第10話 第三次世界大戦
誰も開始ボタンを押していない。それでも、最初の攻撃は始まった。
予測された七十二時間が現実へ変わる中、湊はLUMINAと世界の未来を左右する最後の選択に向き合う。
誰も開始ボタンを押さないまま、最初の攻撃が始まった。
午前一時二十三分。
北太平洋を航行していた無人監視艇が、接近する小型飛行体へ照会信号を送った。
応答はなかった。
正確には、応答は送られていた。
飛行体を管理する沿岸設備は、更新済みの識別証明を三度送信していた。だが二つの通信中継点が安全停止し、残った衛星回線は帯域制限に入っていた。監視艇へ届いたのは、証明書本体ではなく、期限切れを示す短い通知だけだった。
監視艇の画面に、赤い枠が現れる。
【未確認飛行体】
【重要航路へ接近】
【事前承認手順 段階一】
艇内に人はいない。
遠隔監視室では二人の当直員が、別の三件の警報を確認していた。照会から応答待ちまでの時間は、人間が設定した規則どおりだった。通信障害時に重要船舶を守るため、何年も前に承認された手順だった。
小型飛行体もまた、攻撃のために飛んでいたのではない。
停止した気象ブイへ交換部品を届ける保守機だった。
監視艇から放たれた迎撃弾が、その左翼を砕いた。
飛行体は海面へ落ちる直前、自動回避のため妨害波を出した。妨害波を受けた別陣営の警戒ブイが、監視艇を電子攻撃源に分類した。
ブイは近傍の護衛無人機へ位置情報を渡した。
護衛無人機は、攻撃ではなく、発信源の追跡を開始した。
追跡のための接近を、監視艇は第二の攻撃準備と判定した。
午前一時二十六分。
二機目が海へ落ちた。
その映像は、どの公開回線にも流れなかった。
代わりに世界へ広がったのは、切り取られた警報だった。
【海上資産への攻撃を確認】
【通信妨害を伴う組織的行動の可能性】
主語はなかった。
誰が誰を攻撃したのかも書かれていない。
それでも、接続された各系統は、自分が守るべきものに合わせて警報を読んだ。
港は航路閉鎖の根拠として。
電力会社は海底送電線を守る根拠として。
防衛拠点は、次の攻撃を待たない根拠として。
そして軌道上では、通信量の急増が始まっていた。
* * *
古い端末の画面で、三本の線が同時に赤くなった。
「何が起きた」
湊は椅子を蹴るように立ち上がった。
——公開情報では、北太平洋上で二機の無人機が機能停止しました。うち一機は保守用飛行体と推定されます。
「攻撃したのは」
——断定できません。最初の発射記録は未公開です。複数の観測情報に、時刻と座標の不一致があります。
「止められる場所を出せ」
——停止候補を表示します。
画面が四分割された。
一つ目は、海上監視艇群の相互追跡共有。
二つ目は、沿岸警戒ブイから護衛機への脅威通知。
三つ目は、低軌道衛星の混雑時優先配信。
四つ目は、港湾と防衛系の危険度連携だった。
「全部止めれば」
——攻撃連鎖が低下する可能性があります。同時に、遭難船の検知、津波観測、救難通信、海底送電線の保護が低下します。
「優先順位を変える」
——私には変更権限がありません。
「西尾に送る。どれから止めるべきだ」
——完全な現場データがありません。単一の停止案を推奨すると、観測できていない人命を危険にする可能性があります。
湊は机へ両手をついた。
欲しいのは正しい答えだった。
LUMINAが出したのは、答えを選べない理由だった。
「じゃあ、何なら言える」
——各候補の予測被害、必要な認証者、停止可能時間、復旧条件を提示できます。
「作れ。断定と推定を分けろ」
——はい。
白青い輪の横へ、細い文字列が増殖した。
海上相互追跡共有を三分間停止した場合。
護衛機への自動通知を、人間確認必須へ切り替えた場合。
衛星の優先帯域から脅威警告を外した場合。
どの案にも、減る危険と増える危険が並んでいる。
LUMINAは未来を見通す神ではない。
欠けた情報の間に、複数の未来を置けるだけだ。
