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物語tips:パル
連邦の共通語“個人通信端末”の頭文字をとって「パル」と呼ばれている。500年ほど前に普及し、かつては固定回線から数列を無線で受信できる装置だった。現代では個人個人が小型の操作端末を持ち、各都市のサーバー群と無線接続している。
受信機とバッテリーを内蔵した本体と操作端末の2つでひとつ。通信会社が民営化されたため様々なモデルが普及している。もっとも普及しているのは腕輪型で、視差を利用して映像が浮かび上がって見える。高級端末なら網膜に表示させたりメガネの拡張現実に投影したりできる。
個人間のメッセージの送受信やサイバーネットの閲覧も兼ねる。規格化された短距離無線通信機能があり、チップなどをタッチするとデータを読み込み再生できる。持っていない人はいない。
充電は3日に1度で済む。
ブレーメンの聖剣 第2章 慟哭(上) 「5」
走って、ぶら下がって、軽く飛ぶ──
新兵向けの体力検定試験で、ソラはゴール地点の高台で軽く息を吐いた。他の新兵たちはまだコースの半ば。丸太の上を走ったり、水に浸かった網の下をくぐったりしている。そして本来はロープと小さな足場を伝って登る2間(7m)の台場の上で、ストップウォッチを持った教官がソラの横で青ざめた顔をしていた。
「完了しました!」
ソラは習いたての敬礼で教官に挨拶した。練兵場の端の方ではヨシギとニロ、フェイフェイが笑っているのが、ブレーメンの視力で捉えることができた。
ブレーメンの力。発揮するのは5分がせいぜいだったが、ヒトと同じ程度の動きならいくらでもできる。ほんの少し、2間(7m)の台場へ飛び上がるときに、瞳が黄色に光ってブレーメンの力を使った程度。
「記録は……50秒。新記録だ」
「ありがとうございます。体力検定試験の最高記録でありますね」
「いや、精鋭のレンジャー隊員を含めて、駐屯地の最速記録を2分も、上回ってる。もう行っていいぞ。ヨシギ大尉が待っている。この書類を大尉に渡すんだ」
「了解しました」
ソラは格式張った敬礼をしてその場から──単管パイプの簡易的な階段を無視して、台場から直接飛び降りてヨシギのところへ軍隊式の駆け足で向かった。
「さっきのは傑作だったな」
ヨシギはゲラゲラと笑っている。その隣で、ニロもフェイフェイも、パルで撮ったビデオを見返している。
「つまりそれは、褒めてもらえているってことですか。僕が」
「ああそうだよ。相変わらず理屈っぽいな。1週間も経っているのにまだ慣れないのか」
いや、だいぶ慣れてきた。部隊内の人間関係は、アヤカにはなるべく近づかなければ問題がないと分かったし、シャワーを浴びるときはニロに覗かれないよう、鍵をかけるとか。それでもニロもフェイフェイも訓練や学校のスキマ時間に勉強を教えてくれるし、近々行かされるであろう学校に備えている。ヨシギに関しては──口が軽い昼行灯だが基地内で悪い噂は聞かなかった。良い兵士であり良い隊長だ、と皆が口を揃えて言う。
「でも僕がヒトと同じ体力試験を受けて、意味があるんですか」
背後では、やっと新兵たちの中の体力自慢の男たちがゴールに辿り着いている。肩を大きく上下させて肺いっぱいに空気を吸い込んでいるのが見えた。ヨシギは教官の署名付きの記録表を受け取ると、
「書類上は、な。軍ってのは要はでかい役所だ。税金と財団の支援金で回っている。だからひとつ手続きするたびにたくさん資料やら書類やら検定証が必要になる。生粋のブレーメンの入隊なんぞ100年ぶりとか、そんなもんだろ? だから形だけでも体力検定が必要になるんだ」
