お針子メイドの小さな恋のお話
またまたお久しぶりです!
久々に短編らしい短編書きました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ついてない日というのは、本当についていないものだ。
ベルダは、ベッドに横になったまま一人ため息をついた。
その日は朝から何だか調子が悪かった。
いつもはしないようなミスをして侍女長様に叱られたし、自分でも納得のいく仕事ぶりではなかった。
だからいつものように絡んできたあの男にいつも以上にキツくあたってしまった。
「よお、ベルダ。侍女長様に叱られたんだって。またあのお転婆娘のせいか」
ベルダとほぼ同時期に公爵家に勤め始めた騎士服姿の男が示すのは、少し離れたところで危なっかしくお茶を運ぶ栗色の髪の少女だ。
ベルダが指導を任されているその新人メイドは貴族出身の侍女候補だというのにとんでもないお転婆だ。
いつも何かしらしでかして、侍女長様に叱られている。当然ベルダも連座だ。ここ最近のお屋敷の日常風景と言ってもいい。
でも――。
「うるさいわね。そんなんじゃないわ」
「おやおや、お姫様はご機嫌斜めか?」
騎士らしい短髪にキリリとした眉。黙っていれば整った顔の騎士は片眉をあげて、ニヤリと笑った。
揶揄うようなその口調に、それに突っかかってしまう自分にベルダは頭が痛くなってきた。でも今日のミスについてこの男に突っ込まれるのは居た堪れなかった。誰だって好きな男には自分を良く見せたいだろう。
「――だから! そういうのじゃないわ! 私がつまらないミスしたのよ! どう? ザマアミロでしょ!」
よく見せたいなんて思っているくせに、自分の思い通りには振る舞えないものだ。思わず怒鳴りつけた相手は、しかし、予想に反して深刻そうな顔で眉を顰めた。
「お前が? ……珍しいな。何かあったのか?」
そう言って顔を覗き込んでくる。ベルダは思いもよらなかった反応に慌てた。
「べ、別に。今日はちょっと調子が悪いだけよ!」
「調子? どこか体調でも――」
「ベルダさん!」
飛んできた声に、ベルダに向かって伸ばされていた手がさっと引かれた。
声の主は例の新人だ。ベルダに向かって駆けてくる。
「コートニー、走っては駄目よ」
ベルダにそう言われた彼女は、すいませーんと朗らかに笑った。基本、コートニーはいつも楽しそうで、失敗しても侍女長様に怒られてもめげない。良いところでもあり困ったところでもある。
「ベルダさん、お嬢様のお茶の支度ですが、ピアノのレッスンが少し伸びそうです。担当のエッバさんから少し遅らせてくれるように言われました」
「そう……」
そう言われて、今日の予定を頭の中で考える。今日の午後は、ピアノのレッスンの後お茶をして、その後、ええっと――。
考え込んだベルダをコートニーが覗き込む。ヘイデンも立ち去ることなくベルダを見つめている。
「ベルダさん、大丈夫ですか?」
「お前、やっぱり具合が悪いんじゃないか?」
「あ! ヘイデン! またベルダさんに付き纏って! 何かしたんじゃないでしょうね」
「付き纏い言うな! だいたい俺もお前の先輩だぞ! 何でベルダと扱いが違うんだよ」
「日頃の行いでしょ!」
なんだか頭が本当にガンガンと痛い。わいわいと言い合う二人の声がだんだん遠くなっていく。そうだ。お嬢様の予定を確認しなくては。……でも頭が重くて考えがまとまらない。
