3、エレナの揺れ動く気持ち
エレナはこのごろ、前ほどクラウスに冷たく当たらなくなっていた。
前はあんなに嫌だった風呂の時間も、今ではそれほど嫌ではなくなり、むしろ楽しみにするくらいになっていた。
上手とはいえない手つきで一生懸命、彼女の髪を洗うクラウスの様子を見ていると、エレナはふふっと笑みがこぼれて、楽しいような安心したような気持ちになるのだった。
それに対してクラウスは少し戸惑ったように微笑み返す。
穏やかな日々だった。
いつも暗く寒い塔の中も、前より明るくなったような気がした。
エレナは自分が今、冷たく寂しい場所で暮らしていることも、忘れかけていた。
しかし、それも一時の平穏でしかなかった。
きっかけは些細なことだった。
ある日、お風呂に入って髪を洗われている時、エレナはそれに気づいた。
クラウスの髪を洗う手つきが、いつもより遥かに上手になっていたのだ。
彼女はそれに驚くと同時に、胸のうちに、ある疑念が兆したのだった。
ある日、急に上手くなるなんて、練習でもしない限りありえない。
でも、誰と?
私みたいな髪を洗うのを練習するとしたら、髪の長い女性だろう。
でもそんな人心当たりない。王宮からも、クラウスの故郷からも遠く離れた場所であるこの地で、誰がいるのだろう?
それを思った瞬間、エレナの心はかき乱され、直前まで感じていた温かい気分は、嘘のように消えてしまった。
彼女は自分の奥底から全身に冷たいものが広がるのを感じた。
私、なんであんなに浮かれていたんだろう。
こんな寒い塔で召使いと二人で暮らしていて、楽しいことなんてあるはずないのに。
あまりにもひどい場所だから私、変になっていたんだわ。
冷静にならなくちゃ。
エレナは、そうしてまた不機嫌な王女に戻ってしまった。いや、前よりもっとひどくなった。彼女から笑顔は消え、クラウスに冷たく当たるようになった。
一方、クラウスの召使いとしての能力は、塔での生活が長くなるにつれ向上していた。
たとえば食事を作る料理の腕も、最初の頃より上達していた。
エレナも少し前まで、クラウスの作る食事を楽しみにしていて、「美味しい」と口にして、クラウスににこやかに話しかけていた。
でも今や、もうそんなことはなくなった。ただ無言、無表情で食事を口に運ぶだけだ。
それどころか、エレナはクラウスの料理の腕が上達したのも疎ましく感じるようになってしまっていた。
この料理を食べるのは私だけ?
いいえ、きっと私よりもっと食べさせたい人がいるに違いない。
その人に美味しく食べて欲しいから料理もこんなに上達したんだ。
そう思うと、彼女の食器を持つ手は震えた。
馬鹿みたい。
エレナは部屋で枕に顔をうずめて泣くようになった。
何も悪いことをしていないのに、なんで私はこんなところに閉じこめられて、こんな寂しい気持ちにならなきゃいけないんだろう。
彼女は泣き終わると、いつも喉が渇くので、涙を拭いて、鏡を見て跡が残っていないのを確認すると、ベルを鳴らしてクラウスにお茶を持ってこさせた。
彼女はクラウスの顔を見ると無性にもやもやとするので、本当は彼の顔を見たくなかった。でも他に用事を頼める人物はいない。
ある日、いつものように部屋にお茶を持ってきたクラウスの顔を見ると、急に耐えられない気持ちになったのだった。
それで、いらいらとした口調で、
「あなたは自由にいろいろ出来ていいわね」と言ってしまった。
それを言われたクラウスは表情を変えずに立っていた。
たとえば、友達や恋人なら、反論したり慰めたりするだろう。でも召使いだったら、何も言わない。今のクラウスのように。
エレナは、クラウスはどこまでいっても私の召使いなのだと思った。
それもとても優秀な召使い。
それは私にとっていいことなはずなのに、こんなにもやもやするのはなぜだろう。
エレナは、クラウスに「いろいろ自由に出来て」と言ったが、本当はそんなことはないのはわかっていた。
自分と一緒にこんな国のはずれに来て、この塔で暮らしている時点で、自由なんてないようなものなのだ。
彼が近くの町に行って、どんなプライベートな時間を過ごそうとも私になにか言う権利はない。
どんな人と会って、仲良くしようが、私には関係ない。
それなのになぜ私は辛い気持ちになるのだろう。
エレナは、クラウスが部屋にいるのに、ベッドにうつぶせになって泣き始めてしまった。
自分が泣いている姿をクラウスには見られたくないと思っていたのに、もう我慢でできなくなっていた。
そして、彼女は、
「私なんか見捨てなさいよ」
と震える声で言った。それから、
「もう出てってよ」
とクラウスに言ったのだった。
しかしクラウスは、エレナの部屋から出ていかなかった。
彼女はクラウスに部屋から出ていって欲しいと思っていた。
しかし、同時に彼が出ていかないことにほっとしていた。
エレナは自分の気持ちが全くわからない、と思った。
いつも、彼の顔なんて見たくないと思っているのに、自分が彼を呼ぶベルを鳴らす時には、不思議な胸の高鳴りを感じていた。
彼女にとっては、それが何かわからなかった。いや、塔の暮らしが長くて自分が変になってしまったのだ。そう言い聞かせた。
エレナが泣きやんでしばらくすると、クラウスは、足音を立てないように静かに部屋から出ていった。