運動会、つないだ手、もう一度
運動会、つないだ手、もう一度
風薫る五月に、失職した。
職場に関わりたくなくて実家に転がり込んで、上げ膳据え膳されていたら、近所に家を構えた姉に甘えすぎだと叱られ、甥っ子の保護者として運動会を観にいくことになった。
自分も通ってた小学校。
だけど、大きくなった木のせいか、入れ替えたというグラウンドの土の色のせいか、違う学校に見える。
鮮やかな陽射しの下、あちらこちらとグループを作ったママたちと離れて、私はなんとなく馴染みのある赤茶けた鉄棒の横に立った。
今時の運動会は、午前で終わってしまうらしい。手ぶらで身軽な親たちは、自分の子の出場する競技だけ前に出てきてカメラを構えている。
地区ごとに応援とかも、もうないみたいだ。
かくいう私も、甥っ子の他の子は把握していないから、一年生の競技以外はぼんやりと遠目に見ていた。
はずだけど。
ついついじわじわと前に出て、6年生のリレーでは、いつの間にか身を乗り出して応援してた。いやもう白熱。
ゴールの瞬間なんて万歳で拍手して。流石にはっと取り繕う。ついね、つい。走るって気持ちいいし楽しいよねって、思い出しちゃって。
姉の代理なのだ。あまり目立ちたくないから、もう大人しくしておこうと、汗を拭きながら思ったんだけど。
最後の種目、全校選抜リレー。黄色い声援可愛い声援、野太い歓声までを一身に受ける走者がいて、顔を上げた。
アンカーの一つ手前。若い男の先生が走ってた。すごく綺麗なフォームで、対戦チームの先生たちをぶっちぎる。
カッ、コいい。
私は応援するのも忘れて、その爽快な走りに見とれた。彼の走るスピードに合わせて鼓動がどんどん速くなるようだった。
就職してからは走ってない。
また走りたい。
観てる側にまで、強烈に意欲が湧いてくる。そんな走りだった。
その先生は、なんと甥っ子の担任の先生だったようで。運動会終了後、解散前に甥っ子のクラスの前で喋っているのを見て、驚いた。
さらに一人一人児童を引き渡すとかで、甥っ子を引き取りに行って間近で見て、さらに驚いた。
かつての同級生だ!
しかも、走るのが苦手で運動会なんか大嫌いだと、集団演技も何も、練習すら参加しなかったあの男の子、だと思う。
名前が咄嗟に出なくて、言い出せない。思い出したとして、こんな児童保護者の目の前で声なんてかけられないけど。
「確認にお名前を下さい」
「斉木、あ、いえ後藤ゆうです」
「後藤ゆうくんですね。お疲れ様です」
こちらのドギマギをよそに敬語で対応をされて、まったく気がついてないのがわかった。
ほっとしつつも、名残惜しいような。
「お、お疲れ様です」
「ちせ、ちせ、帰ろう! せんせー、さようなら!」
はしゃぐ甥っ子に手を引っ張られて、すごすごと帰る。素敵な走りでした、くらい言えば良かったかもと、うじうじしながら。
うーん、でも、結果よかったんだ。声なんてかけなくて。
早く歩いたり立ち止まったりな甥っ子の手を離さないようにして、ぼんやり家路を辿る。
だって思い出せば思い出すほど。
私って、嫌な女子だった。
ルールを守ることが正義だと思ってて、従わない男子は敵だった。ほうきを持って追っかけたり。先生に言い付けたり。
だから運動会の準備の時から、しつこくあの子に誘いをかけてたんだった。
「佐山、またサボり?」
なんて上からの物言いで。そう、佐山君だ。
佐山君は断固として参加しなかった。6年で初めて一緒のクラスになったから、他の年もそうだったのかは知らない。
