嬉々とした表情が強張った。
結衣の固く結ばれた唇と長い睫毛の横顔が、さっきの強気なセリフとあまりにもかけ離れて悲しそうだったからだ。
それは、そうだ。
今のやりとりが、結衣の心を傷つけたことには変わりがない。
(それに、記憶喪失のことまで言っちゃって・・・。)
結衣にとってみれば、すべて隠しておきたい事だったに違いない。だから特定の友人をつくらず、会話をしていても心は許さず、自らを語らずにいたというのに。
記憶がないというというのは、どんな状態なのだろう?
両親を事故で亡くすというのは、どんな気持ちになるのだろう?
他人の家に引き取られて暮らすというのは、どういうことなのだろう?
祥子には、わからない。
祥子の母は、数年前父と離婚して家を出ていった。そのときの感覚・・・あれは、『気持ち』なんて生易しいものではない。心と身体が一体になって感じた感覚を、今でも忘れない。その何倍もの感覚を、結衣はいつも背負っているのではないか?
(やっぱり・・・気を遣うべきだよ。前田さん、色んなもの負ってる。それは他の人には絶対わかんないものだもん・・・。)
その日一日、祥子は結衣と口をきかなかった。
結衣も、誰とも会話はしなかった。
しかし、数十センチの隔たりを超えて、二人は一つの事に対し、確かな痛みを共有していた。