第4話その1
私立五筒学園中学校。
2年生の三橋祥子は、隣の席の転入生の存在を、どう受け入れればいいか悩んでいた。英語の授業中だが、文法のややこしい説明はどうしても脳に浸透していかない。だから、気持ちは別の方へ別の方へと流れていく。
転入生の名前は前田結衣。黒い髪を肩で切りそろえた、色白で痩せた女の子だ。どこか浮世離れした結衣は、流行のタレントや音楽をまったく知らないというし、ファッションや恋愛の話にもまったく興味を示さない。一緒に帰ろうと声をかけても、拒否される。一緒に遊ぼうと言っても、断られる。友達を作るのが嫌なのかと思えば、祥子や周りの男子とも、普通に会話は、する。
「前田。さっきの時間のノート、貸してくんねぇ?」
そんな、いい加減な男子の申し出にも、
「いいよ。でも、帰りまでには返してね。」
と笑って応える。祥子は、そんな結衣に忠告する。
「貸すことないよ!ああいうの、癖になるんだから。」
「別に減るもんじゃなし、かまわないよ。彼だって、そのうちわかるよ。ノートは授業中に写すのと、後で人に借りて写すのでは、理解度が全然違うってことにね。」
祥子はこういうとき、結衣がすごく大人だと感じる。もしかしたら、自分達があまりに幼いから、必要以上は相手にしたくないのか・・・とも思う。
だが、結衣の正体は意外に早く判明した。
その日の帰り、祥子は校門前の高級車に目を奪われた。しかも、白い手袋をした運転手らしき男が、ずっと車の前に立っている。もちろん、それは他の生徒の注目の的でもあった。
一体誰を待っているのだろう?と、祥子は植え込みの影で息を潜めて様子を伺っていた。
5分後。
そこに現れたのは、結衣だった。
結衣の姿を捉えた運転手は深く頭を下げ、後部座席のドアを丁重に開けた。結衣は、優雅に白い座席に腰を下ろし、両足を揃えて車に乗り込んだ。
(・・・ええっ。)
祥子は開いた口がふさがらなかった。
結衣は、一体どこのお嬢様なのだろう?この学校にも良家の子女は大勢いるが、あんな高級車で仰々しく送り迎えされるほどの生徒は、未だかつて聞いたことがない。
「おお、今日も姫君にはお迎えがあったのか。」
突然、後ろから聞き慣れた声がした。
誰かと思って振り向けば、同じクラスの篠崎遼一だ。
「何?篠崎君、知ってたわけ?前田さんのこと。」
「新学期早々、噂だったんだぜ。今更知った三橋は、トロ過ぎ。」
「だって、誰も教えてくれなかったよ?前田さん自身も何も言わないし。」
「言いたくないんだろ?・・・何か、複雑らしいし。」
「複雑?」
篠崎は、スクールバッグを右肩に担ぎなおし、歩き出した。祥子は、その後を追う。
「ねえ、どういうこと?」
「おやじ向け週刊誌にちらっと載ってたんだよ。真崎グループって、あるじゃん。その一族の誰だかが、事故で記憶喪失になった女の子を一時的に引き取ってるんだってさ。」
「それが、前田さんなの?」
「多分な。おととい、記者とカメラマンっぽいの見たし。」
祥子は、篠崎の制服の袖を引っ張って、止めた。
「それ、絶対本当なの?」
篠崎は、左目をちょっと歪めた。
「そんなの、言い切れねぇよ。本当だからって、どうってこともないし。」
「他の人は?そのこと、気付いてるの?」
「さあな。あとは自分で本人に聞いてみれば?」
「聞けるわけないじゃん!だから篠崎君を頼ってるのに。記憶喪失なんて・・本当だったら、やっぱ、気ィ遣わないと・・。」
「そういう柄かよ?三橋が。」
「!何ですって?」
祥子が自分の黒皮鞄を振り上げると、篠崎は軽々と身をかわし、笑った。
「ほら!三橋はそのまんまでいればいいんだよ。その方が、前田だって気楽だろ?」
篠崎の言葉に、祥子は思わず口を噤んだ。
「あんま、変な気を遣わないほうがいいってことだよ。」
篠崎の言うとおりだろう。
結衣が自分から何も語らない限り、聞いてはいけないと思う。
(そうだ。今までどおりで・・いいんだよね。)
だが、半信半疑とはいえ、ある事実を知ってしまった以上、今まで通りとはいかない。やっぱり、意識してしまう。
あんな高級車で送り迎えされるぐらいなのだから、家はどんな感じなのだろう?広い芝生の庭があるのだろうか。そして、ステンドグラスをはめ込んだ洒落た白亜の邸宅が佇んでいるのだろうか・・・。いずれにしろ、祥子の知らぬ世界だ。
次の日の帰り、祥子はさりげなく結衣の後を追って教室を出た。
結衣は一人、校門へ続く緩やかな坂を下っていく。黒い鉄製の豪奢な門の両脇には、コンクリ塀に沿ってケヤキが等間隔に植えられている。その緑の葉の陰に、黒塗りの高級車が見えた。運転手が深く頭を下げ、扉を開ける。と、そのときだった。
結衣が、不意に振り向いたのである。
注意しているつもりながら、隠れる場所を失っていた祥子は、思わず身をすくめた。
だが、結衣は初めから祥子の存在に気付いていたかのように、軽く手を挙げ、それから車に乗り込んだ。
去っていく車の後ろを見届けながら、祥子は結衣が別の世界の人間なのだと思い知らされた気がした。
ただ、お金持ちの家に引き取られているだけかもしれない。
もともとは、記憶を失っただけの、貧しい家の娘なのかもしれない。
だが、今は明らかに、祥子や他のクラスメートとは違う境遇にある。
それが現実だ。
祥子は、結衣が羨ましいと思った。そして同時に、言いようのない寂しさが心の隅を蝕んでいくのを、感じていた。