ソラは口をぼそぼそと動かして生返事をした。基地の新兵向けの体力検定は、要は障害物競走だった。どんなに遅くてもクビにはならないらしいが、一部の部隊はこの検定で入隊資格が決まると言われた。
「傑作だろ? 今までの最短記録が3分13秒。レンジャー隊員でも3分切りは難しい。なのにお前、50秒でクリアしたじゃないか。ハハハ」
「水中での匍匐前進は初めてだったので時間がかかりました。まあ、丸太の上を走ったりロープを登ったり、壁を……本来はよじ登るんでしたっけ、飛び越えたりとかブレーメンなので。できても嬉しくありません」
というよりブレーメンとヒトは生物学的に違う生き物だ。元々体力面で優れているのだから、その優劣をヒトと競うのはばかげている。
「剣無しでも、あんな動きができるんだな。てっきりすぐ息切れすると思っていた」
「ヒトと同じ動作なら何時間だってできますよ。ただそれ以上、速く動いたり力を出したりするのは5分が限界です」
その苦しさを知っているから、ジャガーを操縦するときに血が沸き立つような高揚感は忘れられない。また早く可変戦闘車に乗りたいと思っていたが、毎日座学や新兵向けの教練が続いていた。
それでも今日は少しだけ楽しそうな予感がした。4人の先頭を歩くヨシギの背中には短い銃身のライフルが掛かっていた。
「わくわくするね、ソラ君。今日は射撃演習だよ」隣でニロはうきうきステップを踏んでいた。
「あたしの機関砲にくらべたら豆鉄砲よ」隣でフェイフェイはふてぶてしくもうきうきステップを踏んでいた。
「大丈夫。銃なら撃ったことがある。ソリアの裏路地で。マフィアのおじさんから習った。空き缶をこう、木箱の上に並べてさ。それを狙って撃ったんだ。拳銃と単発式のライフルも。初めてにしては上手いって褒めてもらってさ。帰りに大きなサンドイッチを買ってもらったんだ」
克明に思い出せた思い出。つまらない半生でもすらすらと思い出せた記憶だった。
「ふーん、アウトローってやつ? 初めて聞いた」ニロが首を傾げた。
「ふえー。古い映画みたい」フェイフェイも首を傾げた。
「ホントだって! だから銃の扱いは慣れてる」
ソラがどれだけ言い返しても、2人は半信半疑だった。一方でヨシギは火のついていないタバコを口に咥えて聞き耳を立てていた。
「それじゃ、ソラ。銃の扱いはわかるんだな? 俺は楽できるぜ。ほら、射撃場についたぜ。弾もたくさんもらってきた」
ヨシギは手にタバコの箱を持っているかと思ったが、それは銃弾の詰まった箱だった。軍への卸品のせいか灰色のボール紙の箱で、飾りっ気のないフォントで銃弾の規格だけはデカデカと書かれていた。
射撃訓練場は半屋外の施設で、砂の斜面に向かって引き金を絞る。地面にはレールが敷かれ、その上を縦や横に標的が動くように作られていた。
「とりあえず今日は固定標的からだな。あんまり壁を穴だらけにすると庶務課から書類がたくさん回ってくるから。外すなよ」
「はいはい! わたしから! 撃ちたいです!」
ニロが思い切り手を上げて宣言した。指先が勢いよくソラの耳を叩き、ニロの胸がバルンと揺れた。
「あいよ。自分の足を撃つなよ」
「もう、隊長、わたしは初心者じゃないんですよ」
ニロはヨシギから短銃身のライフルを受け取り、教科書通りの安全確認の動作をこなす。ソラがその背中に見とれていると、ヨシギは耳栓をよこしてくれた。
「ブレーメンは特に聴覚が鋭いからな。鼓膜を破っても数時間で治るだろうが、慣れないうちはこいつをかかれていた付けとけ」
「僕は、慣れてますから」
ソラはしぶしぶ耳栓を付けた。途端に世界の音が遠く小さくなって自分の心臓の音ばかりが高鳴って聞こえた。
