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第3話 逃げた男

「ち、か……?」


 その、あまりに弱々しいか細い声が自分のものだと気付くのに、しばらくの時間がかかった。


 俺は動くことはできない。目の前の光景を脳が拒絶して麻痺を起こしてるからだ。

 恋人のちかりが、見知らぬ男と唇を重ねている。全くありえない光景を目にしているからだ。やがて男は名残惜しそうにちかりを離す。そしてちかりに何かを言っているが、この距離からだとよく聞き取れない。


「あ、あの……」


 ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど震えていた。

 その声が届いたのかちかりは振り向いた。

 その瞳は俺の目を捉える。だが表情はいつもと変わらないように見えた。そう、なんでもないかのように。


「良介、どうしたの?」


 その声が、俺をまた現実に引き戻した。彼女の口から流れ出るその声は、ただ思ったことを口に出してたけの、いつもの彼女の声色だった。本当に、どうして俺がここにいるのか? それだけを聞いている。何の揺らぎも感じないいつもの彼女の声。

 しばらくの間、彼女と俺の視線は交錯したままだった。そして、ちかりはそっと男の手を放し、少しだけ歩いてきた。


「それじゃあバイバイ」


 相手の男にそれだけ言うと、ちかりは俺の方に向かって雑草を踏む音を下駄で鳴らしながら近づいてくる

 相手の男が戸惑っている。俺と同じで、今の現実をよく理解できていないようだ。

 だが俺と違うのは再起動が早かったことだろう。何もよく分かっていない顔で、しかしここにいるのはまずいと感じたのか、名前も知らないその男は去って行った。


 近づいてくるちかりの姿が、冷たい風のように俺の背筋を感じられた。


 俺はただ立ち尽くし、何度も何度も頭の中で繰り返されるのは彼女と男とのキスの光景だった。


 やがてちかりが戻ってきた。彼女は静かに俺に寄り添い、頬に触れるようにその小さな手を差し伸べてきて……。


「良介」


「ッ!!」


 その瞬間、俺の足は勝手に動いた。一目散、彼女を置いて林を飛び出し、境内を飛び出し、祭りの会場を飛び出して行った。


「っはぁ……! ぁっはぁ……」


 息が上がる。心臓が激しく鼓動する。苦しい。

 どこに向かうのかも考えず、ただ走り続けて、喉の奥を掻きむしるように息を吐きながら足を止めた。

 周囲を見渡せば見られた住宅街。見慣れた街灯に照らされた、俺の家の周辺。

 ……帰ってきたんだ。何も考えないように走りながらも、俺の足は帰巣本能が働いていた。


「……」


 しばらくそのまま落ち着くまでその場に佇んだ。

 息を整えようとするその時間思い出されるのは愛しいはずの彼女と見知らぬ男とのキス。

 考えたくなくても、俺の意識を無意識が拒む。


 どういう理由でだ? 何故ちかりはあそこでキスをしていたんだ?


 侮蔑的な物体が胸の中をのたうち回りながら、喉の奥から這い出て来ようとするのを必死に抑えつつ、仕方なく俺は深く考えた。

 …………深く考えた結果、どのようなシチュエーションになろうとも恋人以外の男とキスをする理由にはならない。

 それが痴漢のある話は別だ。だけど、彼女の顔には嫌悪感がなかった。


 嫌だ、嫌だけれどはっきりと認めなくちゃならない。――愛しい彼女の浮気を。


「ごほっ……!」


 不意に込み上げてくる吐き気。

 慌てて住んでいる部屋へと駆け込む。


「うぇ……げほ……」


 気持ち悪い。


「うぅ……」


 涙が溢れ出る。

 いざ現場を見ながら何をすることも出来ず、それでいて彼女から逃げ出すことだけは出来た己の間抜けな塊を洗面台に吐き出しながら、俺は泣き続けた。


 ………………

 …………

 ……


「おい、ちかり。そいつは誰なんだ? なんとか言ってくれ! ちかり、どこへ行くんだ?! そいつと一緒にどこに行くんだ?!! ちかり! ちかり!!!」


 俺の叫び声を聞かず、いくら手を伸ばしても届かない。足が前に進まないからだ。そうしている間に見知らぬ男と遠ざかる愛しい彼女……。

 俺はただ叫び続けることしか出来なくて……。



 ………………。

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