でも先生に言い付けても佐山自身に任せろと言われて、取り合ってもらえなかった。私は納得いかなくて、それからはいつも体当たりだった。
運動会当日だって、佐山君の手を引っ張って連れて行こうとしたのを、なんとなく覚えてる。
結局どうしたんだっけ。きっと拒否されて、そんなら勝手にすればとか酷いこと言ったのかも。
あーあ。思い出すのも辛い、ギラギラと尖った時代だわ。
その後佐山君は、転校してしまった。
心臓に病気があって、これから頑張って手術するんだって聞いた。先生が何を言ったか具体的に覚えていないけど、ぽつんとひとつ空っぽの机が、すごく印象に残ってる。
心臓の病気。だから走ると胸が気持ち悪くて。だからいつも。
知った時にはもうどうにもできなくて。
私は罪悪感に潰される前に、記憶を遠くにおしやったんだ。思い出しちゃった。
記憶を封印したとしても、それから私は、人には人の事情があるんだって、殊更気をつけるようになったつもりだけど。
きっと佐山君の中では、私はあのころの、姉貴ぶった正義かぶれ、人の痛みのわからない嫌な子のままだろう。
案外、思い出してたけど関わり合いになりたくなかったのかも。そうだよ。
私は当時からあまり背も伸びず、顔も変わっていないのだ。当時を知る人ならすぐ分かるはず。
うん、避けられたんだ。確定。
麗らかな青空に似つかわしくない、どんよりした気分になった。
門を出て少しのところで、仕事終わりに急いできたらしい姉と合流した。
姉は甥っ子に、間に合わなかったことをたくさん謝って、甥っ子は姉に自分の活躍を意気揚々と話して、お互い相手の発言を気にしてないからカオスだ。あと、似てる。
そうこうしていたら、甥っ子が忘れ物をしたと言い出した。
「私、取ってくるよ」
ちょうど、走りたい気分のところだ。走って、色々と忘れてしまおう。姉は二人目がお腹にいて、身重ってやつだし。
甥っ子はするりと私の手を放すと、ぎゅっと姉の手を握った。私は姉の目がちょっと潤むのを、見ないふりをした。
姉は産休前の引き継ぎに大忙し、運悪く義兄も海外からの客が来て仕事が外せないと、すごくすごく気にしていたから、よかったよかった。
身分証をつけて、靴下だけで、そっと教室に入る。
教室は変わっていなかった。でもやけに机が小さい。こんなに小さかったっけ? 一年生だから?
人の気配のない学校は、やけに緊張する。
「えっと、後藤ゆうの机……」
わざわざ声に出して、私は教室を見渡して座席表を見つけ、甥っ子の机を探し当てた。窓際の席だと言ってだけど、窓から二列目だった。
「あったあった。れんらくちょう。懐かしい!」
机から、表紙に動物が載った連絡帳を引っ張り出したところに、ガラリとドアが開いた。
本気で心臓が跳ねた。
「ひゃあっ」
「あ、失礼、驚かせて。廊下の端から見かけて」
「せ、せんせ」
少し息を切らした佐山君だった。元同級生。いや、待って。元同級生だと知られたくないから、ただの甥っ子のせんせ――。
「僕、佐山です、だよ。斉木ちせ、さんだよね? 覚えてる?」
あれ?
「覚えてないかな。6年生に転校しちゃったし。その直前の春の運動会で、君は、僕を引っ張って」
あ、あ、覚えてるんだ! どうしよう!
「放送係に誘ったんだよ。競技には参加できなかったけれど、君のおかげで、運動会には参加できた。あれは、嬉しかったんだ。本当に、嬉しかった。ずっとお礼が言いたくて」
――放送係?