「ソラ、座学の復習だ。あのライフルの名前は?」
「たしか、三三式ライフル 改良型21。後方弾倉式なのでライフルというより長い拳銃みたいな見た目ですね。マフィアの闇取引目録で見たことがあります。軍用の化学電気式ライフルは横流しさえ難しいけど、火薬式ライフルなら密輸が簡単だと。大昔の戦争のとき、田舎の町や村に銃身用の旋盤とか全自動フライス盤が配られていたせいだとか」
「やけに詳しいな」
「マフィアのおじさんにいろいろ教えてもらったんで」
「まあいい。俺の方針で針小隊は個人防衛火器は火薬式って決めているんだ。なぜかわかるか?」
「いえ。隊長が煙が好きだからでしょうか。タバコ、よく吸っていますし」
「ふふーん、ブレーメンにもわからないことがあるんだな」
ヨシギは我慢していたタバコに火をつけた。
射撃位置でニロがライフルを構えた。それに応じて自動で標的が現れた。
ターン ターン ターン……
破裂音のような銃声が響いて鼓膜が揺れるのがわかった。リズミカルに薬莢が飛び出してコンクリートの床に転がる。黄金のように輝く真鍮製の薬莢は、踏んでも案外滑らなかった。
銃声の合間を縫って、ヨシギは話を続けた。
「──つまりだ。俺たち可変戦闘車乗りにとってこういう個人防衛火器を使うのは非常時に限られる。燃える可変戦闘車から逃げたとき、精密機械の化学電気式ライフルじゃいざというときに故障するかもしれない。だがこいつは違う。鉄の塊。少々叩いたくらいじゃ壊れないし、泥や砂にまみれても作動する。500年間、形を変えながらも作り続けられた傑作武器だ。どうだ、わかったか?」
「はい。理屈は通っています」
ニロは弾倉一つ分の射撃を終えて、弾倉を外し所定の動作で薬室を開け確認し、ライフルをおいた。
「やった! 見ましたか隊長! 全弾ど真ん中です」
ニロが勢いよく両手を上げ、また胸がバルンと揺れた。ソラの隣でフェイフェイが面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「5丈(200m)だぞ。俺は視力の因子は受け継いでないから小さい穴なんて見えないって。というかお前の電子義眼は標的を拡大ができるんだろーが」
「やだなぁ隊長。遠くが見えても風を読み気温を捉え体の呼吸を整えて──」
「はいはい、わかった。実戦じゃどのみち弾をばらまくだけがせいぜいだから。次はソラ。ほれ、使い方はわかるだろ?」
ソラは軽い小銃を受け取り、可動式のストックを自分の腕の長さに合わせた。弾丸をボール紙の箱から出して台にばらまいた。1発づつ弾倉に詰め込む。全部で20発。最後の方は固くて難儀したが、コツが分かればなんてことない。
ニロが穴だらけにした標的がスルスルと手元に戻ってくる。代わりの新しい標的が現れる。同じ5丈(200m)の距離で、肉眼だけではそこに標的がある、程度にしか見えないが意識を視力に集中させると、標的だけが大きく見え、それ以外はぼんやりと霞んで見えなくなった。
引き金を軽く絞る。指先が触れるか触れないかという僅かな動作で弾丸が発射され──標的を大きく外れて砂埃が舞った。
「あれ、こんなはずじゃ」
「ハハハ。最初はそんなもんさ。俺に貸してみな」ヨシギは半ばソラから小銃を奪った「銃ってのはこう撃つんだ」
甲高い発射音/破裂音。完璧に反動を制御し、ヨシギの上体はすこしも動かない。標的はポツポツと穴だらけになるのが見えた。
「どうだ? 当たったか?」
「ええ、当たっています。ニロほどじゃないですけど」
ソラは今見た光景を頭の中で反芻=そう難しくない。記憶の中では銃を撃ったことがあるが体が妙に重くてついてこない。だが今なら大丈夫だ。ソラはヨシギから銃を返してもらった。
