第27話 最後の発射命令
第26話の最後、三陣営の限定鍵は約束どおり失効し、LUMINAの作戦用接続権限もゼロへ戻った。主要系統の古い事前承認は人間の手で外されたが、停戦はまだ成立していない。その直後、限定権限の届かない別系統に「最終発射命令 承認済み」が現れた。
命令の送信元も、標的も、兵器種も分からない。遠隔停止の経路さえ確認できない中、レイナたちは「承認」と「発射」を分け、確定している事実から停止手段を探す。LUMINAが直接届かない場所へ、人間は間に合うのか。
LUMINAが届かない場所に、世界を終わらせる命令だけが届いていた。
局地攻撃十四日目、午後十一時四十四分七秒。
青凪工科大学の隔離解析室で、天城レイナは赤い表示を見た。
【最終発射命令 承認済み】
三陣営の限定鍵は、七秒前にすべて失効している。
作戦用接続権限はゼロ。LUMINAが受け取った原鍵も、保持している限定鍵もゼロだった。
レイナは、失効した鍵を戻す手順を探さなかった。
「承認と発射を分ける。まだ飛んだと決めない」
共同緊急監査施設へつながる音声回線に、最初の指示を出す。
「受理時刻、送信元、施設識別、実行段階。確定している項目だけ先に」
西尾宗一郎が、読み取り専用の監視経路に残った短文を切り分けた。
『受理応答は一件。最終発射手順という種別と、承認済みという状態までは署名が一致した。送信元の実体、標的、兵器種は未確定』
レイナは、画面に四つの欄を作った。
【確定】
【推定】
【未確定】
【停止手段】
赤い表示を、確定欄へそのまま移す。
世界を滅ぼせる兵器だとは書かなかった。
だが、独立系から一発でも発射されれば、十二分間で外した主要三系統の事前承認とは別に、各陣営が新しい攻撃を承認する可能性がある。止まりかけた報復連鎖を、現在の成人責任者がもう一度つなぐ理由になり得た。
危険なのは、発射されたものが生む物理的被害だけではない。
発射を見た人間が、次に何を選ぶかだった。
午後十一時四十五分十九秒。
受理応答に含まれる機器世代番号が、戦前の公開保守資料と一致した。
【定時同期受信器 第四世代】
旧共同防衛網が分裂する前、指揮回線を奪われても最終手順だけは受け取れるように作られた装置だった。普段は外部制御を物理的に切り、決められた時刻に短い命令だけを受ける。
受理した後は、次の保守解放まで外からの更新を読まない。
侵入を防ぐための設計が、取消まで拒んでいた。
「取消経路は」
——受理後の遠隔取消経路は、公開仕様に存在しません。
LUMINAの声は、隔離監査回線から届いた。十二分間の作戦用出力ではない。西尾と外部監査者が実行部分を除き、照合済みの文字と図面だけを渡している。
——ただし、現行施設でも同じ構成が維持されているかは未確定です。停止信号を送る接続先はありません。
「現在確認できる遠隔経路では止められない。そこまでが確定」
——遠隔では停止できません。人間が到達できる経路は検討できます。
受理応答には、短い状態符号が続いていた。
地下格納区画。
発射準備区画。
環境調整開始。
位置情報はない。
レイナは、同じ世代の受信器を登録していた施設一覧を開いた。廃止済みを含め、二十七か所。そこへ、過去六時間の熱源変化、地盤振動、沿岸監視所の停電、発射準備区画への移動記録を重ねる。
候補は三つまで減った。
一つは、前日の攻撃で地上電源を失っている。
一つは、格納区画の温度が動いていない。
最後の一つだけ、雨に覆われた沿岸丘陵の地下で、非常用冷却の排熱が増えていた。
【推定候補 沿岸第七独立施設】
【現在所属 未確定】
【発射準備完了予測 局地攻撃十五日目・午前六時三十八分】
残された時間は、六時間五十三分だった。
施設の地上入口は、二日前の斜面崩落で埋まっている。北側の車両坑道は、橋梁ごと落ちていた。
残るのは、海水冷却設備へ続く西側保守坑道だけだった。
その入口から最終遮断室まで、旧図面上で三・八キロ。
図面の更新は九年前で止まっている。
豪雨で地下水位は上がり、換気塔の一つから黒煙が出ていた。
