声を失くした薄幸乙女は、一途な元軍人に愛される~不幸を招くと恐れられて家から追い出されましたが、実際は幸せを運ぶお手伝いをしていました~
この作品は、『白蛇さまの花嫁は、奪われていた名前を取り戻し幸せな道を歩む~餌付けされて売り飛ばされると思っていたら、待っていたのは蕩けるような溺愛でした~』(https://ncode.syosetu.com/n4142hr/)と同一世界観の物語です。単体でも読めるように書いたつもりですが、上記を読了済みでないとわかりにくい部分がある可能性があります。ご了承ください。
少しでもお楽しみいただければ幸いです。
「鈴花、俺は君が見せてくれる世界が好きだよ。こんな美しい景色を見ることができるなんて、俺は幸せ者だな。鈴花の世界を、これからもずっと俺に見せてくれ」
部屋に飾られた写真を見ながら、實がいつものように熱弁を振るっていた。
まるで求婚のような言葉に、鈴花は苦笑する。使用人に伝えるには、甘過ぎる言葉だという自覚を少しは持っていただきたいところだ。
「君は、自分の素晴らしさに本当に無頓着なんだから。まったく、こんなに可愛い君を置いて、仕事に行かなくちゃならないのがもどかしいよ」
(また冗談ばかりおっしゃって。早く出発なさらないと、帝都に着くのが遅くなってしまいますよ)
元軍人で現実業家の實は、とても忙しい。全国各地を飛び回り、今日もなにやら帝都に用事があるようだ。自宅兼店舗になっている写真館は、ほとんど娯楽で営んでいるようなものになっていた。
「鈴花、留守を頼んだよ。お客は来ないはずだから、安心してくれ」
(はい、いってらっしゃいませ)
彼女の写真を好いてくれる。それだけでも稀有な人柄だというのに、實は声を失くした鈴花を特別扱いすることなく普通に接してくれた。そんな素晴らしい主人のことを誇りに想いながら、旅の無事を祈り送り出す。
(お側でお仕えできて、私は本当に幸せ者だわ)
彼を見送りながら、鈴花は胸の痛みに気がつかない振りをした。
***
鈴花はもともと、帝都に屋敷を構える華族の令嬢だった。何不自由ない生活を送っていたはずが、自動車事故で両親が亡くなるとあっさりと屋敷から追い出されてしまった。表向きは、声が出なくなったために田舎で静養するという形だったが、親戚に疎まれていたことは誰もが知る事実だった。
預けられた母方の親戚宅で邪険にされることはなかったが、腫れ物に扱われるような雰囲気が鈴花にはとても辛かった。だから、軍人上がりの若手実業家が住み込みの女中を探していると小耳にはさむと一も二もなく手をあげたのだ。
紹介された職場は、避暑地として有名な風光明媚な場所にあった。そんなところに屋敷を構えているなんて、相当に羽振りが良いに違いない。居丈高な人物ではないか心配していたけれど、店の主人と名乗ったのはまだ年若い青年で鈴花はさらにびっくりしてしまった。
(こんな見目麗しく、事業も成功しているかたが、私のようなみすぼらしい娘を女中にするなんて。きっと変に誤解される恐れのない女だからこそ、雇ってもらえたのね)
それでも自分のことを一切知らない相手と暮らしていくことはとてもありがたかった。奉公先が写真館だったのは、予想外だったのだけれど。なんと、女中としての仕事の他に、昼間は店の手伝いもしてほしいのだという。
実は鈴花と写真には、不思議な関係があった。鈴花が写真を撮ると、そこに存在しないはずのものが写ってしまうのだ。裕福だった鈴花の家には、珍しく家庭用の写真機があった。父が異国で手に入れた愛用品。それは曰く付きの骨董品などではなかったのに、彼女が写真を撮る度に奇妙な写真は生まれ続けた。
鈴花の両親は不思議な写真を気に入っており、親しい相手に限って鈴花の写真を譲ることさえあった。けれどたいていの場合、写真を気味悪がるひとばかりで、物心ついた時には鈴花は写真を撮るのが苦手になってしまっていた。
両親の死後、身の回りの品とともに、高価なはずの写真機を持たされて屋敷を追い出されたのも、写真機もろとも厄介払いされたということなのだろう。
だから自分を雇うのは縁起が悪いのではと鈴花は雇い主である實に尋ねてみたのだけれど、實ときたらあっけらかんと笑うばかりだった。その上、その写真とやらをぜひ見せてほしいとねだってくる始末。
写真に写っているのは、降り注ぐ七色の光。天に昇る薄衣のような羽、雲をぬうようにきらめく鱗。それらを指でなぞりながら、實は子どものように目を輝かせた。そして鈴花の写真を、宝物のように部屋に飾ってくれたのだった。
