34 恋を知るために
冬の太陽は気づかぬ間に沈む。最終下校時刻を迎えた学生たちは、顧問に追い立てられて蜘蛛の子を散らすように帰っていった。
ウルンデに叱られた事実などなかったかのように学生たちに「バイバーイ」としっぽを振るホーリーを見てふと気づく。
「そういえば、あなたは学校行っていないの?」
「ええ、行っていなかったわ。わたしと兄さまには家庭教師がついていたから」
ホーリーは当然という様子で答える。
「行っていな”かった”?」
過去形に疑問を感じて彼女の言いぶりを繰り返すと、彼女は意味を察した顔をした。
「ああ、共生派の国では二十歳を過ぎても学校に行くのよね。ここシュテファニッツでは、学校は十三歳までなの。十四になったら成犬とみなされて、ほとんどの犬が働き始める。まあ、わたしと兄さまは学生時代から執務をしていたけれど」
ホーリーは屋敷のような校舎を見上げた。
「だからねわたし、学校には来賓として呼ばれたときくらいしか入ったことがないの。入学式とか運動会とか。ねえ姉さま、学校って楽しい? お友だちがいるって、どんな感じ?」
同情を買いたい意図もない彼女の素直な疑問。もしあたしが『友だちがいたことないの?』と尋ねたら、彼女は当然のように『ええ』と答えるのだろう。王族とはそういうものなのだと、疑問も持たず。彼女は自分の境遇を不幸だとも不自由だとも思っていない。が、それゆえにあたしの胸は痛む。そして不思議と気づいてしまった。
彼女が本当に欲しいのは、姉ではなく友だちなのではないか。ずっと城にいて、年の近い相手は兄だけで、周りに仕える犬たちは皆成犬だったのならば、友だちの何たるかを知らないまま彼女がそれに近しい姉を求めても、おかしくないような気がした。
その真相は、彼女自身もわからないのだろうけど。
「友だちがいるっていうのはね、何か楽しいことに出会ったときに、次はあの子も誘おうって思えることよ」
「それって素敵ね」
「あなたにもそんな相手がきっとできるわ」
「本当?」
「ええ。あなた、そんなに悪い子じゃないもの」
言ってから急に、くさい台詞だなと恥ずかしくなり、「誘拐犯だけどね」とつけ加えた。
ホーリーはニマニマ笑い、ぺろっと舌を出す。
「じゃあ、恋をするってどんな感じ?」
「恋?」
「そうよ。交尾したいってなるやつ」
「ちょっと……!」
あまりに露骨な表現をするので、あたしは彼女に寄って声を潜めた。
「ニーポンではそういう言い方しないのよ」
「じゃあどう言うの?」
「えっと……」
あたしはホーリーの琥珀色の目を見つめた。そしてその後ろ、顧問に話しかけられて応じるウルンデに一瞬目を遣った。
「そのヒトのためならば、どこまでも走れちゃうやつ……かな」
「その”ヒト”ねぇ……あは、それも素敵」
ホーリーはいたずらっ子の顔になった。「姉さま、かけっこは得意?」
琥珀色の目が、動きだけでウルンデを指す。あたしは何かを察して答える。
「春の体育祭の徒競走で、シェパードに勝ったわ」
「わたしも走ってみたら恋がわかるかしら」
「お姫さまも走れるの?」
意地悪く言ってやると、ホーリーの目は半月型になってきらめいた。
「ついてきて」
雪を蹴って駆け出す。一瞬遅れであたしはその後を追う。外周に沿ってグラウンドを東へ走り抜け、住宅地を南北に走る道を北上する。
「やったー、脱走しちゃった」
「あなたが言うの?」
「だって、ずっとウルンデが目を光らせてるんだもの、息が詰まっちゃう」
「すぐ追ってくるわよ」
「撒くわ」
追跡者の視界に入らぬよう、十字路のたびに進行方向を変えながら徐々に北へ進む。北に行きたいわけではない。ウルンデたちが南にいるからだ。
そうして走るあたしたちの前に、突如行き止まりが立ちはだかった。
ホーリーは急ブレーキをかけて立ち止まり、雪上にできた自分の足跡を踏んで後退する。
「なんなのそれ」
「真似して」
言われるがまま、あたしも後退する。
彼女はそして、後退した場所から近くの家の窓に飛び移り、サッシを蹴って屋根の上へ飛び乗った。
「無理よそんなの!」
「大丈夫、姉さまならできるわ」
「落っこちちゃう」
「わたしが引っ張るから」
早く、と急かされたあたしの耳は、駆けてくる三人の足音を捉えていた。迷ってはいられない。あたしは力いっぱい雪を蹴り、窓に飛びついた。そして間髪入れずに屋根へと手を伸ばす。
あたしの片腕をホーリーが噛んだ。そのまま強い力で引っ張られ、腹をずるようにしてあたしは屋根へと上がる。
「ああっ、信じられない」
心臓が頭の中でバクバク鳴っていた。息が切れる。
「行くわよ姉さま」
切れた息が整わないうちに屋根の上を走り出す。三角屋根の一番上を、綱渡りのような危うさで。
慣れているはずもないので、ただ肝が据わっているだけだろうホーリーが軽やかに跳ねて隣の屋根へと移る。
「無理無理」
「できるわよ」
恐ろしいが、もはや後には引けない。あたしも決死の覚悟で飛ぶ。実際のところ死にはしない高さだが、落ちれば骨折くらいはするだろう。
「こんなところ通ってどこへ行くのよ」
「図書館があるの」
「えっ?」
風で聞こえず聞き返すと、ホーリーは声を張った。
「図書館。知らないの? 本がいっぱいある場所よ」
「知ってるけど、本なんてデータで読めるでしょう?」
「ああ、そうね。姉さまの国ではそうかもね」
多少呆れた感を出されて、あたしは戸惑った。共生派の常識では、本を読むのに特定の場所など必要ない。ライフナビさえあれば、古今東西あらゆる国と地域の書籍を自国の言語に翻訳した形で読むことができる。それらはすべて脳内で完結するのだ。
図書館なんて、古い漫画にしか出てこない古の産物ではないか。
「わたしたちの父さまが造った図書館なのよ」
ホーリーの声音には誇らしさが滲んでいた。
「姉さまに見せたいの」
あたしは彼女の純真を跳ね返せない。




