第3話
季節はめぐり、1年の月日が経った。
研究所を覆い隠す常緑樹の緑が、空の色に映えるようになった3月の終わり。真崎潤一と優三の乗った高級外車が、研究所の入り口に横付けされた。それを出迎えたのは、基と美鈴、そして、二葉の三人だった。
薄紫の柔らかなブラウスを纏った優三は、二葉の手を握り締めた。
「さあ、一緒に行きましょう。私達の家へ。」
「・・・はい。」
潤一はそんな二人を一瞥してから、基に黒皮のアタッシュケースを渡した。
「必要な物はすべてこの中に入っている。抜かりなく頼むよ。私の命令に背いたんだ。その償いは、きっちりと」
「わかっています。」
潤一の言葉を遮るように、基は言い切った。
「わかっていますよ、オーナー。二葉の件を許してくださって、感謝しています。ですから使命は完璧に、こなします。」
潤一は軽く唇の端を持ち上げると、すぐ運転席に戻った。
二葉は優三に手を引かれながら、基の方を振り返った。
基は二葉の不安げな視線に気付くと、少しだけ微笑んでやった。
二葉を乗せ、高級な車は排気ガスの臭いを撒き散らし、走り去っていった。
「お兄様。」
美鈴は基の背に、声をかけた。
「急いで準備しないと、時間が・・・。」
「わかっている。」
基は強く眉根を寄せ、薄くて色の褪せた唇を噛み締めた。
二葉の存在が真崎潤一にばれたのは、4ヶ月前だった。潤一は初めから承知していたかの様に、基に交換条件を突きつけてきた。
そうだ。
このまま二葉を殺したところで、見せしめ以上の得は無い。潤一にとって、命は取引のカードにすぎない。基はそれを見抜いていたからこそ、賭けに出たのだ。
交換条件は、基が1年、ロシアの研究機関でスパイ活動をすること。潤一は十分な根回しをするが、基の安全が保障されるわけではない。文字通り、命がけだ。そしてその間、二葉は「身寄りを突然事故で亡くした不幸な記憶喪失の娘」として、真崎家に引き取られる。「病院でたまたま出会った可哀想な娘を真崎夫婦は放っておけなかった」という筋書きを、マスコミに売り込みたいらしい。
(くだらない事を、よく次から次へと考えつく。)
二葉を手放すこと自体に不安はなかった。マスコミに二葉が曝される以上、少なくとも外に出るような傷を負わされることはないだろうし、優三もいる。だが基には、その前にやっておくべき事があった。それは、二葉の顔を整形手術で変えておくこと。二葉は「遠野二葉」としてではなく、あくまでも「身寄りのない記憶喪失の娘」として真崎家にひきとられるのだ。1年経てば、二葉は研究所に連れ戻される。そして再び、「遠野二葉」として学校を転々とする。そのときに、遠野研究所と真崎グループとの繋がりが少しでも疑われるようなことが、絶対にあってはならない。だから、別人に仕立てておく必要があるのだ。
手術の自信はある。
一度顔を変え、また元の顔に戻す自信も、ある。しかし、染み一つない二葉の顔にメスを入れることには躊躇いがあった。だが、やるしかない。真崎潤一に逆らうにも、限界はある。
基は、二葉をどんな顔に変えたか覚えていない。目を開いても、閉じても、瞼の裏には以前の可憐な顔しか浮かばない。遺伝子操作という人の手を加えて出来た顔であっても、生まれ持った顔には変わりがない。それを、人の勝手な都合で変えていいはずがない。
基は、その日のうちに研究所を後にした。
ロシアの研究所で研究員として働き、その中で情報を盗む。万が一ばれた場合には、自決するよう、潤一から言い含められている。
そんな危険な任務に赴く兄を、美鈴は黙って送り出した。
二度と、会えないかもしれない。
そんな覚悟は、今に始まったことではない。
この研究所に関わっている以上、次の瞬間にも自分の命が絶たれるかもしれないと、いつも覚悟している。それは基だって同じはずだ。
二葉の事がなければ、この仕事を断ることが出来ただろうか?
そうは、思わない。
だが潤一が、基が絶対に断らないタイミングを見計らったのは、確かだ。
これから1年、美鈴は一人でこの研究所の留守を守っていかねばならない。それは、予想以上に心細いことだった。オーナーとはいえ、真崎潤一は頼ってもいい存在ではない。
美鈴がずっと、心待ちにしていること。
それは、自分の命が尽きる日だった。