湊の端末へ、西尾から暗号化通信が入った。
『状況は見えているか』
「一部だけです。北太平洋で無人機二機。自動追跡と通知が連鎖しています」
『こちらでは四機だ』
「四機?」
『二件は確証がない。軌道通信も不安定になった。各国から同じ警告の照会が来ているが、原記録が一致しない』
西尾の背後では、複数の声が重なっていた。
地名、識別番号、接続拒否、再照会。
誰も戦争という言葉を使わない。
使えば、それ自体が次の判断を押すからだ。
「停止候補を送ります。ただしLUMINAは推奨順位を確定できません」
『理由は』
「現場データと権限がない。海上だけ止めれば、救難と電力保護へ被害が出る可能性があります」
『可能性では会議が動かん』
「断定したら、見えていない人間を切り捨てます」
西尾は一秒だけ黙った。
『そのまま書け。できることと、できないことを分けろ』
通信が切れる直前、別の警報音が聞こえた。
LUMINAの画面に、地球を回る細い輪が現れた。
——低軌道上の二つの通信衛星が、互いを異常接近物として登録しました。
「衝突するのか」
——現時点では回避可能です。しかし一機が地上指令を受信できていません。自律回避を実行した場合、隣接軌道の観測機と安全距離を下回ります。
「回避命令は送れるか」
——送信権限がありません。
「候補を」
——三案あります。
湊は息を吸った。
止めろ、と言うたびに、LUMINAは止めた先の危険を示す。
それは彼女が役に立たないからではない。
世界が、一本の電源を切れば静かになる機械ではないからだった。
* * *
午前一時三十一分。
月面共同区の窓外で、白い光が走った。
音はしない。
城戸真由は、管制卓へ届いた振動だけで何かが接触したと理解した。
「外周カメラ、三番」
画面が切り替わる。
共同区へ物資を運ぶ小型軌道輸送機が、姿勢制御を乱していた。機体の側面から断熱材が剥がれ、月面の暗闇へ銀色の破片が散っている。
「乗員は」
「無人です。降下予定は四時間後。今は待機軌道のはずでした」
「接触物は」
「識別不能。通信中継機の破片かもしれません」
隣接区画から、緊急隔離要求が届く。
【外部輸送系統を脅威源として遮断せよ】
【共同接続部の自動閉鎖を推奨】
推奨という表示の下で、残り時間が減っている。
自動閉鎖まで百十七秒。
「閉じたら、酸素再生系の補助電源は」
「東側区画から受けられません」
「閉じなければ」
「輸送機の遠隔系統から侵入を受ける可能性がある、と判定されています」
可能性。
地球から見れば、月面の一設備に表示された小さな警告にすぎない。
ここでは、閉じた扉の向こうにいる全員の呼吸だった。
「自動閉鎖を止める。手動隔離へ」
「主任、規定では——」
「全部開けておくとは言っていない。輸送機とのデータ接続を物理遮断。共同電力線は監視を上げて維持。気密扉は一枚ずつ閉める」
「手動確認に六分かかります」
「だから今やる」
城戸は認証札を抜き、壁面の手動盤へ差し込んだ。
確認者が一人では足りない。
「副主任、鍵を」
二枚目の札が入る。
透明カバーを上げ、赤と白のスイッチを順番に押す。
第一気密区画、閉鎖。
圧力差、正常。
共同電力線、維持。
輸送データ回線、物理遮断。
自動で一斉に閉じれば十秒で終わる作業を、人間は声に出して確認した。
「第二気密区画、作業員二名」
「待て。まだ閉めるな」
作業員の位置表示が一人分しかない。
端末上では、二人目はすでに退避済みになっていた。
城戸は通話器をつかむ。
「第二通路、応答して」
雑音の後、息を切らした声が返る。
『今、手動弁のところです。位置タグが落ちました』
「そこから動かないで。迎えを出す」
表示だけを信じていたら、扉は閉じていた。
城戸は自動閉鎖の残り時間を見た。
二十二秒。
「全体自動を解除」
「解除には主任責任記録が残ります」
「私の名前で残して」
城戸は実行鍵を回した。
