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第10話 魔境の最奥で

 腐臭漂う瘴気の中、レイ=グランは己の力の片鱗を確かに感じている。

 血の匂いが鼻腔にまとわりつき、傷だらけの身体を引きずりながら、それでもレイの唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。

 泥と涙と血にまみれた顔には、絶望を超えた者だけが持つ、静かな覚悟の色が宿っていた。

 痛みが、飢えが、恐怖が、すべてを侵食してもなお、燃え残る炎が確かに胸の奥で灯っていた。

 あの日、弱さを抱え、震えながら生き延びようとした少年は、もうそこにはいない。

 これまでの時間は、言葉では言い尽くせない苛烈な生存の連続だった。

 魔境の獣たちを殺し、その肉を食らい、骨を噛み砕き、血をすすり、その力を奪い、彼はただ生き延びるために牙を剥き続けた。

 飢えが胃を焼き、寒さが骨を凍らせ、痛みが意識を曇らせても、夜ごとに泣き叫び、喉を潰しながらも、彼は立ち上がり続けた。

 膝が砕け、爪が剥がれ、皮膚が裂けても、レイは止まらない。

 人の言葉を忘れるほどの孤独の中で、獣の唸りを子守唄にし、己の呻きを友とし、痛みを力に変えた。傷を癒す時間すら惜しみ、血を流したまま戦いに挑み、己の存在を証明するように、殺し続けた。

 生き抜くために、喰らい、喰らわれることを拒絶した。


 月が幾度満ち欠けたのか、季節が幾度巡ったのかも、もう思い出せない。

 眠るたびに夢に現れるのは、あの日、王宮で無能と罵られ、妹に見放され、許嫁に突き放された自分自身の姿だけだった。

 夢の中で、何度も歯を食いしばり、血を吐くような叫びを上げた。

 だが、目覚めた時、手には血と泥がこびりつき、胸の奥には、確かに力が積み重なっていく感覚があった。

 気づけば、レイの手はかつての自分とは比べ物にならないほど強靭で、冷たく、鋭く、何よりも確かな力を宿していた。

 瞳の奥には、かつての少年が持っていた脆さの欠片も残っていなかった。


 ――そして、十年の時が過ぎ、レイは魔境の最奥に立っていた。


 腐敗した大樹がねじれ、黒い瘴気が地を這い、空を覆い、渦を巻くその場所は、かつて数多の勇者や冒険者たちが挑み、誰一人として生きて戻れなかった『死の領域』。

 ただそこに立つだけで精神を蝕まれ、存在を押し潰される瘴気の渦の中で、レイは確かに立っていた。

 深い闇の中、彼の瞳は冷たく鋭い光を放ち、血に濡れた手が小さく震えている。

 その震えは恐怖ではなく、これまでの戦いが積み重なり、体の奥で唸りを上げる力を制御するための震えだった。

 目の前に立ちはだかるのは、魔境の王と呼ばれる巨獣。

 黒き鱗に覆われ、背には棘が走り、口からは瘴気混じりの唸りが漏れ、鋭い牙が月光を反射していた。

 その一歩ごとに大地が震え、咆哮一つで樹木が薙ぎ倒され、地面が裂ける。

 だが、レイは一歩も退かず、その巨獣を真っ直ぐに見据え、ゆっくりと手を上げる。

 掌が熱を帯び、空気が震え、周囲の瘴気が吸い寄せられるように渦を巻き、指先がかすかに光を放つ。

 十年の戦いの果てに、彼がその手に掴んだのは、世界の理を超えた『根源の魔力』だった。


「これが……俺の力だ……!」


 呻くような声が、熱を帯びて空気を震わせる。

 その言葉と同時に、彼の周囲の瘴気が一気に引き寄せられ、圧縮され、光を帯びて爆ぜた。

 巨獣の咆哮が遮られ、鼓膜をつんざく衝撃波が森全体に響き渡り、周囲の大地が揺れ、空気が震え、耳鳴りが森全体を包み込む。

 何もかもが震え、崩れ、そして光に呑まれていき――視界が白く塗り潰され、鼓動の音さえも遠ざかる。


(……終わった)


 レイは静かに、そのように考える。戦いも、孤独も、絶望も、すべてがこの一撃に込められていた。

 息が荒く、肩が上下し、指先が微かに震える。

 だが、レイの瞳は確かに前を見据えていた。

 胸の奥で、何かが確かに変わっていた。もう、あの頃の少年ではない。

 『無能』と罵られ、追放されたあの日の少年ではない。


 彼は今、世界最強の魔術師として、その名を刻む存在となっていた。


「――終わりだ……これで、全てを終わらせる」


 だが、その言葉の先にあるのは、終わりではなかった。

 深い静寂の中、遠くで微かに、王国の名を告げる声が聞こえた気がした。

 セシリア、エルナ、あの日の人々の顔が脳裏をかすめる。

 冷たい血が逆流するような感覚が胸を刺し、眠っていた怒りがじわりと蘇る。


 そして、あの王国の名を耳にした瞬間――止まっていた時が、再び動き始める。



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