無言で記憶を漁っているうちに、佐山君はどことなく落ち着かなげに、そわそわと体を揺らした。
「あー、ほんと突然ごめん。今、職員室で確認したとこで。斉木さんは、ゆうくんのお母さんじゃないんだね。叔母って書いてあった。緊急連絡網に。担任でよかった…。ほんと、泣きそうに安心した」
そう言って笑う顔を見て、閃くように思い出した。
どうしても競技に出ないならと、無理矢理押し込めた放送席。私が読むはずだった下級生のリレーの実況をぶっつけ本番で担当させられて、でもやりきって、得意げに笑ったあの男の子。
ちょっといいな、ってきっと思ったんだ、わたし。
いつもサボって隠れた校舎の影からじっと寂しそうに見ている顔より、ずっとずっと素敵で。いつもそうやって笑ってほしいなって。
当時はまだ、その気持ちが何かはわからなくて。芽が出る前の土の山みたいな、春の兆しみたいなものだったから、記憶と一緒に封じられていたのだろう。
思い出したからといって、それが一気に芽吹くわけでもないけれど。
恐れていたのと正反対の好意的な態度に、私は気づく前に過ぎ去っていたはじめての恋を、とても素直に受け止めた。
――で。
今はもう、二人とも大人で、保護者と教師でもない。そのことに佐山君も安心してくれた、ということは。
あ、いやいや、本気にとったらいけないやつかも。
もたもたおろおろとしていた私に、佐山君は真剣な顔で、この後時間があればご飯でも、とまで言ってくれた。
うう、甥っ子の運動会記念の食事予約さえなければね、行ったのだけど。
残念ながらとお断りして、連絡帳を持って姉のところに戻る。木陰で待っていてくれた二人は、私を見つけてにっこり、よく似た顔で笑った。
うんうん、わたしは今無職の居候だし、こうしてお供するのが一番よね、と甥っ子を姉と挟む形で手を繋いで歩いてたら。
「斉木さん!」
遠くから名前を呼ばれて、振り返った。声だけでわかる。
「あれ、せんせーだ」
走ってくる綺麗なフォームに見惚れていたから、追いつかれるまであっという間だった。
佐山君は目を白黒させてる姉にきちんと挨拶をしてから、私に向き直った。
あの、これ、と神妙な顔をして差し出してくれたのは、いかにも手作りな名刺カードだ。『1年1組 さやま あきら』と書いてある。その下に、手書きの、多分SNSのIDだ。
あ、この前授業で作ったやつだ!と甥っ子が言う。くろーむぶっくでうんぬんかんぬん。最近の子は、ダブレットだのパソコンに強い。お絵かきだとかプログラム作成なんてしちゃうみたいだ。1年生なのに!
モノクロ一択のレポート作成くらいしかできないわたしは、黙ってそれを受け取ったのだけど。
そのわたしの腕を、ガシッと姉が掴んだ。
「どゆこと」
「や、あの、実は、小学生の時の同級生で……」
幼い頃から言葉でわかり合うなんて必要のなかった姉にド迫力な低い声で問い質されて、咄嗟に適切な説明が出るか。いや出ない。
しどろもどろの私に代わって、佐山君が真面目な顔で応えてくれた。
「再会できたのが嬉しくて、お食事に誘わせていただいたのですが、今日はご予定があるとのことでした。それはもちろん構いませんが、せめて次の機会を相談するために、連絡先をお知らせしたくて。お呼び止めして、申し訳ありませんでした」
いやいや、正直に話すぎじゃないですかね!?
きっちりお辞儀をした佐山君を、姉がいえいえ先生顔を上げて下さい、と押し留める。姉のよそ行きは、何故か背筋が伸びる。
「家族のご飯なんていつでも食べられるから。いいから連れて行ってください」
でも佐山君は、にっこりと笑って首を振った。
「家族のご飯なんて、って言わないでください。今日はゆうくんの初めての運動会ですから、たくさん話をしたいと思います。な、ゆうくん」
それはまさに、大人で先生で、分別というものがあって。私はすでに、心臓が高鳴っていたのだけど。
「あの、代わりに明日誘ってもいいかな。代休なんだ」
と少し照れたように誘いをかけられて、断れるだろうか、いや――。
「この子いつでも暇してますので、是非誘ってやってください! この子ったら、後輩庇ってパワハラ上司と喧嘩して、辞表叩きつけて辞めたんですって。
気が強いのは、でも幼馴染ならご存知よね?」
姉ーーーーーーー!!!