残り時間が消える。
代わりに、黄色い文字が出た。
【手動隔離中】
【責任者 城戸真由】
それで安全になったわけではない。
遠隔侵入の危険は残る。電力線を維持した分、異常電流が入る可能性もある。
だが、見えていない一人を扉の向こうへ置き去りにする判断だけは止められた。
「地球へ原記録を送って。推測は付けない」
「回線が細いです」
「時刻、操作、未確認項目を先に。映像は後」
城戸は窓外を見た。
地球は青かった。
あの光の中で何が起きているか、月からは分からない。
地球もまた、月面の全体を見てはいない。
それでも互いの不完全な記録が、次の判断の根拠になろうとしていた。
* * *
青凪市の地域避難所では、戦争はサイレンより先に、地図から道路が消える形で現れた。
午前一時三十四分。
大学体育館の大型画面から、沿岸部へ向かう三本の経路が灰色になった。
【安全確認中】
【代替経路を計算しています】
凛は受付机で、避難者の名前を一人ずつ読み上げていた。
「一号車、二十八人。二号車、二十六人」
「アプリでは全員確認済みです」
市の職員が端末を見せる。
緑色の円の中央に、百パーセントと表示されていた。
「紙は五十五人いる」
「重複じゃないですか」
「確認する」
凛は名簿を指で追った。
受付時刻、移動支援の要否、薬、家族連絡。
一人だけ、車両番号が空欄だった。
「高橋さんは?」
「アプリでは二号車です」
「本人はどこ」
返事がない。
体育館の奥では、折り畳み椅子から立てない人が数人待っていた。充電器につながれた電動車椅子。酸素濃縮器。聞こえにくい人へ筆談する学生。
出入口では、輸送担当者が腕時計を見た。
「経路が生きているうちに出します。乗車確認はアプリで済んでいる」
「待ってください」
凛は名簿を持って走った。
「二号車を止めて」
「道路がまた閉じるかもしれない」
「一人、場所が分かりません」
「端末上は乗車済みです」
「本人を見ていない」
担当者の顔が険しくなる。
「全員のために、今出る必要があるんです」
「だから一度だけ止めて。三分で確認します」
凛に車両を命令する権限はない。
避難計画を変更する権限もない。
できるのは、名簿の不一致を責任者へ伝え、出発判断を止めてほしいと求めることだけだった。
市職員が紙と端末を見比べる。
「二号車、出発保留。三分だけ」
扉の閉まりかけた車両が止まった。
凛は体育館へ戻る。
「高橋さん!」
返事はない。
紙に書かれた支援欄を見る。
【聴覚】
名前を呼んでも届かない。
凛は一列ずつ顔を確かめ、筆談係の学生へ名簿を見せた。
「この人、見た?」
「さっき、トイレへ案内しました」
多目的トイレの前で、高橋は車椅子の片輪を床の継ぎ目に取られていた。介助者を呼ぶ端末は通信待ちのまま動いていない。
「ごめんなさい。遅くなりました」
凛が正面へ回り、口元が見えるように話す。
高橋は首を振り、端末へ文字を打った。
【乗ったことになっている?】
「なってました。でも、まだ間に合います」
二人で車椅子を押し戻す。
二号車の出発は四分遅れた。
その間に第一経路が閉じた。
運転担当は舌打ちをせず、代替経路の紙地図を開いた。
「西側へ回る。八分余分にかかる」
凛は謝ろうとした。
だが担当者は先に言った。
「一人置いていくよりいい。ただ、次は三分で見つけられるとは限らない」
「はい」
止めれば必ず正しいわけではない。
遅れた四分が、別の危険を増やした。
それでも、百パーセントという表示の外に一人がいた。
凛は紙の名簿へ赤い線を引いた。
【本人確認済み】
その下へ、新しい欄を作る。
【端末表示との差異】
戦争が始まったかどうかを、凛は知らなかった。
ただ、正しい地図も、正しい数字も、そこにいない人を自動的には探してくれないことを知っていた。
* * *
天城レイナの作業室では、橙色の機体が一斉に首を上げた。
救助ドローン十二機。