空の弾倉に鈍い金色に輝く銃弾をカチカチと詰める。ちょうど20発。
装填、そして構える。照準を標的に合わせる。弾道の落下と銃身の癖を意識して更に微調整。
引き金を絞った。ブレーメンらしい腕力で反動を制御する。20発の弾丸はどれも軌道が乱れず、まっすぐに標的の中心部分に突き刺さった。
意識を集中させると──たぶん瞳が黄色に光っていたはず。ブレーメンの思考力と判断力で射撃なんてわけなくこなせる。
ソラは、薬室をオープン/安全を確認=どれも教科書通り。弾倉を引き抜いて脇においた。標的がするすると手前までやってきた。ヨシギの射撃跡よりも正確に中心部分を狙いうがっていた。
「ま、的は逃げねぇし撃ち返してもこないから、できてトーゼンさ」
苦し紛れの評価。その顔を覆い隠すように新しいタバコに火をつけて煙を吹いた。
「そういえばここ、禁煙ですよ」
「ここだけじゃねぇよ。基地全部が禁煙だ。財団のクソッタレな健康志向のせいでな」
「じゃあなんで」
硝煙の酸っぱい臭いに混じって甘い煙が漂う。たしかにここならタバコの臭いもごまかせる。しかし女物の細いタバコで桂皮の香りが添加されている。髭面に軍人には少々似つかわしくなかった。
「大人ってのは抱え込むものも多いんだ。だからこうして気分を紛らわせるぐらいがちょうどいいんだよ」
意味深な発言に、ニロもフェイフェイも、額を突き合わせてこそこそ話している。
「あの、質問してもいいですか。隊長」
「ん? ああ」
「ブレーメンは、昔のように暮らせるようになるんでしょうか」
「どうだろうな。そうしたい、っていう連中が集まればそうなるかもしれない」
「隊長は、ブレーメンとして生きたいですか」
じろり。横目で睨まれた。ヨシギは最後に細く長く煙を吐いて、丁寧に火を携帯灰皿でもみ消した。
「お前、ときどきアヤカみたいなこと言うよな」
ヨシギは訓練で消費した弾薬の報告書をバインダーに挟んで書き込んでいる。
「アヤカも、そんなこと言っていたんですね」
「本音じゃ、ヒトなんて全部ぶっ殺したいっていうおっかねぇ娘だよあいつは」
知らなかった──アヤカはこの一週間あいさつすら返ってきた試しすらないせいで、てっきり真面目だけが取り柄の頭のいい子だと思っていた。
「俺にはな、そのブレーメンの生き方ってがよくわかんねーんだわ」ヨシギはぼりぼりと頭をかいて、「知ってるか? 昔はヒトとブレーメンは子供が作れなかった。あたりまえだよな? 違う生き物なんだから。だが偉大な科学のおかげでそれも実現した。100年ぐらい前か。その後ちょうど起きたのが第3次テウヘル戦役とブレーメンの武装蜂起だ。だから、聖剣を奪われたブレーメンは選択を迫られた。狭い居留地の中で暮らすか人の社会に溶け込んで暮らすか、だ。後者ならヒトと子供を作るのを連邦政府が手助けしてくれる。生活の保証もある。俺の死んだお袋は、後者だ。かなり厳しい育て方をするタイプだった。お袋がブレーメンだったなんて知ったのはだいぶ後のことだし、俺自身、ふつうの子供として育った。ブレーメンらしい死生観だの武術だの、そういうことを知らず、ホッケーだのスケートボードだのに精を出していた。妙に人並み以上に体力がある上に老けないから“もしかして”とお袋に問い詰めたら「私はブレーメンだ」って」
さみしげな男の回顧。
「じゃあ隊長は、ブレーメンの再興に意味はないと思うんですね」
「そーは言ってないだろ。ヒトとブレーメンの混血ってのは、生きにくい。ヒトの輪にも入れずブレーメンの輪にも入れず、俺自身で生き方を決めなくちゃならん。ブレーメンの存在が歴史の中のことだと皆が諦めて割り切っていた中でお前が登場したってわけだ」