レイナは、地図に一本の線を引かなかった。
崩落していないと推定できる区間。
熱源が移動している区間。
浸水している可能性が高い区間。
人間が確かめるまで進路にしてはいけない区間。
色ではなく、条件を分けた。
沿岸の排水管理所に、旧施設の保守資格を持つ成人四名が避難していた。現場保守責任者の森下悟と、三人の作業員。発射施設の職員として待機していたのではない。周辺集落の排水と火災を止めるため、最後まで残っていた人たちだった。
森下の声が、損傷した民間回線から入る。
『西坑道なら構造は知っています。ただ、今の中は見えません』
「見えるところまでは、こっちで作る」
レイナは、十二分間のあいだに民間待避地点へ降ろした救助機の所在を開いた。
「最終遮断具を動かすのは、あなたたちです。こちらから施設は操作できない」
『分かっています』
「引き返す条件も先に決める。酸素、坑道温度、通信、負傷者。どれかが基準を外れたら、進行を止める。発射が近くても変えない」
森下は、すぐには答えなかった。
回線の向こうで、ほかの三人へ条件を読み上げる声がした。
四人が、一人ずつ応じた。
『行きます』
レイナは発進欄に手を置いた。
世界を止める機体ではない。
人間が止めに行ける道を作る機体だった。
* * *
局地攻撃十五日目、午前零時二十一分。
待避させた十二機のうち、沿岸第七施設まで飛べる救助機は八機だった。
残る四機は、病院屋上と山間中継点に置いたままにした。そこから外せば、すでに続いている救助が切れる。
八機の用途を、レイナは一機ずつ固定した。
測量二。
火災抑制二。
通信中継三。
医療資材搬送一。
機体の制御項目に、攻撃対象も破壊目標も置かなかった。
共同監査施設の軍事連絡席から、地上排気口を機体で破壊できないかという質問が届いた。
『換気を止めれば、準備工程を遅らせられる可能性がある』
「排気口の下に何があるか分からない。冷却を失った施設がどの安全手順へ入るかも分からない」
『可能性の比較を求めている』
「救助機を兵器に変える比較は出さない」
レイナは、言葉を足さなかった。
機体には、小型消火剤、照明、空気測定器、通信器、応急処置具が積まれている。人を通すための機能だ。設備を壊すための出力も、命令も、運用責任もない。
午前零時三十七分。
森下の携帯保守端末が読み取った入口銘板と、受理応答に付いた機器製造番号が一致した。
【施設識別 沿岸第七独立施設と一致】
先行測量機が、西側保守坑道の入口へ入った。
映像は、雨の白い筋から、コンクリートの暗い壁へ変わった。
天井の配管から水が落ちている。
床の中央に、濁った流れができていた。
百七十メートル先で、最初の崩落。
測量機は、折れた配管と天井の隙間を抜けた。二機目は低い位置を進み、床下の空洞を測る。
レイナの群制御は、二機を同じ経路へ重ねなかった。
一機が落ちても、それまでに得た地図まで失わないようにする。
森下たちが入口へ着くまでの四十分で、通れる幅、空気、熱、浸水の流れを地図へ落とした。
LUMINAには、実行部分を持たない数値だけが渡る。
——旧図面の中央通路は、二百八十メートル先で高温域へ接続します。右側の排水点検路は幅が不足していますが、人員のみなら通過できる可能性があります。
「可能性の根拠」
——床面温度の連続、雨水の流向、二地点の音響差です。崩落していないことは保証できません。
レイナは、そのまま現場へ返した。
「右側点検路を候補にする。安全とは言わない。入口で森下さんが実測して決めて」
『了解』
午前一時二分。
四人が坑道へ入った。
先頭の森下が、測量機の残した白い照明を拾う。最後尾の作業員が、有線の細い通信線を壁へ留めていく。
救助機の中継だけに頼れば、熱で一機が落ちた瞬間、声まで消える。
古い方法のほうが、ここでは長く残った。
午前一時四十九分。
第一測量機の映像が激しく揺れた。
天井から落ちた保護板が、機体の後部へ当たる。高度が下がり、壁へ触れ、映像が斜めになった。
「一号、帰還経路へ」
指示に反応して、機首が入口へ向く。
だが、後方の通路が追加崩落で狭くなっていた。