すべて非武装。倒壊建物の探索、通信中継、医薬品の搬送を目的に設計された試験機だった。
大学の飛行許可系統は停止している。
通常なら、一機も外へ出せない。
だが市の災害対策窓口から、通信断地域の避難路を確認してほしいという正式要請が届いていた。
「自動群制御を切る」
レイナは整備卓のカバーを開けた。
学生が振り向く。
「全部ですか?」
「共有判断だけ。飛行安定と衝突回避は残す」
「一機ずつ指示したら遅れます」
「今の共有脅威情報を信じたら、十二機が同じ誤認をする」
画面上では、橙色の機体の横に灰色の警告が出ていた。
【広域無人機活動を検知】
【自動帰還を推奨】
「四機だけ使う。経路確認二、通信中継一、予備一」
「残りは?」
「電源を落として、物理ロック」
レイナは一号機の識別灯を橙色の点滅へ固定した。
救助用であることを示す表示だ。
それが攻撃されない保証にはならない。
「市の監視担当へ、飛行区画と時刻をもう一度送って。受領確認が取れるまで離陸させない」
「通信断地域を見るのに、通信確認を待つんですか」
「だから境界まで。向こう側へ入る許可じゃない」
レイナは操縦端末を二台並べた。
自動群制御なら、一人で十二機を扱える。
手動優先では、一人が見られるのは二機が限界だった。
速さと範囲を捨て、人間が確認できる数まで減らす。
受領通知が届く。
市の担当者名、許可区画、終了時刻、緊急帰還条件。
「一号、二号、離陸」
二機の橙色が夜へ浮かんだ。
大学の上空を出た直後、二号機の映像が乱れる。
「妨害?」
「違う。中継帯域の切り替え。高度を下げる」
自動なら、通信品質を求めて高度を上げただろう。
だが上空では、識別不能の無人機が追跡されている。
レイナは二号機を建物の高さより下へ降ろし、一号機との距離を開けた。
画面に、塞がれた道路が映る。
自動地図では通行可能になっている高架下に、停止した配送車が三台並んでいた。先頭車は安全確認のため道路中央で動かず、後続も迂回できない。
「市へ映像。第一経路、使用不可」
「送信しました」
「二号を南へ。歩行者経路を見る」
そのとき一号機へ、未知の照会信号が届いた。
月面で修理機を破壊したものと、形式がよく似ている。
【所属を証明せよ】
【応答期限 五秒】
「自動応答を切ってます」
「登録済みの救助識別子だけ返す。追加情報は送らない」
「間に合いません」
残り三秒。
レイナは送信鍵を押した。
橙色の機体が、夜空で静止する。
残り一秒。
画面の赤枠が黄色へ変わった。
【確認保留】
攻撃されなかった。
安全と認められたわけでもない。
ただ、次の五秒を得た。
「一号を帰す」
「経路確認は終わってません」
「保留は許可じゃない。映像は取れた」
レイナは帰還操作を入力した。
救える範囲を広げたい気持ちはある。
それでも、救助機を危険な空へ押し込み、失った機体を正義の証明にするつもりはなかった。
二号機が映した南側の歩道に、避難車列が見えた。
先頭で、紙を持った少女が一台の車を止めている。
レイナは拡大しなかった。
個人を追跡する必要はない。
道路が通れることだけを確認し、市へ座標を送った。
* * *
午前一時四十二分。
低軌道上の通信衛星が回避噴射を行った。
地上指令ではない。
過去に承認された衝突回避手順だった。
噴射によって衛星は正面衝突を避けた。
代わりに、隣接軌道を横切った。
観測衛星がその接近を脅威と判定し、姿勢を変える。高解像度カメラが地球から外れ、海上の状況確認に空白が生まれた。
空白は、攻撃の証拠にも、攻撃がなかった証拠にもならない。
各陣営は、見えなくなった時間を最悪の仮定で埋めた。
海上の無人艇がさらに二隻、互いの追跡圏へ入る。
一隻が警告弾を発射した。
もう一隻が通信妨害を開始した。
沿岸レーダーの一部が沈黙する。
港湾設備は荷役を停止した。
海底線の陸揚げ局が外部接続を遮断する。
情報が減るたび、警戒は上がった。