「今彼氏いないし。このままだとカビが生えそうだし。ぜひよろしくお願いします!」
ほんとに、やめてええええ。
私は魂が抜けそうになったけど、佐山君はどうしてか、少し眩しげに目を細めた。
「誰かのために一生懸命になれる人なのは知ってます。……明日、いいかな」
はい、よろしくお願いします。
私はかろうじて残っていた意識を叱咤して、なんとか返事をしたのだった。
姉、そのぬるい目をやめて!
翌日は、少し離れた駅まで移動して、明るいスパニッシュバーで食事をした。
会話はポツポツだけど、会話の合間もあたたかくて。
次の約束、また次の約束と、連絡の頻度が上がって。
実は佐山君の手術が、それなりのリスクのあるものだったこと。体力が付くまでと待っていた手術が怖くてたまらなくて延ばしていたことなども、聞かせてもらった。
「子どもだったからはっきりと言語化できなかったけれど、失敗したら無になるのが怖かったんだ。ずっと拒絶して、目を逸らしてた。学校で同情されるのも嫌で秘密にしてもらってたけど、みんなと同じになんかできないしさ。いつだって突きつけられて、なにもかも、辛かった。
でも、運動会で放送の原稿を読み上げて、抜いたり抜かされたりを見てアドリブしたのは、まるで一緒にリレーを走りきったみたいな気がしたんだ。だから、もし手術が失敗しても、俺はゼロじゃない、って思えたんだ。それで、手術、受けられた」
「手術後も検査がずっと必要で、もうこの町に戻れなかったのは誤算だったんだけど、代わりに陸上を始めた。実は、君が走る姿がかっこよくて、少しでも同じ景色を見たかったんだ。ずっと憧れてたんだよ」
そんなことを、すごくすごく優しい目で佐山君は言う。
あのころ私より低かった背は見上げないといけないほど高い。きっと私が必死に走っても、もう追いつけない。
そんな変化に、どきどきして。
でもふと隣にいる私に笑いかける顔は、あの時と同じで。
三回目のデートの帰り道に、キスをした。
特別な関係になって、おやすみとおはようのメッセージを送り合うようになって。
でも、そこから先に踏み込む前に、私にはしなければならないことがあった。
気持ちはふわふわと舞い上がって降りてこない。
けれど、失職からひと月もすると、そちらの現実が見えてくる。
辞表を叩きつけてそのまま去り、会社や同僚からのすべての連絡を絶っている状態が、社会人としてまともなはずがない。
わかってる。あの上司の気配を感じるのも嫌だけど、離職票は会社に出してもらわないといけないし、会社に置きっぱなしの私物についても確認しなければならない。
いつまでも、ふらふらとしていられない。
就活を始めて、失業手当を申請するなら動き始めなければ。
気が重い。
二度と顔を合わせたくない上司のこともそうだけれど。
実は私がずっと反芻しているのは、別のことだ。
上司が嫌がらせをしていた相手は、私じゃない。あくまで後輩だけが、ターゲットだった。しかもそれは後輩の入社以来、ふとした言葉に乗せられた棘として、ずっと続いていたことだった。
何故後輩だけだったのか、わからない。上司が持っていない管理栄養士の資格を持っていたから? でもそれなら私も持っている。病院給食サービスの会社としては実入の少ない、小さな病院や養護施設ばかり担当していたから?