そう思っていたらふっと目の前が暗くなった。
「きゃー! ベルダさん!」
最後に聞いたのは、コートニーの叫び声。そして目に入ったのは、驚いたようなヘイデンの顔。体が傾いていくのを感じたけれど、倒れた衝撃を感じることなくベルダは意識を手放した。
目を開けると見慣れた天井が目に入った。
何だか頭がくらくらする。
部屋の中がもう暗くなっていた。
どのくらい寝ていたのだろう。
……やってしまった。
こんなに体調管理ができないなんて。
みんなにも迷惑をかけてしまった。
目の前が暗くなる直前に目に入った、驚いたように目を見開くヘイデンの顔を思い出す。
驚いただろうな。
まあ、驚くわよね。
一人静かに自己嫌悪に陥っていると、控えめなノックの音が聞こえた。はい、と答えるとそっとドアが開く。
「あ、ベルダさん。起きてたんですね!」
コートニーが、彼女にしては静かに部屋に入ってきた。ベルダはめまいが起きない程度に身を起こして枕に背中を預けた。
コートニーは皿やコップが乗った大きめの盆を抱えていた。
「すごい熱だったんですよ。お嬢様も心配されてましたよ。侍女長様にベルダさんのお世話をするよう言いつかったので、なんでも言ってくださいね」
果物なら食べられそうですか? と聞きながらコートニーが差し出した桃をそっと受け取る。ところどころいびつだが食べやすいように小さく切られていた。コートニーが切ってくれたのだろう。喉が渇いていたのもあって、果汁が口の中に広がるのが心地よい。
「みんなに迷惑をかけてしまったわね。――お嬢様にまで」
「いいんですよ。こういう時はお互い様です。侍女長様も別に怒ってなんかいませんでしたよ。桃だって手配してくださいましたし。お嬢様は天使ですから、もちろん心配しかしていません!」
侍女長様は仕事には厳しいが理不尽な方ではない。ベルダが抜けたことでいろいろ調整もしてくださったのだろう。おそらくコートニーも予定された仕事から外してベルダの世話につけてくれている。回復したらお礼を言わなくては。
お嬢様も、「お嬢様命!」のコートニーの贔屓目を差し引いてもお優しい方だ。本当にご心配してくださっているのだろう。
「あ! そうだ。これ薬です。熱冷ましの効果もあるそうなので、食べ終わったら飲んでください。水はここに置いておきますね。何かあったら遠慮なく壁を叩いてください!」
コートニーは自分の部屋に隣り合った壁を一旦バンっと叩いてみせた。
「ふふ。ありがとう」
ベルダは薬を受け取った。熱冷ましの良い薬だ。騎士団で余った時だけ回ってくる。誰かが取っておいたのを分けてくれたのだろうか。ちょうど桃も食べ終わったので薬の包みを開いて口に入れた。
「――ヘイデンもすごく心配していましたよ」
薬を飲むベルダを見つめながら、コートニーがらしくなく神妙な声で言うので、せっかくもらった貴重な薬を吐き出してしまいそうになった。水を口に含んで何とか飲み下す。
「そ、そう。びっくりさせちゃったわよね。今度会ったら謝っておくわ」
「謝るより、お礼を言ったほうがいいですよ。ベルダさんが倒れた時に咄嗟に支えてくれてこの部屋まで運んでくれたんです。ヘイデンの方が青い顔でしたよ」
「な……っ。」
なんですって。ヘイデンがこの部屋に入った?