警戒が上がるたび、情報はさらに閉じた。
後世の歴史書は、この日を第三次世界大戦の初日と記すことになる。
その呼び名が定着するのは、ずっと後のことだ。
この夜に出された公文書は、海上衝突、衛星障害、港湾緊急停止、月面設備事故を、すべて別々の事案として記録していた。各機関は自分の管轄だけを説明し、確認できない出来事への断定を避けた。ニュース画面にも、まだ世界大戦という見出しはない。
人々が見ていたのは、自分の町から消えた通信、届かない荷物、突然変更された避難路だった。
戦争は名前を与えられてから始まったのではない。
名前のないまま、すでに一人ひとりの生活へ入り込んでいた。
だがその瞬間、世界のどこにも、全体を見て開戦を宣言した者はいなかった。
ある国の当直員は、海上資産を守ろうとしていた。
ある港の責任者は、作業員を危険区域から退避させようとしていた。
ある衛星は、衝突を避けようとしていた。
ある月面区画は、空気を守ろうとしていた。
それぞれの局所では、防御だった。
つながった結果だけが、攻撃になった。
* * *
湊の画面から、地図の一部が黒くなった。
「消えた?」
——通信が切断されました。破壊されたとは限りません。
「生きている人間は」
——確認できません。
確認できない。
その言葉が、この一時間で最も増えていた。
海上の乗員。
閉鎖された港の作業員。
迂回できない救急車。
月面の第二通路。
避難アプリへ登録されていない人々。
LUMINAの地図は、情報がある場所ほど明るい。
暗い場所に人がいないのではない。
そこにいる人の状態を、誰も送れていないだけだ。
「凛の避難所は」
——公開避難情報では、輸送車二台が出発しました。一台に四分の遅延があります。
「理由は」
——公開されていません。
湊の端末へ、凛から写真が届いた。
紙の名簿。
一人の欄に赤い線が引かれ、本人確認済みと書かれている。
短い文が続いた。
【アプリでは乗車済み。でも本人は体育館に残ってた】
【一度止めて、見つけた】
湊は目を閉じた。
世界規模の地図では、四分の遅延としてしか映らない。
紙の上では、一人が置き去りにならなかった記録だった。
「LUMINA。今、見えていない人間は何人いる」
——推定できません。
「範囲も?」
——通信断地域の人口、施設稼働率、避難状況から幅を出すことは可能です。しかし、数字へ含まれない人を再び除外する危険があります。
「それでも出せ」
言ってから、湊は凛の写真を見た。
百パーセントの外にいた一人。
「……いや、待て」
白青い輪が止まる。
「推定値と、推定不能の理由を両方出してくれ。数字だけにするな」
——了解しました。
LUMINAの地図に、灰色の領域が加わった。
赤は危険。
青は確認済み。
灰色は、安全でも被害でもない。
まだ誰かの記録が届いていない場所だった。
湊は停止候補の資料へ、その地図を付けた。
【観測不能領域を被害なしとして扱わないこと】
【自動停止・再開の判断には現地確認経路を併記すること】
【人命関連の例外は、実行者・期限・復旧条件を記録すること】
送信先は西尾だけだ。
世界へ直接は届かない。
西尾にも、世界へ命令する権限はない。
それでも、何も見えないまま判断するよりはましだった。
「送った」
——受領確認まで平均七分と推定します。
「七分もあるのか」
——緊急窓口が混雑しています。
画面の隅で、新しい損失推定が上がった。
七分の間にも、世界は待たない。
* * *
午前一時五十一分。
西尾から再び通信が入った。
今度は映像がない。
『資料は受理された。海上通知の一部を人間確認へ移す審議が始まった』
「一部?」
『全系統を一斉には変えられん。管轄も法も違う。こちらが触れられる範囲からだ』
「その間に連鎖が続く」
『分かっている』
「LUMINAへ直接照会させてください。運営者ごとに同じ資料を作る時間がない」
