真琴の心と恋神の過去
「口吸い」>昔の言葉でキスという意味です。
恋神の帰り道、もやとなりふわふわと飛んでいると、一羽の鴉がもやに近づいた。
その鴉は恋神の使い魔であり、唯一長きを共にしている仲間である。
「カァッ、カァッ……さすがにあれはやり過ぎではないのか?」
恋神は暫く黙っていたが、言葉を返した。
「そうじゃな……だが、わしも一人になって時間が経った……寂しいのはお主なら分かっておろう?」
「カァッ、それは分かるが、おでこ同士までいくとは思わなんだ。そのまま口吸いしそうでヒヤヒヤものじゃったわい。しかもあの青年、男色家ではないか」
「はっはっはっ、いくら同じ男色だとはいえ、わしにそんな気持ちはもてなかろうぞ」
「カァッ、カァッ、そういうものかのう……」
神社が近づくと、もやと鴉は透明になり、人には見えない姿となった。
一方、次の日早朝、真琴の身体は風邪をひいたのが嘘のように軽くなっていた。咳も出ない、熱もない、どこをとっても健康体になっていることは間違いなかった。
狐につままれた気分だったが、相手は確かにお狐様で、真琴が足繁く参拝しなくてはならない縁結び神社の恋神様である。
元はといえば、真琴が缶を蹴ってお堂の鐘にクリーンヒットさせてしまったのが原因で、恋神様とやりとりするようになった。しかし、看病までして貰ってしまうのは申し訳なくて仕方が無かった。
しかし、いくら申し訳ないとはいえ……おでこをくっつけられた瞬間、真琴は恋に落ちてしまったのである。恋神様に恋をするだなんて、これもバチ当たりな気がしたが、自分のドタイプの顔が目の前に来ておでこをくっつけて看病してくれたのだ。これで真琴が恋に落ちない筈がなかった。
「どうしよう……僕、恋神様を好きになっちゃった……」
いくら後悔しても恋心は消えず、逆に膨らみ続けた。
ここからは真琴のプレゼント癖が爆発して、お供えとして花やデパ地下で買った高級ケーキ、リンゴにミカン、いなり寿司を毎日のように参拝と共に置いていくようになったのである。
「カァッ、カァッ、何をか言わんや……」
「やれ、こいつは困ったのう」
供物を頬張りながら、恋神は困ったという割には嬉しそうだった。
恋神に恋人がいたのはおよそ百五十年前までで、まだ小さな稲荷神社だった頃の話である。相手は近くに住む百姓の息子で、名を喜八という。恋神と恋に落ちたのは、喜八が齢十九の頃だった。
喜八は背は小さく、手脚はスラリとか細い、所謂貧乏を絵に描いたような家庭の子だった。しかし、恋神と逢瀬を重ねる内に恋神の神力が移っていき、神主になり、その後、神主を束ねる宮司にまでなった。百姓の出であるにも関わらず、あまりにも強い神力が備わっていたので、一足飛びで金に困ることもなくなった。
喜八は、どんなに忙しくとも、恋神との毎日の逢瀬を欠かさなかった。
神職に就いたのも、恋神との逢瀬を近くするものだったからに過ぎなかった。
しかし、喜八は齢三十にして流行病にて他界してしまった。
この頃の恋神には人間は死んでしまうという概念がまだなく、治してやるには遅かった。
恋神の悲しみは深く、稲荷神社に七日七晩の大雨を降らせたほどである。
そんな恋神がまた相手を欲しがるというのは奇跡のようなものであった。
鴉は喜八とのことから知っているためか、今回の真琴との出会いが悪い物にならないよう、気が気ではなかった。悪い出会いならば殺めることも辞さない使い魔である鴉は、のほほんと供物を嗜む恋神が心配でならなかった。
「カァッ、悪い出会いではないと祈ろう……」