36 首輪
「帰城の時間だ」
そうひと言残して、グラーフラートは踵を返し、行ってしまった。間髪入れずに彼の近衛犬たちが寄ってきて、転がったままのあたしの首に鎖つきの首輪をかけ、あたしを強引に引き起こす。
「痛いっ」
「ホーリーさまはどうした」
あたしを捕らえる犬たちの背後から、ひと際体の大きいウルンデが姿を見せ、凄んだ。素直に答えるには癪で、あたしは首を傾げてみせる。
「さあ」
「……探せ」
待機していた近衛犬たちが数人、エントランスを駆けていく。
「なぜ逃げた」
感情のこもらない硬質な声音。「逃げ切る勝算があったわけではないだろう」
「別に」
「お前がホーリーさまを脅して連れ出せるとは思えない。ホーリーさまがそそのかしたか」
「どうしてそんなこと聞くの?」
違和感があった。まるで主である姫の非を暴きたいかのような。いや、彼はグラーフラートの腹心だ。ならば王のために、たとえ妹姫であろうと処すべきは処すという考えなのだろうか。
実際、そそのかされていないといえば嘘になる。しかし、ついていくと決めたのは自分だ。事実はさておき、自分の発言のせいでホーリーが何か罰を受けるのだとしたら、気が進まなかった。
「お前のような他所者が、手引きもなく我々を撒けるはずがない」
「どうかしら。あなたたちが無能なだけでしょ」
「二人分の足跡が続いていた」
「もう一人は逃げたあたしを追っただけ、とは考えないの?」
「止め足を使ったな」
止め足、という言葉に疑問が湧いたが、すぐに思い至った。自分の足跡を踏んで後退し、家の窓に飛びついたアレのことだろう。
「止め足はホーリーさまの十八番だ。この国で、あれをできる者は限られている」
「……あたしに何を喋らせたいのよ」
「ホーリーさまが逃亡ほう助を行ったか否か」
「やめなさい、ウルンデ」
凛とした声が空気を一刀し、立ち並ぶ本棚の陰からホーリーが現れた。「アイリを試そうとしないで。彼女はわたしを売ったりしない」
ウルンデが身を引き、床に伏せて頭を下げる。
「失礼いたしました」
「アイリは逃げていないわ。供であるわたしと一緒に行動していたのだから」
「いえしかし、この女は先ほど一人で図書館を出ようと―――」
「あたしが、帰る前に外の天気を確認するよう頼んだの。雨でも降っていたら困るでしょう」
「ホーリーさま、それは―――」
「あなた方の任務は何でしたか? 民との交流に気をとられ、護衛すべきわたしたちを見失ったのはあなたたちでしょう、近衛隊長ウルンデ」
「……申し開きもございません」
「ではアイリの首輪を外して去りなさい。彼女はわたしが城まで連れていきます」
男はそこで顔を上げ、はっきりと拒否を示した。
「恐縮ながら、それは出来かねます。アイリさまをお連れするのは私でなければなりません」
「なぜ」
「あなたさまがおっしゃいました。私がアイリさまの護衛だからです」
「護衛に首輪は必要ないわ」
「グラーフラート王の命です」
「兄さまの……?」
姫の命が王の命に先立つことはない。ホーリー自身も、それをわきまえているらしい。彼女は首輪をかけられたあたしに向かい、僅かに瞳を揺らした。
「ごめんなさい、アイリ」
先ほどから姉さまではなく名を呼ばれていることに、彼女の真意を見た気がした。ままごと、とまでは揶揄しないが、彼女も本気であたしを姉と思っていたわけではないのだろう。
「お行きください、ホーリー姫殿下。城の執務室でグラーフラート王がお待ちです」
ウルンデが言うと、ホーリーは供の二人に促され、未練と罪悪感をはらんだ瞳で最後まであたしを見つめながら扉を出ていった。
あたしはソリに乗せられて城まで運ばれ、もといた部屋に戻された。鎖は外されたが、首輪はそのままだった。部屋から出ようとすれば首輪から麻酔針が出るから気をつけろとウルンデは言った。屈辱的だった。
ウルンデが行ってしまうと、あたしは洗面所へ行き鏡を見た。なんとか首輪を外せないかと考えた。けれど見る限り無理だった。この部屋の出入り口と同様、この首輪も肉球認証式になっているようで、肉球をかざすセンサーがついていた。
そのうちに給仕の女シェパードがやってきて、暖炉前のローテーブルの上に夕食を置いていった。あたしは手をつけなかった。ヤツから―――グラーフラートから与えられるものを受け入れるのが嫌だった。シャワーも浴びず、歯も磨かず、ベッドの脚のそばで丸まって眠った。
朝になり、また給仕がやってきて暖炉に薪をくべ、手つかずの夕食と入れ替えに朝食を置いていった。
「今朝のフルーツは、朝採れのみからんぼでございます。食べやすいよう皮をむいておきますね」
みからんぼは、みかんとさくらんぼを掛け合わせて生み出された高級フルーツだ。共生派国では結婚式などの祝いの場で供される。庶民的な値段ではないため、あたしは食べたことがない。
そっぽを向いたままでいると、柑橘系の甘酸っぱい香りが漂ってきた。反射的に溢れ出した唾液を静かに飲み込む。あたしが夕飯を食べなかったから、給仕はあたしの食欲が湧くよう仕向けているのだ。
給仕は自動皮むき器らしい金属製の器具から実を取り出して皿に盛ると、部屋を出ていった。
あたしは朝食もとらなかった。どうすればこの部屋を脱出できるか考えていた。部屋を出れば首輪から麻酔針が出て動けなくなる。
しかし首輪の制約があるためか、出入り口をグラーフラートしか開けられないという制約は解かれたように見えた。なぜなら昨夜、あたしを連れてきたウルンデは自身の肉球で部屋のドアを開けていたし、食事を運んでくる給仕も同様だ。あたしはもしやと思い、淡い期待を込めて出入り口のボタンを踏んでみた。
ドアは開かなかった。当然だなと納得しつつも気分は萎む。ドアは確かに施錠されている。そして特定の犬、おそらくあたしの世話をするのに必要な犬の肉球が、鍵として登録されている。
では首輪の方はどうか。首輪には誰の肉球が登録されているのか。ウルンデや給仕があたしの首輪を外す理由はないだろう。どこかへ移送するにも首輪つきの方が便利ですらある。
やはりグラーフラートだろう。そしてきっと彼のみだ。となると、彼をどうにかしてこの部屋へ呼び入れ、肉球を借りるしかない。
どう借りる? 取っ組み合って勝てる自信はない。ならばどう出し抜くか、だ。
気の進まない策があたしの脳裏に浮上した。