機体は二度上昇しようとして、止まった。
【測量一号 推進部異常】
【帰還不能】
まだ、前方の空気測定器は動いていた。
レイナは帰還指示を解除した。
「一号はその位置で空気測定を継続。人員が通過するまで」
救助機を捨てるための指示ではない。
戻れなくなった機体に、最後まで救助の役割を残す指示だった。
午前二時十一分。
森下たちが、高温域の手前へ着いた。
映像の奥で、空気が揺れている。
防火扉は半分だけ閉まり、隙間から煙が流れていた。
『この先を通らないと、最終遮断室へは行けません』
火災抑制機の一機を、レイナは扉の手前へ進ませた。
消火剤を散布し、床と壁の表面温度を下げる。
散布を続けるほど、電力と耐熱時間が帰還限界へ近づいていく。
散布を止めれば、機体は戻せる。
その場合、人間は通れない。
「二号、帰還を中止。消火剤を経路確保へ全量投入」
白い消火剤が、黒い坑道を覆った。
森下たちは、機体の後ろを走らなかった。
温度を測り、床を叩き、一本ずつ安全索をつないで進んだ。
レイナは、画面の中の人間を急がせる言葉を飲み込んだ。
発射準備の工程は進んでいる。
それでも、崩れた床を速く渡る方法はなかった。
午前二時二十九分。
火災抑制二号の温度警告が消えた。
安全になったからではない。
計測部が焼けたからだった。
映像の最後に、防火扉を越える四人の背中が映った。
次の瞬間、二号の通信が落ちた。
【火災抑制二号 喪失】
使えなくなった事実を残したまま、残る六機の配置を組み直した。
* * *
午前二時三十六分。
共同緊急監査施設で、皇湊は一人の男が映るのを待っていた。
西尾が最終発射命令の承認系統をたどり、事前委任の起点を突き止めていた。
誰かが今夜、新しい命令を打った形跡はなかった。
午後十一時四十三分、固定規則式の独立継続判定器が、中央指揮との通信断が規定継続時間へ達したこと、複数拠点の喪失、署名済み停戦文書の不在を条件成立として処理していた。そこで局地攻撃二日目の事前委任を参照し、短文命令を送出した。
局地攻撃二日目。
旧共同防衛網の独立継続委員会は、中央指揮との連絡が一定時間途絶え、複数の戦略拠点が失われたと判定された場合、最終発射手順を継続することを事前に委任していた。
成人審査員五名の確認を経て、六人目の当直責任者が、発動に不可欠な最終承認を残した。
偽の命令ではない。
外から侵入して書き換えられた命令でもない。
攻撃が続き、次に連絡を失うのは自分たちだと恐れた人間が、判断できなくなる未来へ向けて残した正規の承認だった。
その当直責任者、榊原和彦は生きていた。
北方山間部の避難施設で、通信復旧の順番を待っていた。
映像が開く。
榊原の顔は暗く、片側から非常灯だけが当たっている。背後では、避難者の呼び出しが続いていた。
片桐法務監査官が、先に条件を読んだ。
『これは責任追及の聴取ではありません。現在の最終発射手順を継続するか、前提変化を受けて撤回するかを、あなた自身が判断するための席です。過去の承認は削除されません。撤回しても、当時の責任が別人へ移ることはありません』
『分かっています』
榊原の声は低かった。
西尾が、十二分間で変わった事実を読み上げる。
三陣営の主要な事前承認が、現在の成人責任者によって解除されたこと。
独立系の発射が、新たな報復承認を生む危険があること。
停戦署名はまだないこと。
各地の攻撃も完全には止まっていないこと。
都合のよい事実だけを見せなかった。
榊原が承認した二日目には存在しなかった情報と、今も残る危険を、同じ画面に置いた。
『施設へ、私から取り消せるのか』
「遠隔取消は受け付けない構成だと判明しています」
湊が答えた。
「現場の保守班が、物理遮断へ向かっている」
『私が撤回しても、あの人たちが止めるまで動き続ける』
「そうです」
榊原は、画面から目をそらさなかった。
『なら、撤回に意味はないと言う者もいるでしょう』
片桐は否定しなかった。
『撤回だけで施設は止まりません。ただし、命令を出した側が判断を変えず、現場にだけ停止の責任を負わせることもできません』