でも何が理由であっても、真面目に勤務する人間に毒を吐き続けるなんて異常だ。努力家で勉強家の後輩を、ずっとずっと、詰めが甘い読みが足りない気が利かない、言いがかりを付けていびっていた上司は、異常だ。でも、みんなやり過ごしていたのに。
私はそんな上司を、ある日突然、許せなくなった。
それは、後輩が大事に対応していた顧客を、相談もなく契約打ち切りのリストに入れて会議に提案したと聞いたからでもある。
私はいつからかカバンに入れっぱなしだった辞表を懐に、社長もいる会議に乗り込んで、洗いざらいぶちまけた――。
後悔はしていないけれど、でもその衝動に私は自信が持てない。
後輩が私の擁護を望んでいたのかも分からないし、あの日ぶっつりと切れる前に、もっとできることがあったのではと思う。
私のしたことが、誰にも望まれない衝動でしかなくて、後輩にとっても誰にとってもただの迷惑だったら。
それを目の当たりにするのが怖い。
立派に担任の先生をしている佐山君を目の当たりにして、私は弱い自分にがっかりしていた。
あんなに優しい顔で、まるで輝く人を見るように目を細めて私を見る佐山君に、恥ずかしくないように。私は、もっとちゃんとした自分でいたい。
逃げては、いられない。
実家の四畳半。私の使っていた机が、衣装ケースやタンスやらの間に埋もれている。
その机に寄りかかって畳に座り、私は久しぶりに、仕事用にしていたPHSの電源を入れた。
「ちせ、週末はごめんね、研修が入って」
「ううん、お疲れ様。忙しいのに平日に時間取ってもらって、こっちこそ、ありがとう」
実家の最寄りのコンビニ前。もっと学校の近くまで行くと言ったのだけど、夜の一人歩きは用心してほしいと言われてしまった。走ってきてくれたのか、少し息が上がっている。
いつもは顔を見たら自然と笑みが浮かんでいたのに。
私のあまりに強張った顔に、佐山君はふしぎそうにした。
「……あの、実は。会社に戻ることになりそうで」
失職に向き合う覚悟を決めるまでは、このあたりの小学校の給食に関われないかな、なんて思ってた。確か母校は今も、学校内の給食室で給食を作っている。もしかすると、管理栄養士のパート募集があったりして、佐山君と同僚になったりして。なんて。
PHSをオンにするや否や、見ていたのかと思うタイミングで、後輩から着信があった。
社長は、きちんと私の訴えを調査してくれたそうだ。そこで栄養管理部の皆で正式に抗議して、先週やっと上司が配置換えになったのだと、後輩ちゃんが泣きながら教えてくれた。私の退職届はいなくなった上司の引き出しにぽんと入ったままで。
だから、今私は溜まった有休の消化中と言うことになっているらしい。でもその有休ももうすぐなくなるのに、全然連絡取れなくて焦りました、戻ってきてください!と。
ぽつぽつと話し終わると、私の失業事情も知っていた佐山君はあまり驚きもせず、静かに頷いた。
「そうか。勤め先は、前と同じ、XX?」
大きな街の名前を言われて頷いた。
ここからは、片道二時間の距離だ。会えなくはない。大丈夫。でも、こうして平日に少しだけ顔を見て、体温を感じることは、できない。
急な寂しさに襲われて、俯いた。
佐山君は少し離れたところで立ったまま、少し黙った。
運動会の時はあんなに晴れて汗ばむくらいだったのに、今は二人の間を吹く風が冷たい。
「……俺、まだ言ってなかったけど、今の立場は介護休暇の代替教員なんだ。臨時的任用職員ってやつ」
「え、そうなんだ」
「うん、任期は最大で一年。もともと教員免許は持ってるけど、教員採用試験は受ける気がなかったんだ。でも人手不足だからって、先輩に頼み込まれて登録してたら、母校から要請をいただいたので。縁かなと思って引き受けた」
そうなんだ。
でもじゃあ。
「本来の先生が戻ってくるまで、ってこと?」
