第67話 祈りの果て
夜が明けていた。
それは単に太陽が昇ったというだけではなく、一つの時代、一つの執着、そして一つの歪んだ『信仰』がようやく終焉を迎えたということだった。
戦火に焼かれた村――ユスティアは、もはや信仰の聖地ではない。ただの瓦礫と灰、そして涙の残る場所となった。
村の中心。かつて『聖女神』が祀られていた白石の祭壇は、爆風と魔力の余波により半壊していた。
その上に残されていたのは、ひと房の金糸のように柔らかな髪と、ほのかに光を反射する小さな銀の指輪――リリィは静かに歩を進め、その前で膝をつく。
「……」
風はほとんど吹いていなかったはずなのに、指輪はかすかに揺れているように見えた。
リリィはそっと手を伸ばし、それを掌に受け取る。冷たい。けれど、じんわりとした重みがあった。
「セシリア……」
その名を呼ぶ声は、小さく、かすかに震えていた。
この手の中に残されたものが、彼女のすべてだった。
狂気に囚われ、全てを呑み込もうとした『聖女神』としてではなく――最期の瞬間、誰かを救おうとした一人の少女としての、彼女の『祈り』。
たとえその救いが、遅すぎたものであったとしても。
リリィは思い出していた。
かつて王都で、『悲劇のヒロイン』を演じていたセシリアを、冷ややかに見下ろした自分の視線を。
けれど、あの少女が最期に残した祈りは、きっと、まぎれもなく本物だった。
「……あんたも、やっと自由になれたんだね」
空を見上げる。もう雲は黒くなかった。
血と炎に染まっていた空が、ようやく穏やかな青さを取り戻していた。
「救われるために泣くんじゃなくて、誰かを救いたいって、ちゃんと思えた……それだけで、十分だったんだよ」
そう言って、リリィは銀の指輪を胸に抱きしめた。
セシリアが選んだ終わり方は、たしかに独りよがりだったかもしれない。
それでも、ほんの一瞬でも誰かのために生きようとした記憶を、誰かが覚えていてくれるなら――それはきっと、救いだ。
「……バカみたいだよね。泣きたいのは、こっちなのに」
リリィは自嘲気味に微笑んだ。
その背後から、音もなく歩み寄る気配。
振り返らなくても、わかる。彼だけは、決して空気を乱さず、ただ隣に立ってくれる。
「……終わったな」
レイの声は、静かだった。
「うん。やっと、終わった」
リリィはそう応じながらも、その声音には、わずかな翳りがあった。
ふたりはしばらく無言のまま、瓦礫の祭壇の前に立ち尽くす。
風がようやく、木々の間をすり抜けて吹き抜けた。
花の香りはなかったが、草と土と、朝露の匂いがした。
レイは、指輪を見つめるリリィに何も言わなかった。
ただ、空を見上げる。その高みで、誰かの魂がどこかへ還っていく気配が、確かに感じられた。
「……レイ」
「ん?」
「このあと、どうするの?」
その問いは、あまりにも自然なものだった。
大戦のあとに残された問い。それは“生き残った者”だけが答えを出せる。
レイは少しの沈黙のあと、短く答える。
「……生きるよ。誰かのためでもなく、自分のためでもなく――ただ、俺自身として」
その答えに、リリィは目を伏せた。
そして銀の指輪を空へ掲げ、小さく笑う。
「じゃあさ。あたしも、ついていくから」
「……ああ」
風がまた、そっと吹いた。
祈りは声にせずとも、伝わる。
誰かが自由を得た場所で。
誰かが哀しみを乗り越えた場所で。
ふたりは次の旅路へと、静かに歩き出した。