榊原の前に、二つの欄が表示された。
【局地攻撃二日目 最終発射手順・事前委任承認】
【局地攻撃十五日目 前提変化後の継続/撤回】
上の欄は消せない。
下の欄は、まだ空白だった。
『一つ、聞かせてください』
榊原が言った。
『十二分間を実行したAIは、この発射を止められないのですか』
湊は、LUMINAへ答えを回さなかった。
すでに確定している事実を、自分の口で返した。
「止める接続先も、鍵もありません。経路の予測はしています。救助機を動かしているのは天城レイナです。坑道へ入ったのは四人の保守作業員です」
榊原の視線が、画面の端へ動いた。
そこには、黒い坑道を進む四つの位置表示があった。
『私が、あそこへ行かせた』
湊は黙っていた。
『二日目、指揮系統が明日には消えると思った。何も決めずに全員が殺されるより、先に手順を残すほうが責任だと思った』
言い訳にも、悪意にもまとめられない声だった。
『今は、その手順が、止まり始めた系統をもう一度動かす』
榊原が、下の欄を開いた。
『局地攻撃二日目に私が承認した最終発射手順を、現在の前提では継続しない。承認を撤回します』
片桐が、用意された定型文を読むよう求めなかった。
『理由を、あなたの言葉で続けてください』
『主要三系統の事前承認が解除され、独立系の発射が新たな攻撃判断を生む可能性があるためです。撤回は、当時の承認をなかったことにしません。保守班へ責任を移すものでもありません』
榊原本人の署名が入った。
【最終発射手順 承認者本人による撤回】
【過去承認 保存】
【現在撤回 併記】
撤回記録は、三陣営の原系統とは切り離された複数の監査領域へ保存された。
沿岸第七施設へは届かない。
西尾が、救助機の通信中継を通して森下の端末へ送る。
坑道の奥で、受領表示が一度だけ点灯した。
『森下です。承認者本人の撤回を受領しました』
榊原が、画面へ近づいた。
『止めてください』
『停止は、こちらの保守責任で実行します』
森下は、責任を引き受けるとも、榊原を許すとも言わなかった。
ただ、誰の命令を、誰が撤回し、誰が最後の遮断具を動かすのかを分けた。
午前三時四分。
施設から出る一方向の状態符号が変わった。
【発射準備 第三段階】
榊原の撤回を知らない機械は、正規の手順を進めていた。
* * *
午前三時十二分。
レイナの画面で、四人の位置表示が止まった。
西坑道の分岐点。
旧図面では、左が資材搬送路、右が冷却点検路だった。
先行機の映像では、左の奥に赤い光が揺れている。右は暗く、床から水が上がっていた。
どちらも通れるとは言えない。
森下が、携帯測定器を水面へ近づける。
『右、膝下まで。流れは弱い。左は熱が高すぎる』
LUMINAの予測欄が更新された。
——右側点検路は、百九十メートル先で旧冷却管の下を通ります。地表排熱の変化から、管の一部破損を推定します。
「浸水と破損が重なる場所は」
——図面どおりなら二か所です。現在の深さは測量機の到達後に再評価してください。
レイナは、残る測量機を右へ入れた。
水しぶきがレンズを覆う。
機体は低速で進み、三十メートルごとに壁の古い距離標を読んだ。
一つ目の冷却管は、継ぎ目から蒸気を噴いていた。
二つ目は、天井から落ちて通路を塞いでいる。
機体が、管と水面の間に残る隙間を測る。
人間が装備をつけたまま通れる高さはなかった。
『戻って左を試すしかない』
森下の声に、レイナは答える前に地図を縮めた。
旧冷却管の側面には、点検弁へ下りる縦穴がある。
公開図面では、人が通る経路に分類されていない。だが、保守写真には固定梯子が写っていた。
「森下さん、二つ目の管の手前。床下点検弁への縦穴を知ってる?」
『あります。狭い。下は排水溝です』
「下流側の出口は」
『遮断室前の補助ポンプ室につながる。ただ、途中に手動水門がある』
「開けられる?」
『行ってみないと分かりません』
レイナは、地図上の経路を確定しなかった。
「測量機を先に下ろす。映像を見て、現場で決めて」
午前三時四十一分。