「そうだね。担任の先生の介護休暇が明ければ、そこで俺の任期は終わることになる。あまり中途半端な時期にはならないと思うけど」
淡々と言う佐山君。だけど、なんてシビアなんだろう。
佐山君がクラス担任としてとても努力しているのを、もう私はよく知っている。大変そうだ。でも子どもたちの話を楽しそうにしてくれるのを見ていると、やりがいを感じているのもよくわかる。
そんな仕事を、クラスを、急に取り上げられることがあるなんて。
「待って、ちせ、もう少し聞いて。今はこの代替教員をするために休学してるんだけど、俺は実はまだ大学院生でね。医療衛生学部で、心臓リハビリの研究に関わってて」
「そ、うなんだ」
管理栄養士の勉強の中で、かろうじて耳にしたことはある。心臓リハビリ。きっと、自分の体験から志した分野なのに違いない。
私が誰かの本当の意味での助けになりたいと、管理栄養士の道を選んだみたいに。
そうか。小学校以外にも、佐山君には世界があるんだ。わたしがまだ知らなかった、別の。
――知りたい。
「すごいね」
「すごい?」
「うん、たくさんの選択肢があって、すごい。じゃあ将来は、正式な先生か、研究か……それとも他にももっと考えてるの?」
私はつい顔を上げて、ぐいぐいと聞いてしまって。
いつの間にか、佐山君の顔を覗き込んでいた。
すごく、すごく優しい顔を。
「やっぱりいいね、ちせは」
「えっ、なに?」
「学校の先生と比べたら、医療分野にいた方が潰しがきくし稼げるでしょ、とか言われること多くて。でもちせは、そもそも俺がどうしたいのか知ろうとしてくれるんだ。相手よりも一生懸命相手のこと考えてくれるところは、昔から変わってない。――そういうところ、好きなんだ。好きだな」
面と向かって、どうしようも抗えないなって顔で、好きと連呼される。
そんな経験初めてで、私の顔はみるみる真っ赤になったはずだ。
息の仕方がわからないかもしれない。もう、死んじゃいそう。
「俺が大学院に戻ったら、XXに住んでもいい。もっと近くなるよ」
「う、うん」
それはでも、クラスとお別れする時でもあり、喜びづらいな。
でも、嬉しい。単純に嬉しい。そう思ったとき。
「でも、近いのがいいとも限らないかも」
「え? 限らない?」
そう言われた途端、私の中でぐるぐるっと黒い雲が渦巻いた。
「近い方が会いやすい、のに? ……あ、でも私の会社、休日出勤当たり前で、近くても会えないかな。そっか、近くてもよくないか」
「ちせ?」
「そだよね、遠くても、どうしても会いたいなら、実家に泊まればいつでも会えなくはないし。次の日は直接会社に行ってもいいし。そ、それに、本当は、この仕事も続けるか決めてなくて。管理栄養士って意外と募集があるから。たとえばほら、栄養教員なんていうのもいいかな、って」
まくし立てたあとの、沈黙が長い。
ほんとに、ほんとに私、こういう時、どこかで自分に譲れることはないかって、考えちゃう。そして大抵、空回りする。
放送係、本当は楽しみにしてた。何度も練習した、自分の受け持ちだった。
後輩の時だって。本当は他にも後輩を心配してる人はいたんだ。でも私は、みんなでどうにかしようじゃなくて、私がどこまで切り取って差し出せるか、考えてしまう。一人先走って、過剰に自分が重荷を背負って、周りに痛ましい顔をさせてしまう。
違うんだ、ただ、私は私の押し付けで相手を困らせたくなくて。
かつての、佐山君のように。
わかってる。なんだって、バランスだ。
だけど、頭でわかってても上手くなんてできない。
私は、私のこういうところが、好きじゃない。
「あ、の。ごめんね、わたしばっかり勢い付いて」
もう、泣きそうだった。
「いろいろ、いらないこと言ったかも。別にその、重たく縋るとかのつもりなくて。ただ、そういう方法もあるって思って。だから、うん、近くなくても、機会があれば会おうね……」