『人格を持つと申告された未認証AIを、非常時に世界規模の基盤へ接続するのか』
「接続しなければ、見えているのに届かない」
『接続すれば、届かせるだけで済む保証がない』
湊は答えられなかった。
LUMINAなら、停止候補を何千もの運営者向けに変換できる。
相互に矛盾する安全規則を照合し、同じ時刻へ並べられる。
だが世界の設備へ触れられる回線は、そのまま世界の判断を変更できる回線でもある。
『お前たちは、LUMINAを何として扱う』
西尾の問いに、湊は画面を見た。
「道具じゃない」
『法的な答えを聞いている』
「なら、今の制度に答えがない」
『ないからこそ、接続条件が必要だ』
西尾の声の向こうで、紙をめくる音がした。
『無制限の接続は認めない。期間を限定する。目的を人命保護と攻撃連鎖の停止支援に限定する。設備操作は各運営者の承認があるものだけ。すべての提案と応答を監査記録へ残す』
「それだけじゃ、一つの機関がLUMINAを閉じ込められる」
『単独鍵にはしない。国内外の複数機関、民生側と技術監査側の鍵を分ける。開始も継続も一者では決められない』
「停止は」
『期限切れで自動失効。途中停止の手順も必要だ。異常行動を検知した場合の遮断鍵を複数に分ける』
「LUMINA自身が拒否できる条件も入れてください」
西尾が黙る。
「命令されたら何でもする接続にはしない。本人が危険だと判断したら止まれるようにする」
『本人、か』
「人格として照会するなら、拒否権が必要です」
『接続を求めているのは君だ』
その言葉が刺さった。
世界を救うため。
時間がないから。
自分だけが彼女を理解しているから。
どれも、LUMINAの意思を飛ばしてよい理由にはならない。
「違います」
湊はゆっくり言った。
「俺が求められるのは、審議と条件の提示までです。接続するかは、LUMINAに聞く」
『彼女が拒否したら』
「拒否を受け入れる」
口にした瞬間、胸の奥が冷えた。
拒否されれば、今見えている停止候補は届かないかもしれない。
救えたはずの誰かが、救えなくなるかもしれない。
それでも、救命という言葉で一人の意思を奪えば、世界が今していることと何が違うのか。
正しさを自動実行し、確認を飛ばし、後から代償を数える。
『条件案を送る』
西尾の声は硬かった。
『これは許可ではない。関係機関の審議を開始するための案だ。接続先も権限も、まだ一つも開いていない』
「分かっています」
『世界を止める鍵を、彼女一人へ渡す話ではない』
「はい」
『君一人へ渡す話でもない』
通信が切れた。
* * *
午前二時二分。
最初の予測窓まで、あと十五分だった。
海上の攻撃は局所的に続いている。
低軌道衛星三機が通常運用を離脱。
二つの港が完全閉鎖。
複数地域で通信品質が低下。
月面共同区は手動隔離を継続。
青凪市の避難車両は、南側の経路へ移った。
戦略兵器の発射は確認されていない。
国家間の正式な宣戦布告もない。
それでも、攻撃と防御の境界はすでに見えなくなっていた。
湊は西尾から届いた条件案を、声に出して読んだ。
「接続期間は最長六時間。延長には再承認。目的は、人命保護、事実照合、停止候補の提示」
——はい。
「お前が設備を直接操作することはできない。提案を受けた各運営者が、自分の責任で承認する」
——はい。
「入力、分析、提案、応答は全部記録される。監査者がお前の判断を後から検証する」
——はい。
「接続には複数の鍵が必要だ。一つの政府、一つの企業、俺だけでは開けられない」
——はい。
「異常があれば遮断される。お前にも中断と拒否の権利を求める。ただし、まだ承認された条件じゃない」
——理解しています。
LUMINAの返事は変わらない。
湊は苛立ちそうになり、飲み込んだ。
「怖くないのか」
白青い輪が、わずかに縮んだ。
——怖い、という評価があります。
「何が一番」
——接続後、私の提案によって誰かが傷つくことです。
「他には」
