6、二人の決断
エレナはまず自分の考えを整理することにした。
私には二つの選択肢がある。
一つは、私が公爵と結婚する。その場合、クラウスは別の貴族の家で働くことになり、私と彼とは別々になる。
もう一つは、公爵との結婚を断る。それは、今の生活をそのまま続けるということだ。
でも今の生活をずっと続けるとして、それはどこに続いているのだろう。
私はこの生活が楽しい。今日までのところは。
昨日までは私たちは、仕方がなくここにいた。
この生活以外に選択肢はなかった。
だから、この暗くて小さな世界に満足できたのだ。
でも今日、事情が変わってしまった。
私の無実の罪が晴れたこれからは、この塔にいる必要は特にない。
この外には大きな世界があって、それは私たちに対して開けている。
私には公爵夫人としての安定した裕福な生活、クラウスには高位貴族の家での召使いとして約束された将来。
それと比べて今の生活を続けることは、幸せだろうか。
エレナは首を振って、苦笑した。
そんなはずはない。
今の生活が楽しく思えるのは、きっと一時の気の迷い。子供っぽいこだわり、わがまま、みたいなものだ。
きっと、あとから見れば、迷っていた自分が馬鹿らしくなるだろう。あの時の私はどうかしてたわ、って笑う私の姿が容易に想像できる。
公爵夫人として幸せそうな私。いつか、私は夫ともに、どこかの伯爵だか公爵だかを迎える。そのすぐ後ろには、威厳のある姿で付き従う、クラウスの姿。
お互い一瞬、目を合わせて微笑む。今日のことを思い出しているのだ。
あんな時もあったなって。
二人は別々の道を歩んできたけど、今は幸せだって。
そんな姿がきっと私たちの一番いい未来なのだ。
わかっている。
でも。
エレナは、ため息をついた。
それをどうしても受け入れられない気持ちなのはどうしてだろう。
私って、本当に、どうしようもなく愚かで、頑固だ。
どうすればいいかわからなくて、泣きたくなってきた。
もう一つ私の心を暗くするのは、それが私だけのわがままじゃないことだ。
今回の提案はクラウスにとってもチャンスだ。
もし公爵家に嫁がなかったら、私の将来はどうなるかわからない。
苦労の多い、貧乏な生活になってしまうかもしれない。今は同情されているけれど、兄や姉たちが国外に追い出された私の立場のどこに安心できるだろう。
それに比べて、公爵の推薦で就職すれば、召使いとしては安泰だし出世もするだろう。クラウスは優秀だし。
そんなチャンスを私が潰してしまっていいのだろうか。
でも。
もし彼も今の生活のままがいいと望むなら。私と一緒に暮らしたいと望むなら、それは自分だけのわがままじゃなくなる。
多分、私が結婚を断るとしたら、その場合だけだ。
結局、私だけで考えていても答えは出ない。
クラウスの気持ちを聞かなくては。
エレナはそういう結論に至って、クラウスに考えを聞こうと思った。
でもすぐには切り出せなかった。
どうせ二日後には結論を出さなければならない。なら、まだもう少し。最後になるかもしれないこの生活を少しでも長く送りたい。
そうして、公爵に返答する日の朝になった。
エレナはやっとクラウスを呼び出したのだった。
「クラウス、あなたの意見を聞きたいのだけれど」
「はい、なんでしょう」
「私とあの公爵の結婚、どう思う?」
クラウスは少し考えて口を開いた。
「おめでたいことだと思います」
「もし私があの人と結婚したら、あなたは祝福してくれるのね」
「はい」
「それは心の底から?」
「もちろんでございます」
エレナはそう答えるクラウスの表情をじっと見た。
そこには何か隠している気持ちは一切ないように見えた。
エレナはクラウスと一緒に暮らしてきて、彼の小さな気持ちの動きを、その表情のかすかな変化から読み取れるようになってきていた。