どうしよう。何かおかしなものは置いてなかっただろうか。
――いや。
ヘイデンがベルダの部屋にそんなに興味があるはずはない。ヘイデンの中では、ベルダのことは同期の騎士と同じような気の置けない仲間だと言う認識だ。
それは倒れたりなんかしたら心配するだろうが、部屋の中なんかに興味はないだろう。
周りの侍女やメイドには紳士的な対応なのに、ベルダにだけいつも雑なのは何なのだろうと思っていたこともあった。ある日同期の騎士と戯れるヘイデンを見かけた時に、ああこれかと納得したのは何年も前だ。
それはそうだ。
ベルダの態度だって、気持ちを悟られないよう随分とひどいものだ。素直になりたい気持ちもあるけれど、そんなことをして、気まずくなったり今までのように話せなくなるのは嫌だった。
大人しくなってしまったベルダを、眠くなったのだと思ったらしいコートニーは、「それじゃあ、本当に叩いてくださいね。壁!」と言って部屋を出て行った。
その姿にまた笑みが溢れる。
具合の悪い時に色々考えてもだめだ。
まずは早く良くならなくては。ベルダは再び横になって瞼を閉じた。薬に眠れる効果もあったのか、すぐに眠りは訪れた。
目が覚めるともう朝だった。
昨日の薬がよく効いたのか、まだ少しだるさはあるものの熱っぽさはない。
身を起こして、身支度を整えているとその音を聞きつけたのか、ノックの音がしてコートニーが顔を出した。
「ベルダさん、調子はどうですか? 侍女長様から、ベルダさんはちょっと良くなるとすぐに動こうとするからこれ持っていくようにって言われたんです」
そう言ってコートニーが差し出したのは大量の衣類だった。
「今日は一日安静。体調が良くなって持て余すようだったら繕い物をするように、とのことです!」
全く似ていない声色で侍女長様の口調を真似るコートニーと侍女長様の心遣いに自然と笑みがこぼれた。
「良かった。昨日より元気そうですね。ベルダさんの腕前を繕い物に使うのはもったいない気もしますけど、侍女長様さすがです。あ、これ、朝食です。無理はしないでくださいね!」
「ええ。ありがとう」
それじゃあ! と言ってコートニーは元気に去っていく。
一人になって、食べやすいものを揃えてくれた朝食を食べたら、だるさもましになってきた。
こうなってくるとただ休んでいるのは申し訳ない。侍女長様はそんなベルダの性格まで見抜いているのだなと感心した。
繕い物を一つ一つ点検していく。ベルダの故郷は雪深い地域で、冬になると皆、家にこもって縫物をする。シャツでもズボンでもドレスでも何でも縫うし、刺繍もする。王都に出てきて、それがかなり重宝される技術であるということを初めて知った。ベルダはその田舎に小さな所領をもつ男爵家の娘だ。自領で倹しく暮らしてきたが、生活は豊かとは言い難かった。今では、ベルダに自領の裁縫技術が重宝されていると聞いた父と兄が、王都に布製品を卸し始めている。
そんなベルダなので、山のようにあった繕い物もあっという間に縫い終わってしまった。
だいたい、使用人とは言え公爵家に連なる人々がそんなに大きく破れた服を着るわけがないので、そもそも縫うところが少ないのだ。
ベルダは少し考えて、繕い終わった衣類を自ら持っていくことにした。おそらく侍女長様は、今日は部屋でおとなしくしていなさいとおっしゃるだろうが、それなら、もしできれば、お嬢様のお出かけ着の刺繍を終わらせてしまいたい。部屋に持ち込んでもよいか、ついでに聞いてみよう。
そう思いながら、使用人の宿舎から本館に向かう。
思ったよりも体は回復していて、本館まで難なく歩けたことにほっとする。
誰もいないリネン室に繕った衣類を置いた時だった。
メイド仲間の声が聞こえた。
「コートニー、昨日の夜、二人っきりでヘイデンと会ってたって? ベルダさんが寝込んでいる隙にあんたもやるわね」
え?