「すみません」
「どうしてお前が謝るんだよ。昔と同じ、ブレーメンがヒトを救ってやるんだ。これほど痛快な話はないだろ?」
ヨシギはゲラゲラと笑っていた。
「僕は、生活費が稼げるならそれでいいですから」
「明日からは、おまちかねの可変戦闘車の戦闘訓練だ。基本操作マニュアルは覚えたよな? シュミレーターで10時間、そのあと実機で30時間。小隊で戦闘機動訓練に30時間。一般兵ならその10倍の訓練時間が必要だが、ブレーメンだからなんとかなるよな? 今のうちになにか聞いておきたいことはあるか?」
ソラはきりっと、新しいタバコに火を着けているヨシギを見た。
「どうしてそのタバコを吸っているんですか」
焦げ臭い、甘い煙が漂う。
「言っただろ。大人ってのは背負ってるものが多いのさ」それ以上訊くな、という暗示だった。壁際でニロとフェイフェイもぶんぶんと首を横に振っている。
ヨシギは火の点いたタバコを指先で持つと、
「訓練はこれくらいでいいだろ。どうだこの後、飯でも行くか……?」
しかしヨシギの目は別の方を見ていた。ちょうど射撃訓練場の入り口の方。大股で怒り肩の小さな獅子がずんずんとやってくる。
「ヨシギ・コウ、ここは禁煙ですよ」
「げっ、アヤカ」
「げっ、とはなんですか! もうすこし大人らしくブレーメンらしく振る舞ったらどうなんですか。あなたに言われて、その新人君に座学を教えに来たのに」
「お、おお、そうだったな。じゃ、後は任せたぜ。俺は事務方に書類をいろいろ出さなきゃいけない」
「あ、宿題がまだだった。あたしたちも行くね。ほら、ニロ。パルで写真なんか撮ってないで!」
ヨシギとかしまし娘×2はそそくさと射撃場を後にした──ほんとアヤカのことが苦手なんだなこのヒトたち。
「いつまで突っ立ってんのよ」アヤカがソラをまくしたてる「行くよ、ほら」
「でも、この銃」
「ヨシギ・コウのジャガーにぶら下げとけば後で自分で清掃なりするでしょ。ああみえてちゃんとした軍人なんだから」
「で、どこ行くの?」
「食堂。今の時間なら誰もいないし静かだから座学にうってつけ。食堂に集合。あんたは格納庫に寄っていくんでしょ。だから駆け足。ほら!」
とぼとぼ歩いているとアヤカにケツを叩かれた。駆け足と言うなら、してやろうじゃないか。ぐっと足に力を込める/瞳が黄色に輝く。格納庫から食堂へ。そのぐらいの短時間ならブレーメンの力を使っても問題ない。
歩道を風のように駆け抜け、格納庫で目を丸くしている調整員たちを尻目に、一息で食堂までたどり着いた。時間は午後のど真ん中で、夕食にむけて職員が出たり入ったりしているが照明は半分落とされて、厨房で仕込みの音が聞こえるぐらいだった。アヤカがやってきたのはその5分後だった。
「誰もそこまで速く走れって言ってないでしょ」
「でも走れって言ったじゃん」
「もう、融通が効かないのね、新人君。ほら座ってパルを出して。座学を教えるから」
ベンチに、テーブル越しに腰掛けるとアヤカは自身のパルをソラのパルに軽く突き合わせてデータを送った。ずらずらと流れてくる電子書籍の表紙は、サバイバル術、救急救命術、民法、刑法、軍事法、市民保護、軍と第3師団の組織図とその来歴についてだった。ざっと見ただけだがまだデータファイルがある。こんなにあるのならニロに拡張ディスプレイを借りてくるんだった。
「これ全部?」
「そ。ヒトの基礎教育の半年分。ブレーメンなら目を通しただけで覚えられるでしょ」
「それはそうだけど」
入隊すると安請け合いしたのを少し後悔した。