軍人一家に生まれた変わり者。實のことを悪く言うひとは多いけれど、彼のおおらかさに救われて、鈴花は日々穏やかに暮らしていた。
***
ちりりん。
店の中に涼やかな硝子の鳴る音がした。この写真館は大通りから外れた場所にあるせいか、常に閑古鳥が鳴いているのだ。店主が不在時のお客さまというのも珍しい。
(實さまの代わりをしっかり務めなくては)
小走りで迎えに出た鈴花に微笑みかけたのは、なんとも美しい一組の夫婦。先日、この写真館で写真を撮った貴重なお客さまだ。
「写真の受け取り日は明日だと承知していたのですが、どうしても我慢できず。出来上がった写真をいただくことは可能でしょうか?」
鈴花は小さくうなずいた。現像された写真の置き場所は把握している。それに實は寛容な男だ、使用人の鈴花が多少独断で行動したくらいで、いちいち目くじらを立てることはない。
――鈴花、留守を頼んだよ――
あたたかいひだまりのような實の笑顔と声音を思い出し、急に鼓動が早くなった。頬の熱には目をつぶり、目の前の仕事に集中する。
少しばかり時間をもらい、急いで用意した写真を差し出すと、中身をあらためた客人はどこか不満げな顔をした。
「失礼ですが、この中には先日あなたが撮影してくださった写真がないようなのですが」
想定外の要求に、鈴花は目を丸くして必死で首を横に振った。
確かに店主の指示で、先日こちらの客人のことは撮影していた。けれどそれは、鈴花の写真機の調整のため。
どんな機械も使わずに放置すれば傷んでしまう。亡き父の形見でありながら、なかなか写真機を使いたがらない鈴花のために實が写真を撮るように指示したのだ。それに鈴花の写真の腕前は、ずぶの素人。自身の秘密を抜きにしても、お客さまに差し上げてよい代物とは到底思えなかった。
「撮影しておきながら、被写体には見せられないと?」
あからさまに眉を寄せた客人に問われ、鈴花は肩を震わせる。その美貌ゆえだろうか、いすくめられたように体が動かない。
(どうしよう……。でも、あれは見せてよいものでは……)
「もう、そんな風に睨まなくても」
「とはいえ、彼が『素敵な写真を撮ることができる女の子がいる』のだと僕たちを誘ったのですから。見せていただいても良いではありませんか?」
「それでも、こんな年端のいかない子を困らせてはいけません」
おろおろする鈴花をみかねたのか隣の奥方がたしなめるものの、男に引く気はないようだった。
(實さんがいたら、うまくとりなしてくれたのかしら)
どうすべきか困り果て、うつむいていた鈴花は、客人の足元に小さな人影を見つけた。いつの間に店に入り込んだものやら、幼い兄妹がひょっこりと顔を出している。
――父さまは、わがままだから――
――父さまは、がんこ者だから――
この麗人を父と呼んでいるからには、彼らは夫妻の子どもたちなのだろう。確かによくできた揃いの人形のように容姿が整っている。乳母の目を盗んで、両親のお出かけ先までついてきてしまったのかもしれない。
――お姉さん、ごめんね。大丈夫だよ――
――お姉さん、父さまに写真を渡して――
どうやら一度決めたことは絶対に曲げない父の性分を、子どもたちはよく理解しているらしい。自分よりうんと幼い子どもたちに励まされて、鈴花は苦笑した。
客人は、鈴花の撮った写真を受けとるまで梃子でも動かないつもりなのだ。堂々巡りをしていてもらちが明かない。
何より、店主である實自身が客人を店に誘ったのならば。鈴花は覚悟を決めて、見せるつもりのなかった写真を渡すことにしたのだった。
***
みな、一言も口を利かずに写真を食い入るように見つめている。痛いほどの沈黙に耐えかねて、左胸に仕込んでいた守り袋を服の上から強く握りしめた。
(やっぱり、ご気分を悪くさせてしまうわよね)
写真にはいつも通り、不思議なものが映り込んでいた。それだけでなく、今回に限ってはもう何もかもすべてがおかしいのだ。
――揃いの洋装を誂えた記念に――
先日、客人夫婦が写真館を訪れたとき、麗しいご主人は確かにそう口にした。実際、流行りの洋装を着こなす彼の隣で、はにかんだようにスカートの裾を気にするご夫人は大層可愛らしかった。
ところが写真の中では、なぜかご夫人のみが和装となってしまっている。ただの和装ではない、まるで女学生のような装いなのだ。
しかも背後には、巨大な白蛇の胴。その上ふたりは写真館ではなく、どこかの山奥だか水底にでもいるようではないか。
幻想的な仕上がりと言えば聞こえはいいが、服装も場所もすべてがめちゃくちゃ。事情を知らぬひとから見れば不可解極まりない。
