39 アイリを探せ
シュテファニッツだ、とユキトは言った。それはイワテはモリオカピから東へ約三十キロ行った場所にある反人派国の名称だった。
一月三日。家出生活九日目の朝。
家から持ってきたすべての荷物とシェパードの毛を残して、アイリはモーテルから消えた。
僕は迷わず誘拐を疑った。昼間にユキトを襲い、アイリに噛まれたシェパードたちが報復に来たのだと思った。
僕は熱に浮かされたように靄がかった頭でライフナビに思念を送り、通報先のニーポン警察へコールした。窓辺で冷風に晒されながら、寒さも忘れるほど全身が熱く脈打っていた。
「やめろ」
不意にユキトが僕の両肩を正面から掴み、強く二度揺さぶる。「顔でわかんぞ。通報は待て」
彼は、僕とアイリがライフナビを使うのを何度も見てきたせいか、使用時の微妙な表情の変化がわかるようだった。
体への刺激で現実に返った僕は、言われたとおり脳内のコール音を切る。だが制止された不満は当然生じる。
「なんで」
「理由は二つだ。第一に、犯人の意図がわからない。第二に、現場検証が終わっていない」
「そんなのは警察に任せればいいでしょ」
「馬鹿言え。お前、推理モノを観ないのか? 警察に通報すれば人質を殺すって脅すタイプの犯人もいるだろ」
正論ではある。だが、胸の内からせり上がる焦燥を上手く飲み下せない。
僕は玄関ドアへと取りついた。自分がベッドを下りたばかりで裸足であることも忘れていた。チェーンロックが上手く外せず、もたついていると、追ってきたユキトが僕の手を掴んだ。
「待てって。今から追っても無駄だ」
「離せよ」
「アイリのベッドは冷たかった。出ていってから相当経ってる」
「じゃあどうしろっていうんだ。犯人はヒトじゃなく反人派の犬だぞ。早く助けないとアイリが何されるかわからない」
「殺すつもりなら、わざわざ攫ったりしないはずだ。犯すのが目的なら―――」
「やめろ!」
考えたくなくて僕は叫んだ。風呂の栓を抜くように、体中の血が足の裏から地面に漏れ出していく感覚。頭の先から一気に冷え始めて、発声しようと口を開けるとカチカチと奥歯が鳴る。
ユキトは再び僕の両肩に手を置いた。その手のひらが妙に熱く感じた。
「落ち着けよ。オレの見立てじゃあ、犯人の目的は今言った二つじゃない」
「どうしてそう言える」
「オレたちが目覚めなかったからだ。正確にはオレが」
「意味がわからない」
「よく考えろよ。昼間襲われたばかりでオレが爆睡してたと思うか。お前らには言わなかったが、正直腕の痛みで寝つきは悪かった。眠りも浅かったと思う。それに気も立っていたから、拳銃を枕の下に入れていた。要は”何かあれば”すぐ飛び起きて応戦できたはずだったってこと。でもオレは目覚めなかった。つまり、”何もなかった”んだよ」
僕はユキトの示す意味を図りかねて眉根を寄せた。彼はそんな僕を観察するように見つつ、ゆっくりと続ける。
「だが実際に”何かはあった”。アイリが消えたんだからな。この矛盾がわかるか? オレが言いたいのは、アイリを攫ったのは、オレに気づかせないほどの手練れだったってこと。昼間、威嚇射撃にビビって逃げ出したチンピラシェパードじゃねぇ」
「つまり、昼間の報復ではない?」
「ああ。別の犬の可能性が高い」
ユキトは僕が落ち着きを取り戻したと見たのか、僕の両肩を掴んでいた手を離した。そして玄関前に立つ僕に靴とダウンジャケットを投げて寄越すと、自分もマウンテンパーカーに腕を通した。
「外を見にいく」
僕は神妙に頷いた。
玄関を出た僕たちは、モーテルの建物を後ろ側へ回った。モーテルの背後には、建物から二メートルほど間を空けて林が広がっている。木はすべて枯れ木だった。
駐車場や玄関のあるモーテル前面と違い、後面には一切の照明がない。月光があるとはいえ、夜目の効かないヒトの身からすれば視界は限りなくゼロに等しかった。
ユキトがモーテルに備えつけの懐中電灯で先を照らし、僕たちは僕たちの部屋の窓へと向かった。窓は開け放したままだったので、風に揺られたカーテンがちらちらと見え隠れしていた。
窓の正面まで行く前に、ユキトは足を止めた。僕はユキトの肩越しに前方を覗き見た。
心臓が炸裂した。
血―――窓の真下の雪が赤く染まっていた。
「騒ぐな」
僕が何か言う前に、素早くユキトが僕を制した。「ライフナビで調べたらわかるか?」
「何が……」
「なんでもいい。アイリの血じゃないって証拠だ」
僕は震えていたと思う。足がもつれそうになりながら前に歩み出て、その赤いものを見ることで、情報をライフナビにスキャンした。
結果が出るまで数分かかると僕が告げると、ユキトは頷き、懐中電灯の明かりで窓の下から雪面をなぞり、林の手前、そして林の奥を照らした。
「足跡は二人分……いや、林の中にはもっとあるな」
ユキトの言うとおり、確かに窓辺付近には犬二人分の足跡が入り混じってついていた。そしてそれらは林の方まで続いていき、さらに複数の足跡と、線状の跡に合流する。
足跡を追って林の入り口まで来た僕たちは、そこで立ち止まった。足跡はおよそ三、四人分。線状の跡はよく見ると、濃いものが二本と薄いものが二本あり、それぞれ轍のように見えるが車のそれよりは幅が狭い。
「なんの跡だ?」
ユキトが言い、懐中電灯を高く掲げて遠方を照らす。跡は林間を蛇のようにうねりながら、懐中電灯の光の届かない暗闇まで続いていた。
「シェパードとは無関係か? いや……」
と、そこでライフナビが解析を終えた。僕の脳内で、窓の下の赤いものの正体が告げられる。僕はホッと肩の力を抜き、その内容を口にした。
「アイリのじゃない」
ユキトが僕を振り向き、僕は頷く。「あれは猫の血液だった」
「マジか……」
その一言の中に、ユキトの安堵が滲んでいた。この際、猫の血がなぜあの場所にあるのかはどうでもいい。考えたくもない。
僕は解析を終えたライフナビに今度は線状の跡をスキャンし、その正体の候補を問うた。こちらの答えはすぐに示された。
「犬ソリだ」
「犬ソリィ?」
「手がかりが跡だけだと87%の確率だけど、モデル名はマックス・エミールF」
ハッ、とユキトは突然笑みを見せた。笑える要素など何もないと僕は不審に思ったが、彼は何かを一人で納得し、長く深い息を吐いた。
「今のでわかった。喜べアキラ……アイリ救出の糸口が見えた」




