第28話 空虚の道標
――王国を離れ、半年。
焦土と死を後にして、かつて『無能』と嘲られた男の名は、今や各地に囁かれる存在となっていた。
――黒焔の魔術師、レイ=グラン。
――あるいは、《救世主》
村の周囲に立ちこめる瘴気は、まるで生き物のように蠢いていた。
土を焦がし、木々を腐らせ、空気は粘ついた悪意で満たされている。
そして、その中心に――魔物はいた。
身の丈四メートルを超える異形。
黒い甲殻に覆われた獣のような姿に、溶けた金属のような眼を光らせ、咆哮をあげる。
「――っ、ひ、人じゃない……!」
「村が……もうだめだ……!」
村人たちは必死に逃げ惑い、兵士はすでに全滅している。
抵抗する術など残されていなかった。
そんな中――一人の青年が、静かに歩みを進めてくる。
レイ=グラン。
黒衣の裾が風に揺れ、その足元には、既に魔物が踏み荒らした焦土が広がっている。
だが彼の足取りは迷いなく、表情も変わらない。
「……騒がしいな」
低く呟くと同時に、レイは手を上げる。
その瞬間、空が裂けた。
黒雷――いや、《黒焔》と呼ばれる異能の魔力が空気を焼き、地を這うように魔物へと放たれる。
雷鳴のごとく炸裂する音と共に、世界が震える。
『ギャアアアアア!!』
魔物が絶叫し――だが、それすらもレイは無視する。
もう一歩。さらに一歩。
そして、彼の右手に収束した黒い魔力が、刀身のように形成される。
魔物が反撃の爪を振り上げたのだが。
「遅い」
レイの身体が一閃し、世界が切り裂かれる。
黒焔が走り、魔物の身体が斜めに裂け、甲殻が砕け、骨が露出し、全身から煙のような瘴気が吹き出す。
最後に一歩、レイが踏み込み――そして、低く呟いた。
「二度目はない」
その言葉と同時に、黒焔が魔物の心臓部に集中し、爆発するように炸裂した。
――沈黙。
周囲の空気がすべて吸い込まれたかのように静まり、
やがて、巨大な魔物が地響きを立てて崩れ落ちた。
焦げた大地。漂う硝煙。
誰もが息を呑み、動くことすらできなかった。
やがて、ひとりの村人が震える声で言葉を漏らす。
「まさか……一撃で……」
「た、助かった……! 本当に、助かった……!」
そして、誰かが口にする。
「レイ=グラン様が……あの《黒焔の魔術師》が……!」
歓声が波のように広がり、人々は一斉に膝をつき、手を合わせた。
まるで神を讃えるように――いや、それ以上の崇拝がそこにあった。
だが、レイの顔は、その称賛の光の中にはなかった。
彼はただ、影の中に沈むように立ち尽くしていた。
燃え残る黒焔の残滓が風に舞う。
その中心にいるはずの『英雄』の姿は、ただ冷たく沈黙しており、その隣――金茶の髪を風に揺らしたリリィが、ゆっくりとレイに視線を送る。
口元には笑みが浮かんでいたが、その瞳はどこか寂しげに細められていた。
「ふふ、さすが。完璧ね……ほんと、やり過ぎなくらい」
軽く言ったつもりのその言葉に、返ってくるのは短い一言。
「……鬱陶しい」
その声音はいつもと変わらず、冷たく、何も期待していない響きだった。
リリィは少しだけ肩をすくめる。
彼の冷淡さに慣れているはずなのに、なぜか、その背中はやけに遠く感じた。
(あんた、ほんとにどこまで行く気なの……?)
そんな想いが胸の奥を掠める。
けれど、口にはしなかった。
歓声と懇願が広場に満ちる中で、レイはただ一人、沈黙の海を渡るように群衆を抜けていく。
英雄と呼ばれる者の影――その背中だけが、遠ざかっていった。
リリィは一瞬だけ立ち止まり、風に吹かれながら小さく呟いた。
「……だからこそ、目が離せないのよ、あんたは」
そして、彼の背を追って、再び歩き出した。
低く吐き捨てた声は、土埃に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
それでも、人々の祈りと崇拝は止まなかった。
「救世主様、次は隣村を……!」
「お願いです、どうか、どうかお力を……!」
その背後で、リリィがくすりと笑った。
金茶の髪が風に揺れ、その横顔にはからかいと観察者の色が混じっている。
「ふふ、すっかり有名人じゃない? 『救世主様』なんて呼ばれてさ」
「……くだらない」
レイは答えるように、肩をわずかに揺らし、無感情に返す。
だが人々の目に映るのは、そんな冷たさですら神格化された『奇跡の担い手』だった。
――救いを乞う声は、いつしか依存へと変わっていく。
リリィがふと横目でレイを見やり、小さく問いかけた。
「ねえ、レイ。本当にそれでいいの?助けても、救いの言葉一つかけない。壊して歩くだけの旅……そんなの、虚しくならない?」
その言葉には、皮肉と共に、ほんのわずかな苛立ちと寂しさが滲んでいた。
レイは答えない。
しかし――ほんの一瞬だけ、歩みが止まり、無意識に握られた拳が微かに震えた。
その時、小さな声が背後から響いた。
「……お兄ちゃん、助けて……」
それは、幼い子供の、掠れた声。
遠くから響いたそれが、レイの奥底に沈んだ記憶の断片をかすかに揺らす。
十年前、泣いて縋った声と、何処か重なってしまう。
だが、レイは静かに息を吐き、再び歩き出した。
振り返ることなく、無言のまま。
リリィはその背を見つめながら、ため息をつく。
ふっと肩をすくめ、皮肉げに呟いた。
「まったく……ほんと、どうしようもない奴」
夕暮れが夜を連れてくる。
斜陽が長く二人の影を引き伸ばし、人々の歓声と懇願の声を切り裂くように、レイの背は静かに遠ざかっていった。
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