勘違い。先走りすぎ。気を遣いすぎで重い。差し出しすぎ。切り売りしすぎで、引く。
思春期に、仕事先で、かつて言われた言葉が、脳裏をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
いつも大袈裟で、誰も求めてないことを、さもやってあげると言いたげに大仰に差し出して、るのかな、私。
――恥ずかしい。
今日はもう帰ろうと思った。
お腹が痛いとか、頭が痛いとか適当にでっち上げてでも。だってもう、目が涙を溜めるのも限界だ。いやもう、いいや。なにもかも。
くるりと踵を返して、走り出す。何よりも得意だったことを、今するだけだ。
でも。
「待って」
あっという間に追いつかれた。
ぐいって引っ張られて、どんとおでこが硬いものにぶつかって、丸めた背中も温かくなった。真下を向いた視界には、さっきまで離れたところにいたはずの、佐山君のスニーカー。
「待って、嬉しいんだけど、俺まだ何も言ってないから、甘やかされすぎてるから、ちょっとだけ待ってほしい」
待つ。待つけど、ちょっと涙と、あと鼻水拭いてもいいかな。
でも佐山君は待ってくれない。
ぎゅうぎゅうってされるけど、私としては鼻水を佐山君に付けるわけにはいかなくて、ですね! 断固、頭で押し返して抵抗するからね!
「あのね、遠くて会えなくて構わないって言ったわけじゃないんだ。そうじゃなくて、俺の任期がいつまでか分からないけど、普段遠くて、寂しくてたまらなくなったら、――すごく希望的観測で言うんだけど――、もういっそ早く結婚しようって気になってくれるんじゃないかなって」
今度は、私がしんとする番だった。
何にも嫌だったわけはないけれど。飲み込めない。
鼻水は少し垂れてきたけど、すすれないし。
え、なにこれ。プロポーズかな。
離れるのは辛くて悲しいとしか思えなかったのに。
一時離れる寂しさの向こうに、ずっと一緒にいられる未来が見えて、急に心が跳ね上がった。
運動会の日、佐山君の走りを見たときみたいに。
「斉木さん? あの、プロポーズ、ではあるんだけど。でも今勢いで言っちゃったから。絶対またちゃんと言うから、これは予約。いい? いいかな? 俺、先走りすぎたかな?」
私が静かなせいで慌てだした佐山君の胸元に、私はぐりぐりと頭をこすりつけた。
もう涙がどばどば出てるから、鼻水の形跡はきっとわからない。わからないはず。わからないことに、賭ける。
女は度胸だ。
私はえい、と顔を上げた。
「プロポーズでいい。すごく嬉しい。嬉しくて泣きすぎて、今すごく酷い顔になってるの。でも、これだけは顔見て言いたい」
「ほんとだ、すごく泣いてる」
驚いた顔の佐山君は、やっぱり目だけはとろりと優しい。
「佐山君の、どんな状況もポジティブに捉えるところ、とても好き。なかなかできないもの。尊敬する。あの、放送係のときも、上手だったし、かっこよかったよ。あと、運動会のリレー、走る姿に実はときめいてた。だから、だから、嬉しい」
佐山君はじっと私を見たまま、目元を赤く染めた。
「俺は、自分の全てをもって相手を助けようとするちせが、眩しいよ。女神みたいだ」
「それは、言い過ぎ!」
「う、ちょっと照れる。でも俺にとっては本当で。でもそんなちせが傷つかないように、見守りたいとも思う」
「……あ、ありがとう」
私たちはそれからしばらく黙って見つめ合って。
それから、手をつないで歩き出した。
手をつなぐのは、運動会で私が佐山君を放送席に引っ張っていった時以来だ。
あの時とはまったく違う、大きな手。
今日も明日も平日で、明日は私も職場に顔を出さなければならないから、実家までのほんの数分だけど。
きっとこれからは、この手とずっと手をつなぐのだ。