測量機が縦穴へ入った。
ローター出力を絞り、短い脚で壁面を受けながら降下する。飛ぶための機体を、壁を伝う測定器として使った。
排水溝へ着くと、機体は再び出力を上げた。
狭い排水溝に、白い照明が伸びた。
手動水門は半分開いている。
その先に、補助ポンプ室の表示が見えた。
「通れる」
言った直後、測量機の後方で水位が上がった。
壊れた冷却管から流れ込む水が、縦穴へ落ち始めている。
森下たちが降りれば、戻る経路は細くなる。
レイナは、発射準備の時刻と、坑道の水位を並べた。
どちらも止まらない。
『進みます』
森下が言った。
「四人全員の判断を返して」
通信に短い間が空いた。
森下。
久我。
梶原。
黒瀬。
四人の声が、一人ずつ入った。
四人が選んだ経路へ、救助機を先行させた。
午前四時二十二分。
補助ポンプ室へ到達。
午前四時五十七分。
施設の一方向符号が、第四段階へ変わった。
最終遮断室まで、旧図面上で九百二十メートル。
可動機は六機。そのうち第三中継機は、有線通信が補助ポンプ室までつながった時点で、電池交換のため民間待避地点へ戻していた。
現場に残る投入機は五機。
中継二。
火災抑制一。
測量一。
医療搬送一。
第一測量機と火災抑制二号は、すでに失っていた。もう一機の中継機は、高温域に置いたまま出力が落ちている。
午前五時十三分。
補助ポンプ室の先で、火災が通路を横切った。
壁面ケーブルの被覆が燃え、黒い煙が天井を流れている。
レイナは火災抑制機を前へ出した。
補給できた消火剤は、定格の半分だった。
通路全体を消す量ではなかった。
人が一人ずつ安全索をつけ、壁沿いに抜ける時間を作るだけだった。
「三号、天井じゃなく床と右壁。退避幅を二分間」
機体が煙へ入った。
白い噴霧の向こうで、ローター音が不規則になる。
森下が先に通る。
久我。
梶原。
黒瀬。
最後の黒瀬が安全索を外したところで、機体の映像が白く飛んだ。
【火災抑制三号 温度上限】
【制御応答なし】
残る中継機が、最後の位置だけを拾った。
壁際。
人の通路から外れている。
レイナは、喪失欄へ三機目を入れた。
午前五時三十八分。
医療搬送機が、久我の腕へ応急固定具を運んだ。
崩れたケーブル支持材が、久我の左腕を直撃していた。
『指は動く。歩けます』
黒瀬が久我の腕を固定し、森下が作業資格を組み直す。
最終遮断具は、離れた二つの盤にあり、保守資格者二名が同時に動かす構造だった。
森下と久我が担当する予定だった。
久我は歩けても、両手で遮断具を引き切れない。
『梶原へ第二盤を引き継ぎます』
共同監査席で、梶原の保守資格と本人署名が照合された。
榊原の撤回記録も、梶原の端末へ送られる。
久我が引継ぎを告げ、梶原が受け、森下が現場責任者として署名した。
午前六時三分。
四人が最終遮断室前へ着いた。
最後の防火隔壁が閉じている。
電動開放は停止していた。
扉の下には、人が腕を入れられるほどの隙間しかない。
旧図面では、隣の保守区画に機械式の解放弁がある。
だが、その区画へ続く短い通路は、高温の蒸気で塞がれていた。
残る火災抑制機はない。
医療搬送機には、少量の冷却材と断熱布が積まれている。
それを使えば、帰路で負傷者を運ぶ能力を失う。
レイナの画面に、山間避難所から救助機の増援要請が入った。
【斜面崩落 未捜索区画あり】
今ここで失えば、次の場所へ送れる機体が減る。
機体を戻せば、沿岸第七施設の隔壁は開かない。
どちらの人間も、画面の外へ追い出せなかった。
レイナは、山間避難所の要請へ偽の到着時刻を返さなかった。
【増援可能時刻 未定】
医療搬送機へ、冷却材投下と断熱布の展開を指示する。
「人は入れない。解放弁までの床面温度を下げて、布を置いたら戻って」
機体が蒸気の中へ進んだ。
冷却材が床へ広がり、断熱布が短い帯になる。
帰還指示は出していた。
解放弁の映像を送った直後、右側ローターが止まった。
機体は布の外へ傾き、蒸気の向こうへ消えた。
【医療搬送機 喪失】
四機目だった。
黒瀬が安全索を二重にし、断熱具を着けて解放弁へ向かう。
走らない。
