第2話その6
守るべきものなど無いほうが、どれだけ楽か。
心の強さなどいらない。義理とか情けとか、そんなものを感じることなどできなくていい。どんなに虚しくたってかまわない。
独りで、自分のことだけを考えて生きていけたら ―
真崎邸からの帰り道。基は高速道を走りながら、そんなことばかり考えていた。
もし、基が潤一に逆らえば、研究所は後ろ盾をなくし、つぶれる。研究所員達は路頭に迷う前に、潤一の手下に口封じで殺されてしまうだろう。それは基も、美鈴も同じだ。あの男にとって、自分以外は人間ではないのかもしれない。ただの道具で、役に立たなくなれば捨てる。優三が研究所にやってくるたび、基は優三の美貌を保つための施術を行っている。潤一は、優三の顔には絶対に手を出さない。それが、外部への重要な武器になるからだ。身体は服で誤魔化せても、顔は、そうはいかない。化粧で誤魔化せば厚化粧になり、不評を招く。基はそんな潤一のやり方を、30年以上も見てきた。
だからといって、二葉を殺せるか。
(やはり、自分の遺伝子など使うんじゃなかった。)
基が二葉を大事に扱うのは、もう一つ理由がある。
二葉の母親にあたる女が、基の恋人だったということだ。
それは、人体実験にするべく連れてこられた「紀子」だった。父親が博打で莫大な借金をつくり、その返済の執拗な取立てから逃げてきたという。樹海で首をつって間もないところを基が見つけ、研究所に連れてきた。街中で拉致するのは危険が伴うが、樹海で死に急いでいる人間を連れてくるのは楽だったため、実験台や臓器入手の常套手段となっていた。
紀子は若く、もとの身体は丈夫だったため、基は代理母として使おうと考えた。とりあえず死ぬことを忘れさせ、健康体で生きてもらわねばならない。「ここなら、借金取りは絶対に来ないから。」と、なだめ、落ち着かせ、看病したのは基だった。そんな中、二人の距離は急速に縮まり、やがて愛し合うようになっていた。
基にとっての遺伝子操作と人工授精は、二葉が二人目だった。一人目は奇形児だったため、闇に葬られた。もう、失敗はしたくないと考えていた。そのためにも、今回は自分の遺伝子を使おうと決めていた。そうすれば、嫌でも真剣になるはずだ。自分の遺伝子が変異して奇形になる様子など二度と見たくない。そして更に、基の対となる遺伝子として紀子を選んだ。
紀子は基の頼みなら何でも受け入れた。そして出産後、基の父により殺された。
わかっていたことだった。
実験台は、用が済めば処分されることを。
さすがにショックの色を隠せなかった基に、父は言い放った。
「実験台は研究所の商品だ。その商品はすべて、オーナーのものだ。それに手を出すことは許されない。これに懲りたら、二度と実験台に情をかけるな。」
そうだ。
二葉も、研究所の商品だ。
それに情をかけてはいけないのだ。
(研究所の商品だ。だから大事に守っていこうというのでは駄目なのか?)
黒い革張りのハンドルを握りなおし、基はアクセルを更に踏み込んだ。
あの時、優三が潤一にたてつかなければ、二葉は救われたのかもしれない。だが、優三を責めることなどできない。優三の二葉を思う気持ちが強かったからこそ出た行動だったのだ。それを、怨むことはできない。
研究所に戻った基は、すぐに美鈴を呼んだ。
「確認しておきたいことがある。」
基の額に、青い血管が浮き上がっている。こういうときの基は、色々な意味で限界に達している。
「二葉の盗聴器と発信機の受信ができるのは、美鈴だけか。」
「・・・ええ。」
「それは、確かか?絶対か?」
下から見上げる射るような目つきに、美鈴は一瞬たじろいだ。だが、
「絶対よ。他の誰にも、受信はできない。」
「オーナーも、できないな?」
「・・・それは、絶対とは言い切れないけれど・・。9割がた、できないと言っていいわ。」
それを聞いたとたん、基の身体は動いた。
「すぐに二葉を手術室へ連れて行ってくれ。あとは、美鈴。お前だけ、一緒に来い。他の研究員達には、絶対に気取られるな。」
「え・・・?一体、どういうこと?」
「わけは後だ。とにかく、急げ。」
基は二葉の記憶を消すため、脳の手術をした。
生まれてから、今までのすべてを忘れてもらう。
目覚めても、すぐに学校へ行けるような状態にはならないだろう。最低1年は、社会生活に対応するための訓練が必要になる。しかも、真崎潤一の目を盗んで。
手術後。基は、その決意を美鈴に告げた。
「私の自室に、二葉を住まわせる。部屋からは一歩も出さない。適当な臓器を研究員とオーナーに見せて、二葉を殺したことにしておいてくれ。」
冷たくなった額を抱えながら、基はうなだれていた。だが、美鈴は首を振った。
「隠しきれるとは思えないわ。・・・一生、隠し通すつもり?」
「正常に戻ったら、オーナーにすべてを話す。使命を果たせる状態になった二葉を、オーナーも殺せとは言わないだろう。」
「どうかしら?お兄様が命令に逆らったという事実に対する報復の方が恐ろしいわ。」
「万が一のときは、私が・・・すべての責任をとる。だから美鈴。協力してくれ。」
美鈴は、銀縁の眼鏡をはずし、こめかみを指で押さえた。
「自信がないわ。」
「頼む、美鈴。私の一生の願いだ。お前がオーナーの命令に絶対逆らわないことを承知で、頼んでいる。・・・頼む。」
深く、深く頭を垂れる兄を、美鈴はこれ以上拒絶することができなかった。
長い戦いになる。
美鈴も、相当の覚悟を強いられる。
それは、基と美鈴が「研究所」という組織に対して持った、初めての秘密だった。