第4話その2
5月の第2土曜。その日は恒例の授業参観日だ。
中学校でありながら、殆どの生徒の親が参観に訪れる。教室はいつになく窮屈になり、沢山の眼に誰もが萎縮してしまう。
休み時間のトイレも保護者の化粧直しに占領されてしまい、祥子は教室棟から離れた人気のないトイレの使用を余儀なくされていた。思った以上に時間がかかり、帰りは廊下を走る。
(もう休み時間終わっちゃうよ。私のせいじゃないんだから、遅刻になんかしないでよね!)
と、そのとき。
「ぎゃっ!」
祥子は急ぐあまり、廊下を曲がり損ねて、白い壁に顔面を思い切りぶつけてしまった。
(・・ったぁ・・・。)
涙目になって体制を立て直そうとしていると、突然、後ろから声がした。
「あなた、大丈夫?」
絹のような、柔らかくて甘い優しい声。
驚いて振り向くと、そこには白いスーツを着た女性が手を差し伸べていた。
祥子は、その女性のあまりの美しさに、口を開けたまま暫らく動けなかった。
こんな美しい人を、初めて見た。神々しくて、女神のようで、この世のものとは思えない。全身から薔薇の香りが漂うようだ。
差し伸べられた手なんて、恐れ多くて掴めない。祥子は自力で立ち上がり、頭を下げた。
駄目だ。声が出ない。
するとその女性は、祥子に尋ねた。
「あの、2年A組の教室がどこかご存知?」
「え・・・?」
「私、方向音痴で迷ってしまって・・・。」
祥子はそこでやっと、我に帰った。
「私、2年A組ですから、ご案内します。」
「まあ、助かったわ。ありがとう。」
そのとき、始業を告げる鐘が鳴り響いた。しかし、この女性を連れて廊下を走るわけにはいかない。それに、保護者を案内してきたことを教師が見れば、遅刻にはしないはずだ。
後ろの女性の存在を意識して、背中が熱くなってくる。一体この女性は、誰の保護者なのだろう。
もう授業が始まった廊下は、静まり返っている。
やっと教室に着き、後ろの引き戸をそっと開けた。だが、どんなに「そっと」でも、音はする。授業中静まり返った中では、なおさらだ。
祥子は、クラス中の冷ややかな視線を一気に浴びた。
が。
次の瞬間、その視線は途端に和らいだ。
祥子の後ろをついてきた女性が、教室の中に入ったからである。
黒板の前の女教師も、祥子の存在など目に入っていないようで、美しい女性に向かって「どうぞ遠慮なさらずに、もっと中央へどうぞ。」などと優しい声をかけている。
祥子はこそこそっと自分の席に着き、改めて女性の方を振り返った。
栗色の巻き髪が肩で揺れ、白い肌は柔らかく、唇からは花びらが零れ落ちそうだ。周りのお母さん達の、なんと化粧の濃いことか。その化粧の濃さが、更に老けて見えさせるということを、知らないのだろうか。
授業中、祥子は落ち着かなかった。ずっと、あの女性を見ていたい。さっき会話を交わしたことさえ、夢の中のことのようだ。
やっと授業が終わると、帰りのホームルームが始まる。午後は保護者会となるため、授業は午前中で終わりだ。保護者はホームルームを見届け、いったん、解散する。
祥子の関心時は、さっきの女性が誰の保護者か、ということだった。女性がホームルームが終わる前に帰ってしまわないことを懸命に祈る。
ホームルームが終わるや否や、祥子の身体は弾かれたように立ち上がった。
急いで振り返ると、祥子はドキッとした。なんと、さっきの女性がこちらへ向かって歩いてくるではないか!
女性は祥子を見ると、優しく微笑んだ。
「さっきは、どうもありがとう。お陰で助かりましたわ。」
「・・・いえ、そんな・・。」
そして、次の瞬間だった。
「結衣ちゃん、もう、帰れるの?」
(え・・・。)
隣の席の結衣だったのだ。
この美しい女性の身内は。
身内・・?
いや、そうではない ―
結衣は立ち上がり、頷いた。
「ええ、おば様。」
「じゃあ、帰りましょう。表に浅井を待たせているの。」
結衣は祥子に、「じゃあね。」と言って、教室から出て行った。祥子は思わず後を追い、女性の後姿を見送ってしまっていた。歩く姿も可憐で上品で・・・もう、表現しきれない。
「これで、『絶対』って言い切れるよ。」
祥子の背後から、篠崎も廊下を覗き込んで、そう言った。
「どういうこと?」
「さっきの女性、上流社会じゃ有名だぜ。真崎グループ会長の次男、真崎潤一氏の妻。真崎優三。」
「・・知っているの?」
「サラリーマン向け週刊誌。目立つからな、よく見るよ。旦那の真崎潤一も、これまたいい男なんだよ。美男美女夫婦って、有名なんだってよ。」
祥子は、ほうっとため息をついた。
「本当、綺麗だよね・・・。女神様みたいだった。」
「ああ。その辺の女優なんかより、ずうっと綺麗だもんな。今日も、他のおばさんたちが気の毒なくらいだったよ。」
祥子は、クスっと噴出した。
「わかる。まわりの人、化粧お化けに見えたもん。」
「違いねぇ!俺、今日家に帰ったら、お袋の顔まともに見れねぇよ。悲しすぎて。」
「それは言いすぎよ。あの女性は別格!・・・この世の人じゃないみたいだった。神様の悪戯じゃつくれないよ。・・・誰かが意図的につくったみたい。でも、全然わざとらしくなくて、自然なんだよねぇ。」
うっとりとした目つきの祥子に、篠崎は言った。
「三橋、案外鋭いかも。あの美しい顔は、整形って噂もあるんだぜ。」
それを聞くや否や、祥子は頬をふくらませた。
「ええー、それは嫌だな。どんなに『つくったみたいに綺麗』だったとしても、それは生まれつきだから、価値があるんだもん。つくりものだったら、全然うらやましくないよ。大体、篠崎君の情報源は怪しげな週刊誌ばっかりじゃない?私、絶対信じるからね。あの顔は本物だ、って!」
「べーっ」、と舌を出し、祥子は鞄を持って昇降口へと走り出した。
篠崎と楽しく会話をしていたはずなのに、ただの一言が、祥子の気持ちを沈ませた。
― あの美しい顔は、整形って噂も ―
(嫌!そんなの、絶対いや!)
生まれて初めてだった。人を、こんなにも美しいと思ったのは。そして、心から震えるほど感動して、憧れた。なのに、それが偽物だったなんて、考えたくもない。
(本物だもん。あんなに綺麗なの、人の手じゃつくれるわけないもん。生まれつきだもん。誰かがやっかみ半分で、変な噂流してるだけに違いないもん・・・。)
真崎優三。
初めて聞く名前だった。
週刊誌などで有名になっているなんて、全然知らなかった。
気になって、初めて本屋で週刊誌の表紙に目をやった。だが、表紙だけでは真崎の「真」の字も見当たらない。しかし、どう見ても健全とはいえないネタが掲載されていそうな週刊誌を手に取り、中を見る度胸は、祥子には生まれてこなかった。
(こんな際どいの、篠崎君はよく見れるよ・・。やっぱ、男の子だからなのかな。)
祥子は軽くため息をつき、そのまま肩を落として家路についた。
胸の奥がもやもやして、嫌悪感に襲われる。
どうして、憧れの対象が整形品では駄目なのか。
その理由を認識するには、祥子はまだ幼すぎた。