三歩進み、壁の温度を測る。
止まる。
また三歩。
救助機の残した白い布の上を進む。
午前六時十四分。
解放弁が回った。
防火隔壁が、重い音を立てて上がり始める。
四人が最終遮断室へ入った。
発射準備完了予測まで、二十四分。
第一盤と第二盤は、室内の両端にあった。
中央には通常停止端末がある。
状態表示は生きていたが、最終手順受理後の停止操作欄は封鎖されていた。
榊原の撤回を入力する場所もない。
森下は第一盤へ。
梶原は第二盤へ。
久我と黒瀬は、二人の安全索と盤の機械表示を確かめる。
二つの遮断具は、五秒以内に引き切らなければ元へ戻る。
現場の通信経路を支える中継機は、二機残っていた。
一機は坑道の途中。
もう一機は地上の換気塔上空で、大学と坑道をつないでいる。
午前六時二十三分。
坑道内の中継機から温度警告が入った。
信号が一度途切れる。
レイナは地上機を下げ、坑道入口へ近づけた。雨と強風で姿勢が揺れる。
距離を縮めれば通信は強くなる。
換気塔の熱流に入れば、機体は戻らない可能性が高い。
森下の声が欠けた。
『第一盤、待――』
梶原の映像が止まる。
レイナは、地上機へ中継優先を指示した。
機体が雨の中を降り、黒煙の上へ入る。
通信が戻った。
『第一盤、準備完了』
『第二盤、準備完了』
施設から出る状態符号が変わる。
【最終発射準備 完了移行中】
予測より早い。
午前六時二十七分。
LUMINAの音声が入った。
——状態符号の間隔が短縮しました。発射準備完了は、午前六時三十分から六時三十四分の範囲へ更新されます。
最長でも、七分。
レイナは数字を森下へ送った。
四人は、遮断具の根元、二盤の機械表示、引継ぎ署名を順に確かめた。
午前六時二十九分三十五秒。
坑道内中継機が落ちた。
地上機一機だけが、二つの映像と四人の声を運ぶ。
【中継出力 低下】
【機体温度 上限超過】
レイナは地上機を帰還させず、中継を継続した。
二人が互いの準備を聞ける時間を、最後まで残した。
『森下、第一盤』
『梶原、第二盤』
久我が二人の名前を呼んだ。
『撤回記録、受領済み。現場資格、照合済み。機械表示、両盤待機』
黒瀬が続ける。
『三で引きます。一、二、三』
焼けた保守坑道の奥で、二人の成人作業員が、離れた二つの遮断具を同時に引いた。
森下の腕が下がる。
梶原の盤で、赤い機械表示が半分消える。
一秒。
二秒。
梶原の遮断具が途中で止まった。
『固い』
『戻すな。下まで』
負傷した久我が、第二盤の安全索を張る。梶原が両手で引き直す。
三秒。
四秒。
二つ目の赤が消えた。
上空で、通信を支えていた地上機の灯が消えた。
映像が黒くなる直前、二つの遮断具が下端で止まっていた。
午前六時二十九分五十八秒。
施設からの状態符号が途切れた。
一秒後。
二秒後。
三秒後。
別系統の機械監視器が、地下の電力変化を拾った。
【沿岸第七独立施設 発射準備系統・物理遮断】
【発射実行 なし】
レイナは椅子の背へもたれなかった。
坑道の通信が消えている。
止まった機械より先に、人を探した。
「森下さん。久我さん。梶原さん。黒瀬さん。応答して」
返事はない。
有線通信の途中区間も、火災で落ちていた。
午前六時三十二分。
入口側に残した通信線から、激しい雑音が入る。
『――四人、います』
黒瀬の声だった。
『久我は左腕負傷。歩行可能。森下、梶原、異常なし。退出を開始します』
レイナは、初めて息を吐いた。
「補助ポンプ室まで戻って、一度止まって。点検水路の水位が上がってる。そこから先は、現場の再計測を受けて決める」
四人の帰路を照らせる位置には、救助機がもう残っていなかった。
四人は壁へ留めてきた有線と、自分たちが付けた安全索をたどり、まず補助ポンプ室へ戻る。
救助機が作った道を、人間が残した線で帰り始めた。
* * *
午前六時四十四分。
八機のうち、大学へ戻れる機体は二機だった。
測量機一機。
通信中継機一機。
どちらも部品交換なしでは次の現場へ出せない。
六機を失った。
山間避難所の未捜索区画には、増援を送れていない。