ベルダは思わず息を殺した。
どうやらリネン室のドアの前で話しているようだった。
「そんなんじゃないですよ。用事があって呼ばれただけです」
「用事って何よ。もう暗くなるような時間に呼ばないといけないような用事なんてある?」
「それは……」
「ほら。いいんじゃないの? あんたたちが想いあっているなら私は応援するわよ」
「だから違いますって――!」
声が急に大きくなったと思ったら、リネン室のドアが開いた。ベルダが立ち尽くしているのを見たコートニーたちが目を丸くしている。
「ベルダさん!」
ベルダはそっと、繕い物を置いた作業台から離れた。
「あ、あの! ベルダさん、私違うんです」
コートニーが焦ったように言う。いいのに。ヘイデンと会うのにベルダの許可が必要だとでも思っているのだろうか。
……そんなに自分の気持ちは、周りにバレバレだったのだろうか。
そう考えるとベルダはいたたまれない気持ちになった。
「繕い物、置いておくわ。明日からは、きちんと働くから。侍女長様に伝えてもらえる?」
そう早口で言うと二人の間をさっと通り抜けた。今は誰とも顔を合わせたくなかった。
体調を崩していて良かったのかもしれない。布団をかぶって耳も塞いで、ベルダはこの日の午後、公爵邸に勤め始めて初めて、何もかもを投げ出して、ただただ眠った。
そうは言っても朝は来る。
翌日、憂鬱な気持ちでベルダは起き出した。
コートニーが訪ねてくるかと思ったけれど来なかったことに少しホッとして、身支度を整える。普段は朝食は本館の使用人用のダイニングで食べる。今日は体調も回復しているし、そうすればいい。コートニーは早番でもう出ているのかもしれないなと思った。
しかし、その期待は宿舎を出てすぐに裏切られた。
「ベルダさん」
コートニーが立っていた。泣きそうな顔で。
――ヘイデンと共に。
「ベルダさん、説明させてください。そして、聞いても怒らないでほしいです」
コートニーは、緊張していた。珍しいこともあるものだ。そんなに言いづらいことなのだろうか。
――いいのに。
ベルダは、はしたなくも舌打ちしたくなった。
コートニーがどう思っているのかはわからないが、ヘイデンとベルダの間には何もない。年も近く、気の置けない使用人仲間というだけ。そして密かにベルダが片思いしているだけ。
だからヘイデンがコートニーに心を預けても、二人が想い合っていても、ベルダには何も言うことはできないのだ。
だって、自分の気持ちを素直に伝えたことなんてないのだから、そんな資格なんてないのだ。
俯きそうな顔をあげて、ベルダはいろいろな思いを飲み込んで笑顔を作った。
「コートニー、いいのよ。私に気を使う必要なんてないの――」
「違うんです!」
しかし、コートニーは鋭くベルダの言葉を遮った。
「私がヘイデンと会っていたのは、ベルダさんに飲ませるための薬を受け取っていただけなんです!」
そうなのか。だけどそれだけならなぜメイド仲間に追求された時にそれを言わなかったのだろう。なぜ、あんなに歯切れが悪かったのか――。
思わず不審そうな顔をしたベルダに何を思ったのか、コートニーは続けた。ほぼ泣き声になっている。
「私もいけないことだってわかっていたんです。勝手に薬を持ち出すなんて! でもヘイデンはベルダさんのためを思って! だから、内密にしてください。そして、私ヘイデンのことなんて何とも思っていないので!」
「ん?」
「え?」
コートニーの叫ぶような声の余韻が消えたあともヘイデンとベルダは、しばらく言葉が返せなかった。
我に帰ったのはヘイデンが先だった。
「――お前! 俺が薬を違法に横流ししたと思っているのか!」
どうやら、コートニーの歯切れの悪さは、ヘイデンの違法行為の片棒を担いだと勘違いしているからだったようだ。
「違うの?」
キョトンとした顔で聞いているコートニーにベルダが説明する。怒りに震えるヘイデンではうまく説明できそうもないからだ。
「コートニー。騎士たちは、見回りや救護も仕事だから、自分の裁量で使える薬をある程度支給されているのよ。誰に渡してもいいの。巡回の時に町の人に渡す事もあるのよ」
「え! えー!!」
今までで一番大きな声が宿舎の前庭に響き渡った。周りを取り囲む木々から鳥がバタバタと飛び立つ。夜勤の同僚を起こしてしまうのではないかとベルダは冷や汗をかいたが、コートニーは止まらない。