「なにか質問があったら言って。ま、ブレーメンだから大丈夫だと思うけど」
サバイバル術のファイルの、『生水を飲むな』の章に目を通しながら真正面に座っているアヤカを見た。生水を飲むと腹を下す。常識と言われたらそうなのだが、喉が渇いたときは泥水でもすすってしまうのが本能らしい。しかし──それは免疫の低いヒトだからであってブレーメンはそう簡単に病気にかからない……という確認をアヤカにしたかったが、彼女は退屈そうに頬杖をついて食堂の外を眺めていた。やっぱりこんなつまらないことに付き合わせて謝るべきだろうか。
「ごめんなさい」しかし先に謝ったのはアヤカだった「私、さ。人付き合いが苦手であまり、その友好的じゃなかった、かも。初対面でいきなり首を絞めちゃったし」
チラリ──アヤカの右目だけがソラを捉えた。
「うん、たしかに、変だった。すごく変」
「そこは普通『いいよ、気にしてないから』って返すところじゃないの?」
「僕もヒトは苦手だけど。でも首は締めないよ」
「それについては、ごめん。ほんとにごめんなさい。私、どうかしてた」
ヒトの、しかもか細い手で締められてもこそばゆいぐらいだったけれど、つっけんどんなアヤカのしおらしい一面が見れておもしろかった。
「僕は別に、嫌われても気にしない」
「そーじゃなくて!」
「僕だってヒトは苦手だ。何考えているかわからないし、弱いくせに態度と頭数だけは大きいし、それに、あのときの虐殺も。全部ヒトのせいだから。だけど、今はもうそう思わない。いいヒトもたくさんいるってわかったから」
「20年前のヤオサン事件ね。辛かったでしょうね」
「そう、なのかな。辛いのかな。よく覚えていないんだ。たくさんの叫び声、たくさんの血。たくさんのヒトを斬ったこと……あ、いや今のは違って」
「構わないわ。当時のニュースも映像も動画も、サイバーネットにたくさん残ってる。居留地を襲撃した暴徒1000人は銃を手に純血のブレーメンを皆殺しにしたけれど、逆に返り討ちにあって全員死亡。すべての遺体に刀傷があったって。もしかしてあなたがしたの? だって当時はまだほんの5歳とかでしょ」
「たぶん。はっきりと覚えてないけど。戦った記憶はある。そして川に飛び込んで逃げて。そのあとはずっとソリアのスラム街でひとりで生きてきた。記憶はすごく曖昧だけど」
「ひとりで? どうやって?」
「看板の裏側で寝起きするんだ。アブラムシとかネズミとかに齧られない。お金が必要ならマフィアの仕事を下請けで。あまり命を奪わなくていいやつとか、そういうのを。例えば荷物運び。ソリアから北部の街まで。大抵は暇なんだけど、敵対するマフィアが襲撃したり、軍警察に賄賂を渡したり。だから車もトラックも、運転を覚えている」
20年ひとりで生き抜いた。だがその過去を思い出そうとすると頭がぼんやりする。夢のような、映像は見えているのにそれを認識できない靄がかかっている。
「ふーん、ソリアでそんなことが。映画みたいね、まるで。でもあなたが昔のことを思い出せないのは一種の記憶障害かも。心理的なものでしょうね。お医者さんに見てもらったら? 財団の契約には健康保険も入っていたでしょ」
「でも、はっきり覚えていることがある。刀。2振りの刀で暴漢と戦った。そのときの恍惚とした……なんというか楽しさは覚えてる。その感覚が可変戦闘車に乗ったときと同じなんだ!」
「ふぅん、それで軍に入ったんだ。戦い好きなんて、本当にブレーメンなのね」つんとアヤカはそっぽを向いてしまったが「ブレーメンは強いけど、どうして刀を持つともっと強くなるか知ってる?」
「いや、そこまでは」
興味がないと言ったら怒られてしまうだろうか。しかしアヤカに感情の起伏は見られなかった。