――こんな気味の悪い写真ばかり撮って。お前がそんな風だから、ふたりは事故に巻き込まれて亡くなったのではなくって? ああ、嫌だ。辛気臭い疫病神め――
父方の親戚たちに当て擦られたときの言葉が蘇り、鈴花は唇を噛み締める。そこで、夫人が口を開いた。
「まあ、なんとも素敵ね。総天然色の写真だなんて。いつの間にこんなことができるようになったのかしら」
感慨深げに写真を見つめる姿に、鈴花ははっとした。
(ああ、そうだったわ)
通常、写真といえば、夫人が指摘したように白黒で仕上がるものなのだ。現実に見える通りの姿を残したいなら、出来上がった写真の上から着色するよりほかにない。
それなのに鈴花が形見の写真機を用いると、時折驚くほど鮮やかな色合いの写真ができあがる。鈴花にとっては既に慣れっこの、技術的にはあり得ないはずの写し絵。
実業家として活動している實いわく、この技術を確立させれば世界が変わるのだという。
せめて商売に結びつけばと鈴花も協力したが、現象が発生する理由はようとして知れなかった。もちろん、そんなことでがっかりするような實ではなかったのだが。
(奥さまは、怒ってはいらっしゃらない?)
ひとまず客人夫婦に頭ごなしに怒鳴られることだけは避けられたようで、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、客人夫婦は鈴花のことなど目もくれず、ふたりの世界に浸っている。
「ここ、見てください。ちゃんと白蛇さまとして写っていて嬉しいですね。とっても可愛らしい」
「この姿を見て可愛いと言ってくれるのは、あなたくらいですよ。それにあなたこそ、出会ったばかりの頃の姿が本当に愛らしい」
「まあ、恥ずかしいです」
白蛇は神さまの遣いと言われているが、苦手とするひとだってたくさんいるはず。それなのに妙に嬉しそうに話し込む客人夫婦の姿が意外で、鈴花は首を傾げた。
(白蛇、お好きなのかしら。おふたりのお住まいの土地神さまだったりするのかもしれないわね)
鈴花の暮らす大和の国では、神はとても身近な存在だ。帝都はもとより、それぞれの土地は守り神によって治められている。この客人夫婦の地元もそうなのであれば、この写真は縁起物になりうるのかもしれないと合点がいった。
「素敵な写真をどうもありがとうございます。良いものを撮っていただきました。これは、確かに礼をせねば」
先程までの冷たい表情はどこへやら、男はほくほく顔なのだから現金なものである。
――父さま、うれしそうね――
――出会ったばかりの母さまの写真だもの。ごきげんにもなるさ――
――父さまったら、母さまのことが大好きなんだから――
ころころと鈴の音が鳴るように子どもたちは笑う。
――好きだから怒るんだよ――
――好きだから悲しむんだよ――
――好きだから笑うんだよ――
――好きだから喜ぶんだよ――
歌うように踊るように。子どもたちは父親の脇を振り抜け駆けていき、あっという間に見えなくなった。ちりりんと硝子の音がする。扉の向こう側で、忠実な乳母が幼い主たちの戻りを待っていたのかもしれない。
ところが客人は、まさかの言葉を口にした。
「心配性のご主人が、もう帰宅されたようですね。本当に人間であるのが不思議なくらい、耳の早いかただ」
それを聞いて、鈴花はまさかと目を見張った。主人は今日出かけたばかり。一度仕事に出れば、数日は音沙汰なしが普通なのに。ところが、その言葉通り、實がひどく慌てた様子で客人と鈴花の間に割り込んできた。息の上がり具合から見るに、ここまで走ってきてくれたらしい。
「今日、店に、来る、なんて、聞いて、ない!」
「息切れしていますよ。落ち着いてから、話してください。さあ、水でも飲んで」
「一体、誰のせいだと!」
「この時間で戻ってくるとは流石の危機管理能力です。やはり、人間は辞めたのですか?」
「勝手に人間を辞めさせるな」
客人相手とは思えない店主の叫びに、男は肩をすくめる。
「最初に声をかけてきたのは君のほうでしょう。代価として何を払っても良いから、彼女の声を取り戻してやってほしいと」
「それは、そうだが」
「彼女のために不利な条件を飲んで軍を辞め、あくせく各地で情報収集。さらにわざわざ現世と幽世のはざまに写真館を用意する。そのくせ一つ屋根の下、いまだ手を出すこともなく。大和の男が、何をぐずぐずしているのやら」
(實さま、軍をお辞めになったときに何やら条件をつけられたの? それに私の声のことで、お客さまをお呼び立てしたというのは?)