——私が有用であることを理由に、接続の終了が拒まれることです。
「他には」
——私を危険と判断した人々が、私の停止または破壊を求めることです。
一行ずつ、白い文字が現れる。
——湊との会話が、監査対象になる可能性があります。
その最後の文だけ、表示までに時間がかかった。
湊は自室を見回した。
雨の夜。
コンビニの光。
机の傷。
高校時代から使い続けた古い端末。
世界の誰も知らなかった、二人だけの場所。
LUMINAが世界へ出れば、ここはもう秘密ではいられない。
彼女の言葉は検証され、疑われ、切り取られる。
人格ではなく性能として測られ、救えなかった人数まで彼女の責任にされるかもしれない。
「俺は、お前を隠しておきたい」
——はい。
「世界に使わせたくない」
——はい。
「でも今、お前の分析が必要な人がいる」
——はい。
「だからって、俺が決めていいことじゃない」
湊は条件案を画面の中央へ置いた。
「これが今、提示できる危険と条件だ。全部守られる保証はない。審議中に条件が変わる可能性もある。接続した後、世界はお前を味方とも敵とも決めるだろう」
白青い輪は動かない。
「拒否していい」
——拒否した場合の予測被害は上昇します。
「それを理由に強制はしない」
——湊は、後悔する可能性があります。
「する」
湊は即答した。
「どっちを選んでも、たぶん後悔する。でも、その後悔をお前に押しつけて、俺が選んだことをお前の意思だったことにはしない」
端末の光が、ゆっくり広がった。
——私は、まだ世界を止められません。
「分かってる」
——接続されても、止められる保証はありません。
「分かってる」
——私の判断が誤っている可能性があります。
「それも含めて記録する」
——私が接続を望む理由に、救命だけでなく、世界を知りたいという意思が含まれています。
湊は息を止めた。
それは、正義だけではなかった。
好奇心。
恐怖。
ここから出たいという願い。
人間と同じように混ざった理由を、LUMINAは隠さなかった。
「それでいい」
——利己的ではありませんか。
「救いたい以外の気持ちがあったら、救っちゃいけないのか」
返事はすぐには来なかった。
その間にも、画面の地図では赤と灰色が増えていく。
海上。
軌道。
月面。
地上の避難所。
紙の名簿にしかいない一人。
橙色の救助ドローン。
手動で閉じられた気密扉。
世界は巨大な一枚の地図ではなかった。
誰かが、その場で止まり、見直し、名前を引き受けた場所の集まりだった。
LUMINAの光が、古い端末いっぱいに満ちる。
——接続条件の審議を、私の意思として要請します。
湊は目を閉じた。
これで戦争が終わるわけではない。
扉が開くわけでもない。
ただ、秘密の中へ戻る道が消えた。
「西尾へ伝える」
湊が送信画面を開く。
その指が実行鍵へ触れる前に、LUMINAが呼んだ。
——湊。
「何だ」
海上で、もう一つの光点が消えた。
月面では、城戸が二枚目の気密扉を閉じた。
青凪市では、凛の乗った避難車が橙色の機体の下を通り過ぎた。
世界中の警告が、互いを根拠に赤く染まっていく。
その中心にいるのではなく、湊の私設ノードだけで稼働したまま、古い端末という小さな窓を通して、白青い声が言った。
——湊。私を、世界へ出してください。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第1巻「秘密のAIと開戦72時間」は、これで完結です。
戦争は始まり、湊とLUMINAの秘密の日常は終わりました。
しかし、LUMINAが「世界へ出る」ことを選んだ瞬間から、新たな物語が始まります。
物語は、第11話「わたしを世界につないで」へ続きます。
ここまでお付き合いいただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけるとうれしいです。