だからこそ、エレナは彼の言葉が、嘘のないものであることがわかってしまった。
彼の返事を聞いた瞬間、彼女の公爵に対する返答が決まっていくのを感じた。
それは一つの扉が閉まって、別の扉が開いていくような。
一つは質素な作りの素朴な扉と、もう一つは豪華な装飾が施されて立派な扉だ。
片方の扉が閉まっていく。
その瞬間に彼女は後悔の気持ちが湧き上がった。
なんて馬鹿なんだろう。
こんなにもはっきりしていたのに。
私にとって本当に開けたかった扉は一つだけだったのだ。
何ごとも過ぎてから、はっきりしてくる。本当にひどい。
しかし、その扉はもうぴっしり閉まってしまった。そして、もう開かない。
「公爵と結婚したら私、幸せになれるかしら」
エレナはもうこれ以上何を話しても無意味なのだとわかっていた。でも、何かを話さずにはいられなかった。
エレナは自分が抜け殻か何かになったように感じた。
「ええ、必ず」
「クラウス、あなたも幸せになる?」
「ええ、それもきっと」
「それはいいわね。私たち二人とも幸せになるのね」
エレナは本当は涙がこぼれそうだった。でも、必死で我慢して、微笑んだ。ここで涙を一滴でも流したら、すべてが台無しになってしまう。
笑わなくちゃ。
だって私たち幸せになるのだから。
エレナのその気持ちに応えるかのように、彼女のその微笑みは美しかった。多分、世界で一番美しい微笑みなんじゃないかと思えるほどに。
クラウスの目にはその微笑みはどう映っただろうか。
「ありがとう。クラウス。じゃあ私色々身支度するから、もう行っていいわ。あなたは公爵を迎える準備をして」
「はい」
クラウスはエレナに背を向けて、立ち去っていった。
彼女はその姿をじっと見つめた。
ああ、本当に終わるんだ。
毎日楽しかった。一緒にいる時間は心から楽しくて、だからこれで終わりじゃなくて、もっと一緒にいたかった……
だめだ。早く出ていって。そうしないと持たない。
エレナはそう思って、目を一度ぎゅっと瞑った。
やがて、クラウスの足音がぱたりと止んだ。
もう行ったの? それにしては……
エレナは、目を開けた。
するとクラウスが、背中を向けたまま立ち止まっていた。
そして、少ししてから振り返ったのだった。
「すみません。エレナ様。どうしても一つだけ」
「何?」
「本当は、私、エレナ様のお側を離れたくありません」
クラウスは絞り出すようにそう言ったのだった。
そう口にしたクラウスは、いつもの冷静な姿と異なり、困り果てたような表情をしていた。
「この二日間、その気持ちを自分の奥底に押し込めて、今日ようやく、エレナ様の結婚を祝福する気持ちになれたのに。それなのに、エレナ様の微笑みを見たら、急に抑えきれなくなってしまいました。こんなこと、言ってはいけないとわかっているのですが。どうしようもない気持ちになってしまって。どうしてこんな。だめなのに」
「いいえ、だめじゃないわ」
エレナは強く首を振った。
そしてエレナは堪えていた涙が溢れてしまった。
しかし、悲しい涙だったはずが、今はほっとした気持ちで一杯だった。
エレナがもう開けられないと思っていた扉が、いまや開いている。
なんでと思ったら、彼女は一人じゃなくて、隣にクラウスが一緒だった。
「私、公爵との結婚断る」
「え、そんな。いけません」
「いえ、これは私の決断なの。いえ、違うな。私たちの決断だ」
「私たちの?」
「本当は私も断りたかったの。でも私だけのことじゃないから」
「エレナ様も?」
「そうよ」
それからエレナはおかしそうに笑った。
「私たちって馬鹿よね」
「そうですね」
クラウスは笑顔で頷いた。
それはエレナが大好きな笑顔だった。
その笑顔を見たら彼女は自分が正しい答えを出したのだと、はっきりわかったのだった。