客人が少しばかり強引な振る舞いをしてきたのも、こちらが乞うた側なのだとしたら当然のことなのかもしれない。
目を丸くする鈴花の横で、實が真剣な顔で客人に抗議している。
「そこから先は自分で言うから、もう口を閉じておいてくれ!」
「まったく仕方のないひとたちです」
不意に客人と目があった。なぜだか縦に長い瞳孔の形に、一瞬頭が混乱する。
(なんて不思議な。異国の方かと思ったけれど、まるで神さまみたい)
見たこともない土地神は、こんな麗しい姿をしているのかもしれない。子どものようなことを考える鈴花に向かって、男が手をかざした。
「先ほど確認しましたが、声を取り戻すのは、實くんの仕事です。古今東西、呪いを解くのは愛するものだと相場が決まっておりますから。ですが、少しだけ人間にも見えやすくしておきましょう。素敵な写真をいただいた、そのお礼ですよ」
「きゃっ!」
「それにしてもこの娘の父方の親戚は、相当に性根の卑しいものが多いようですね。代替わりしてしまったかつての土地神からとはいえ、祝福を受けた子どもに呪いをかけ、屋敷から追い出すとは。まったく嘆かわしい」
喉元をひんやりとした何かがが這っていったような気がした。温度のない、けれど生き物にも似た不思議な感覚。
「解けた呪いは、本人に戻ります。それもまた因果応報。後のことは心配しなくて良いでしょう。それでは、また」
満足げな夫妻が足早に店を出ていく。お見送りをするべく鈴花は慌てて追いかけたが、客人夫婦の姿は既にどこにもなかった。
***
「鈴花」
店に戻ると、實が突然鈴花の両手を握りしめてきた。
(何を?)
「ごめん。あのひとたちがいきなり来たから驚いただろう。それに君の事情も勝手に話したから、不愉快な気持ちになったかもしれない。本当にすまない」
鈴花は首を振った。實のひととなりは、女中として住み込んでいたここしばらくの間で、十分に理解しているつもりだ。實がそうすべきだと判断したのなら、鈴花だってそれでいいのだと思えた。むしろ、気になったのはそこではなく。
(「代価として何を払っても良いから、彼女の声を取り戻してやってほしい」だなんて、そんな約束をほいほいしてはいけません! 命をとられるかもしれません。一生飼い殺しにされるかもしれません。どうしてそんな無謀な申し出をしたのですか! しかも、既に軍とけったいな約束を交わしているような口ぶりだったではありませんか!)
必死に訴えかければ、どうしてだか實にはちゃんと伝わるのだ。聞こえない鈴花の声を、實は余すことなく受け止めてくれる。
「大事なひとの声を取り戻したいと願うのは当然のことだろう。それに蛇の道は蛇。普通に生きていても、あのひとたちと知り合うことは難しかったさ」
(そんなことを言われては……)
「そもそも俺は、鈴花には女中ではなく嫁として来て欲しいと打診をしていたんだけれどね。鈴花自身が受け入れなければ認められないと君の母方の親族に口酸っぱく言われて、とりあえず雇い主と使用人という形で妥協していたんだよ」
(實さまは私を嫁にとおっしゃってくださっていて、母方の親戚は私の気持ちが一番だと保留してくださっていて、声が出なくなったのは父方の親戚の呪い?)
