第08話 狂気と孤独
夜が明ける気配はなかった。
暗い森の奥で、レイは一人、膝を抱えて座り込んでいた。
手は血と泥で汚れ、爪の間にまで赤黒い汚れが入り込んでいる。
小刻みに震える肩が、ひどい疲労と恐怖を物語っていた。
身体中全てが痛み、寒さで骨の奥まで凍え、息をするだけでも肺が引き裂かれるようだった。
それでも、レイは地面に座り込んだまま、ただ、必死に自分の存在を支えていた。
周囲には何の音もなく、ただ森の闇が重くのしかかるように広がっている。
だが、すぐそばに横たわる獣の死骸から漂う腐臭だけは、ひどく生々しく、レイの鼻腔を突き刺していた。
生温かい血の匂いが、土と混ざり合い、重たくのしかかる。
だがもう、鼻をつまむ気力すらレイにはなかった。
手が震え、息が浅くなる。胸の奥で、何かが張り裂けそうな痛みを訴えており、呼吸のたびに喉が擦れ、血の味が広がる。
それでも、レイは必死に息を繋いだ。
頭の中では、先ほどの光景が何度も繰り返されていた。
獣が鋭い牙を剥いて飛びかかり、自分が石を振り上げ、必死で叩きつけ、獣の肉が裂け、骨が砕ける音が響く。
あの感触、あの重さ、あのぬるりとした生温かい感触が、指先にこびりついて離れない。
何度手を擦っても、何度地面にこすりつけても、血の感触は残ったままだった。
爪の間に入り込んだ黒い汚れが、どれだけこすっても消えず、逆に指先の感覚を奪っていくように今でも感じる。
呼吸が荒く、視界が揺れる。
頭が熱いのか、寒いのかも分からなくなり、思わず目を閉じた。
だが瞼の裏にまで、あの獣の目が、口が、裂けた肉が浮かび上がってくる。
「……俺は、俺は……っ……!」
声を上げた瞬間、涙が溢れてしまう。
喉の奥から嗚咽がこぼれ、肩が震え、身体が小さく波打つ。息が詰まり、吐き出すたびに痛みが胸を締め付けた。
肩を抱き、顔を膝に埋め、必死で泣き声を押し殺そうとした――だが、堪えきれない嗚咽が漏れ出し、冷たい夜気に白く滲んで消えていく。
寒さが骨に染み、手足が冷え切り、感覚がなくなりそうだった。
それでも、泣き声は止まらず、涙が頬を伝い、土に落ちていった。
「――助けてくれ……誰か……」
かすかな声が夜の森に消える――しかし、助けは来ない。
もう、誰もいない。
誰も彼の名を呼ばない。
誰も、彼を抱きしめてはくれない。
冷たい土と、重たい夜の気配だけが、レイの傍にあった。
どこまでも広がる孤独が、胸の奥に冷たく広がり、喉を締めつける。誰かの温もりが欲しい。
――優しい声が欲しかった。
ただ、誰かに「大丈夫だ」と言ってほしかった。
それなのに、その誰もいない現実が、心をずたずたに引き裂いていく。
「……俺は……いらないんだ……必要ない存在なんだ……」
言葉に出した途端、胸の奥がぎゅっと痛む。
声が震え、耳元で誰かの笑い声が聞こえた気がして、思わず耳を塞いだ。
だがそれは自分自身の幻聴でしかなかった。
セシリアの声が、エルナの冷たい視線が、王国の人々の嘲笑が、何度も何度も頭の中でこだました。
「……死にたく、ない……。生きたい……っ……!」
弱々しい声が夜に吸い込まれる。
足元には、血まみれの石と、己が仕留めた魔物の亡骸。
月光が冷たく降り注ぎ、その全てを淡く照らしている。
冷たい光が、あまりにも無慈悲で、胸の奥を刺し――吐き出す息が白く、途切れ途切れの嗚咽に混じって震えていた。
「俺だって……生きたいんだよ……!見返したい……!笑った奴らを……」
震える指を握りしめ、爪が肉に食い込む。
痛みすら、もう自分が生きている証のようで、手を離すことができなかった。
孤独の中で、レイは歯を食いしばり、涙に濡れた顔を上げる。
嗚咽の合間に、小さく笑みが浮かんだ。
「痛い……本当に痛い、痛い、けど……けどッ……」
何度も否定的な言葉を言っても、何度も痛いと叫んでも、レイは一人。
それと同時に、痛みと涙に滲んだ、弱く脆い笑みが浮かんだ。
レイは月を見上げる――滲む涙の向こうで、月は白く、冷たく輝いていた。
あまりにも遠く、あまりにも冷たいその光に向かって、震える声で、もう一度、小さく呟いた。
「――俺は……絶対に生きてやる……」
その言葉は夜の中でかき消され、誰にも届かなかった。
それでも、レイの胸の奥に小さな火種が残り、消えかけながらも、確かにそこに燃えていた。
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