「聖剣はブレーメンの力の触媒。伝承では“神から授かった萬像”。でも実際は、青い刀身に微弱な電流を流すと重力を相殺する効力があるから。ブレーメンの手は微弱な電気が流せるの。巡空艦が空に浮いてるのも同じ原理。でも刀はもっと純度が高い。だからダニみたいに走って飛んで跳ねて、それでいて息が上がらないの」
「ダニって、もう少しいい例えはないの?」
「可変戦闘車の反重力機構も同じ原理。同じ鉱石を精錬して人工的にブレーメンの手の微弱電流を再現した。浮かび上がるとき青く光るでしょ」
「うん、確かに気づかなかった」
「私は機械的なことは詳しくないから、明日来る調整員にでも訊いて。あなたが可変戦闘車に乗って高揚感があるのも、ブレーメンの聖剣と同じ物質だからでしょうね」
「じゃあ、アヤカも?」
「私はあなたほど戦闘狂じゃないわ。混血だし」
「お父さんが純血のブレーメン、なんだっけ?」
アヤカはまだ若い。とすれば純血のブレーメンの父もまだ歳を取っていないはず。ブレーメンが絶滅したと決めつけるのは早計だ。
「遺伝子はブレーメンでも、あの人はもうブレーメンじゃない。第一、もう200歳近いし寝たきりで、機械に繋がって呼吸してるだけだから」
「え、いや、でもアヤカはまだ16とか17でしょ」
「18歳。人工授精よ。ブレーメンはヒトと違って繁殖期が数年おきだから保存してたらしい。でも父は関係ない。あれはブレーメンじゃない」
「ごめん、個人的なこと聞きすぎたかも」
「同じ部隊なんだから気にしないで。たしかに純血のブレーメンはまだ生きている。だけどみんなすごく高齢だし、かなり昔にブレーメンとしての生き方を捨ててもう100年くらいヒトの社会で生きてきた。もうブレーメンとは呼べないわ。絶滅したっていうのも誇張じゃない」
「アヤカは、その、もう一度ブレーメンが現代に蘇るべきだと思う?」
「それはあなたが決めるべきじゃない?」アヤカはごもっともな意見を言うと「私が受け継いだブレーメンの因子は思考能力と知力。あと記憶力もかしら。ヨシギ・コウみたいに老化が遅いかどうかはまだわからない。ともかく、そのおかげでもうとっくに高校の勉強は終わっているし、この前の数学の試験の結果次第で大学院の招待状ももらえる」
「じゃあ、ブレーメンの父に感謝している?」
「でもね。ズルじゃないかしら。ヒトとブレーメンは違う生き物。私が優秀なんじゃなくて私に流れている血が優秀ってだけ」
「その気持ちは、ちょっとわかる。さっきも体力検定で新記録だって言われたけどブレーメンとヒトを比べるのは卑怯だと思う」
「私は、ブレーメンらしく生きたかった。だから家を出て、ただ生きる糧のために財団と第3師団に雇われてる。高校を卒業したら財団の奨学金で大学院に行く予定。たぶん、家族とも戦いとも関わらない私だけの人生」
「それいいかも」
ちょっとだけ笑った気がした。そのせいでアヤカは怪訝な顔を見せた。なまじ きれいな顔の分、眉間にしわが寄るとやはり怖い。
「僕も僕の生き方を見つけよう。ブレーメンとして、とかそういうのにこだわらないで。財団には、20年前に行方不明になった2振りの刀を探すよう交換条件を出したけど、でもどうでもいいや。生きたいように生きる。ちょっと気持ちが楽になった。ありがとう、アヤカ」
「ふん、別に私は何もしてないし。というかほら、手が止まってる! サバイバル術をちゃんと読んだ? 蛇のさばき方は?」
「いや、僕、ブレーメンだからヒトみたいにたくさん食事する必要ないし」
しかし反論虚しく、アヤカによる蛇とネズミのさばき方、食べられる虫と危ない虫の講座が始まってしまった。