――大切なひとの呪いを解くのは、古今東西、愛するものと相場が決まっています――
(もう、急にそんな!)
客人の言葉を思い出し、鈴花の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「君さえ嫌じゃなければ、俺のことを信じてほしい」
まっすぐな眼差しに、鈴花は小さくうなずいた。そのまま首筋を撫でられて、肩を震わせる。怖くはないが、實に触れられた部分が酷く熱い。
唐突に、今まで感じたことのない重みを首から肩に感じた。實に体を支えられ倒れずに済んだものの、体が自由に動かせない。
(苦しい……。首を締めつけられているみたい)
慌てて手鏡を取り出せば、薄汚い鎖のようなものが喉元に巻きついていた。絶対に開けてはならないものを封じ込めるかのように、何重にも巻きつけられている。
「大丈夫。必ず解いてみせるから、じっとしていて」
長期戦になると思ったのだろう。鈴花のことをソファーに座らせ、實もまたその隣に腰掛けた。鈴花に不安はなかった。ただ。
(實さま、近過ぎます!)
どれほどの時間が経ったのか。やがてじゃらりと床に落ちた鎖は、真っ黒な蛇に姿を変えると、壁をすり抜けてどこかへ消えてしまった。
「……解けた呪いは、呪いをかけた本人の元に戻るようにしておいたと言っていたな」
呪いが蛇の姿をしていたのは、先ほどの客人の手助けによるものなのだそうだ。あのおぞましいものが手元に戻ってきたらどうなるのか。恐ろしすぎる未来が脳裏をよぎり、鈴花はぎゅっと目をつぶった。
(父方の親戚……叔父さまや叔母さまにそこまで疎まれていたというの)
物憂げな表情に思うところがあったのだろう。實が力説する。
「真実を知ることはとても辛いと思う。でもそんな不誠実なひとたちのために、鈴花が苦しい思いをすることが俺は悔しい。あのひとも言っていただろう。何が起きても、因果応報。鈴花がこれ以上思い悩む必要はないんだ」
「……實、さま」
「ああ、良かった……」
ようやっと取り戻した自分の声。静かに肩を震わせる實の姿に、鈴花も涙が止まらなかった。
「鈴花、大丈夫だよ。何かあったら俺が守る。俺が一緒に背負う。だから、怖がらないで」
「そ、それは……」
「夫婦として、一生隣にいさせてほしい」
突然の求婚に、鈴花が頬を染めた。實のことは正直、好ましく思っている。不吉だと思われていた鈴花の写真を喜ぶひとがいるのだと教えてくれたのも實だ。
差し出された手をとってもいいのだろうか。ためらう鈴花の頭を、實がそっと撫でる。
「さっき、お客さんが話しかけていたことがあっただろう」
「はい。實さまが必死に止めていたものですね」
「今さらなんだけれど、聞いてもらってもいいかな」
頭をかきながら、實が言葉を紡ぐ。
「この写真館の名前なんだけれど、疑問に思ったことはない?」
「私はそれほど多くの写真館を存じ上げているわけではありませんが、写真館と言えば店主のお名前が写真館の名になるのだと思っていました。だから最初は、實さまの苗字はてっきり君影さまとおっしゃるのかと」
「普通はそう思うよね」
「でもとても良い名だと思いますよ。『愛しい君の面影を写し絵にする』、それは写真としてのあり方そのものでしょうから」
鈴花が褒めると、實が苦笑した。
「そんな大層なものじゃなくてね」
「それはどういう?」
「気持ち悪いと思われそうだから言うつもりはなかったんだけれど。この写真館は君のために用意したものだったから。君の名前にちなんだものをつけるのは当然だと思ったんだよ」
「私の名前?」
「すずらんの別名は、君影草と言う」
目を丸くする鈴花のことを、實は愛おしそうに見つめる。
「すずらんは、一般的に鈴の蘭と書く。だからいちいち主張しなければ、気づかれずに済むと思っていたのに。あのひとは、本当に目敏いんだから」
おずおずと鈴花が尋ねた。
「どうして私なんかのために?」
「君に写真を嫌いになってほしくなかったからだよ」
「そのためだけに?」
「鈴花は覚えていないかな。その昔、俺は君に写真を撮ってもらったことがあるんだよ。どす黒い争いの絶えない旧家に生まれた俺に、鈴花は美しい世界がこの世に存在することを教えてくれた」