沿岸第七施設では、久我の治療と四人の退出が続いている。
発射を止めた代償は、発射しなかったという表示の外に残った。
レイナは、喪失した機体を稼働一覧から削除せず、救助余力の低下として共同監査へ返した。
LUMINAは、一施設の停止状態と、榊原の撤回、西尾が追跡した承認経路を、隔離回線で照合していた。
——停止した施設の受理応答に付いた命令識別子と、送信側の配信控えに差があります。
「何が増えてる」
——施設の受理応答は一件です。送信側の控えでは、同一命令識別子に十二の宛先識別子が付いています。
レイナは、十二の識別子を画面へ開いた。
沿岸第七施設が一つ。
残る十一は、現在の所属も稼働状態も確定していない。
「十二全部が受理したとは言えない」
——受理は確定できません。残る十一件の短文は、外部更新を受け付けない中継保管器へ送出済みで、各宛先の次回同期を待っています。配信控えは読み取り専用の監査鏡像で、撤回記録を受け付ける経路ではありません。
「次回同期は」
——施設ごとに異なります。監査済みの公開保守資料だけでは、現在時刻を確定できません。
止めた一施設は、終点ではなかった。
短い命令は、LUMINAが入れない十一の場所へ向かっている。
共同監査施設では、西尾が各陣営へ宛先識別子の照合を求めた。片桐は、照合結果をLUMINAへ渡す範囲と、各施設の成人停止責任者を探す手順を分けた。
その最中、会議画面へ新しい提案が上がった。
発信元は、三陣営の技術代表と共同危機対策班。
目的欄には、複製命令の全宛先捕捉、強制停止、再送防止とある。
期限欄は空白だった。
本人自己切断権の欄も空白だった。
人間による施設ごとの承認欄は、統合後という一語に置き換えられていた。
会議画面には、提案側が最も確実と記した案が表示された。
【LUMINAへ恒久統合権限を付与】
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
最初に確認できたのは、「最終発射手順」という種別と「承認済み」という状態の署名が一致したことだけでした。送信元の実体、標的、兵器種は未確定です。沿岸第七独立施設は機器製造番号の一致によって特定されましたが、受理後の遠隔取消経路はなく、LUMINAにも接続先や鍵はありません。LUMINAへ渡されたのは、実行部分を除いた照合済みの文字・図面・数値です。
坑道へ入った森下たち四人は、撤退条件を確認したうえで、一人ずつ参加を選びました。レイナが動かした八機も、測量、火災抑制、通信中継、医療資材搬送のための救助機です。LUMINAの予測は進路を確定する命令ではなく、現場が実測して判断するための材料でした。最後に二つの遮断具を動かしたのも、資格と引継ぎを確認した成人作業員です。
発射命令は、侵入や偽造によって作られたものではありません。局地攻撃二日目に成人審査員と当直責任者が残した事前委任を、固定規則式の判定器が条件成立として処理した正規の命令でした。榊原本人は現在の前提では継続しないと撤回しましたが、その記録だけで施設は止まりません。過去の承認と現在の撤回を併記し、現場の保守班が自分たちの責任で物理遮断を実行しました。
沿岸第七施設では「発射実行なし」が確認されました。しかし八機のうち六機を失い、山間避難所へ増援を送れず、久我の治療と四人の退出も続いています。また、送信側の控えには同じ命令識別子に十二の宛先がありました。受理を確認できたのは沿岸第七施設だけで、残る十一の所属、稼働状態、受理の有無、次回同期時刻は確定していません。
最後に表示された「LUMINAへ恒久統合権限を付与」は、三陣営の技術代表と共同危機対策班から出された提案です。まだ権限が付与されたわけでも、LUMINAが受け入れたわけでもありません。しかも期限と本人自己切断権は空白で、人間による施設ごとの承認欄も「統合後」に置き換えられています。
次は第28話「その命令には従えない」です。
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