ふるふると鈴花は首を振る。自分が誰かを幸せにしていただなんて、にわかには信じられない。
「私には守ってもらう価値なんて。そもそも自分の両親に恨まれるような、親不孝者なのに」
「どうしてそういうことを言うの。鈴花のご両親だって、君を置いて先に行くことを悔やんでいたに違いないんだ。それなのに、鈴花がそんな風に考えていると思ったら、もっと悲しむと思うよ」
事故死して以来、時折写真に現れるふたりは、自分のことを恨めしそうに見ているような気がしていた。怒ったような父の顔。泣き出しそうな母の顔。けれど、もしもそうではなかったのだとしたら。本当にあの子どもたちが言っていたように、ただ自分のことを心配しているだけなのだとしたら。
鈴花は、恐る恐る胸元に入れておいたお守り袋を開けてみる。中身は、折り畳まれた古い写真だ。
写真の中の両親は、あの頃のままの懐かしい笑顔で自分を抱きしめてくれていた。
「なんだか、家族写真みたいだわ」
「みたいじゃなくて、家族写真なんだよ。ご両親はずっと鈴花のことを見守っていたんだから。お義父さん、お義母さん、鈴花さんのことを、必ず幸せにいたします」
写真に一礼し、鈴花のほうに向き直り彼女の後ろ側に向かって再び頭を下げる。
「お父さまもお母さまも嬉しそう」
「そりゃあそうさ。本来、親というものは、何より子どもの幸せを望む生き物なのだから」
「まあ、實さまも今日おみえになったお子さまたちと同じようなことをおっしゃるのね」
「は?」
「可愛らしいお嬢さまとお坊っちゃまでしたね。幼いときからあれほどお美しいのだから、年頃になったときには、街でも評判のおふたりになりそうです」
「鈴花、君は何を言っているんだい?」
「ああ、實さまは、ちょうど入れ違いになったのでしたか。實さまがお戻りになる直前まで、おふたりのお子さんがいらっしゃっていて」
「……あのご夫婦に、お子さんはいらっしゃらないよ。まだおふたりは、新婚なのだから」
實の言葉に、鈴花は目を瞬かせた。子どもたちが店の中を走り回っても、誰も気にも留めなかった。子どものすることだと容認しているのかと思っていたが、自分以外のひとびとには、ただのつむじ風としてしか認識されなかったというのだろうか。そんなことができるのは、幽霊かあるいは。
「もしかしたら、あの子どもたちは、おふたりの元に来る予定のご子息たちだったということなのでしょうか。そんな不思議なことが起こるなんて……」
「不思議な写真を鈴花が撮ってしまうのと同じように、この世にはひとの理では説明できないことがたびたび起こる。そうして、日常の中に不意に現れる神さまの気まぐれな祝福に、俺たちは救われているのかもしれないね」
實が心得たように片目をつぶって笑ってみせた。
「次におふたりが来店されるときには、良い知らせを聞くことができるかもしれないな。ああでも、先にお子さまたちに会ったと伝えたらあのひとは本気で悔しがるだろうね。神さまも万能ではないのだから、やはりこの世は面白い」
「え、神さま?」
「おや、気がついていなかったのかい。彼らは、白蛇さまとその奥方さまさ」
鈴花はこのとき初めて、先ほどの客人がとある場所の土地神であることを知り、腰を抜かしてしまったのだった。
***
大和の国。帝都にほど近い場所にある有名な避暑地には、不思議な写真館がある。平時はごくごく一般的な写真館。だが運が良ければ、他では手に入れられないような特別な写真が手に入るというのだ。
店の主は、あたたかいひだまりのような若旦那。その助手を務めるのは、春風のように優しげな奥方。神の御姿を写し取ったと言われる特別な写真には、人生を変えるほどの幸福や祝福が込められているそうだ。
時折、はっと目を引くような麗人まで写真館を訪れると聞くが、実際に写真館に辿り着いたというひとは滅多に現れない。宣伝もなく、伝手か偶然でなければ行くことのできないその写真館の名は、君影写真館という。
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