「私、てっきり愛するベルダさんのためなら、団の規律に違反してもやむなし! と覚悟を決めているのかと。私、こんなことの片棒を担いで、絶対に内緒にしないといけないと思って。だけど、誰かに見られていたなんてどうしようと思って――むがっ」
叫び続けるコートニーの口をヘイデンが塞いだ。もがもがといいながらコートニーがもがいているが、ヘイデンは慌てた様子でベルダに言った。
「おまっ――! 違う! これは! いや! 違うわけではなく」
「ぷはっ! 何するのよ!」
ヘイデンの拘束から逃れ、キッとヘイデンを睨みつけたコートニーだったが、ヘイデンの顔を見てすっと表情を戻した。
ヘイデンもコートニーから離れた。焦った様子はなりを顰め、落ち着いた表情で静かな声で言った。
「コートニー、ベルダと二人にしてくれないか。――頼む」
「……わかったわ。じゃあ、ベルダさん先に行ってますね」
「え? ちょっと、コートニー」
コートニーはベルダにひらひらと手を振るとくるっと背を向けて走り去った。……だから走ったらだめと言っているのに。
ベルダは呆然とコートニーの背中を眺めた。
私もコートニーみたいに走り去ったりしてもいいかしら……と言うベルダの願いは叶えられそうもなかった。
「ベルダ」
低い声でそう呼ばれて、ベルダの肩はびくりと跳ねた。恐る恐る振り返ると、真っ直ぐにこちらを見ているヘイデンがいた。
いつになく真剣な表情だ。
ベルダは胸が掴まれたような気持ちになって目を伏せた。
「体はもういいのか」
「え、ええ。あなたがわけてくれた薬で助かったわ。――お礼が遅くなってごめんなさい」
何だか声が出しづらい。体調はすっかり良いはずなのに。
「いや、礼なんていい。俺がしたくてしたんだから」
「……そう。――でも、ありがとう」
ベルダは慎重にお礼を言った。できれば、このままいつもの二人の雰囲気に戻ってほしい。いつものヘイデンに戻って欲しい。
という願いもどうやら叶えられそうになかった。
ヘイデンは、低い声で呻くと先ほどより小さな声で話しづらそうに話し出したのだ。
「ああ。……それで、その……、さっきコートニーが言っていたことだけど」
「いいの! 気にしないで! またコートニーが突っ走ったのよね。二人の間がどうだとしても、ヘイデンが心配してくれたことは疑ってないわ」
「いや! 気にしてくれ!」
居た堪れなさに耐えられなくなったベルダは、大きな声で遮ろうとしたが、さらに大きな声で言わせてもらえなかった。
ヘイデンが一歩近づいてくる。
「突然こんなことを言われて戸惑うだろうけど、コートニーが言ったことは本当なんだ」
コートニーが言ったこと。頭の中でコートニーの声が繰り返され、ベルダは自分の顔に熱が集まるのを感じた。
「お前が――、ベルダが目の前で倒れて、心臓が止まるかと思った」
ヘイデンがさらに一歩近づいてくるので、思わずベルダは一歩下がろうとして……、下がれなかった。
なんとヘイデンがベルダの手を取ったのだ。
ぎょっとして腕を引いたが、軽く掴んでいるようにしか見えない手は存外強い力で握られていて、握られた手が離れることはなかった。
混乱を極めるベルダに、相変わらずの真剣な表情でヘイデンは続ける。
「俺はずっと前からベルダが好きだ。ずっと一緒にいたいと思っている」
だから――と言って、ヘイデンが跪くに至って、ベルダはもう一度倒れそうになった。
「俺と結婚してくれないか」
「……」
「ベルダ?――ベルダ!」
ずるずると座り込んだベルダを、慌てた様子でヘイデンが支える。
「どうした? まだ具合が悪いのか? なら、すぐ部屋に――」
「……た」
「え?」
「腰が抜けた」
「は?」
間の抜けたヘイデンの顔がおかしくて、ベルダはふっと笑ってしまった。それを見て、安心したのか、ベルダを支えながら、ヘイデンも地面に腰を下ろした。
「何だよ。びっくりするじゃないか」
まったく。というヘイデンは、いつものヘイデンだった。そうだ。私が好きなのは、ちょっと意地悪で口の悪いヘイデンなのだ。
「……いいわよ」
気が付いたら、ベルダはそう告げていた。
「え?」
「結婚するわ――あなたと」
私も、あなたがずっと好きだったわ。
そう告げると、ヘイデンが今日一番の間抜けな顔をする。
ベルダは、いたずらが成功した子どものような顔で笑った。
「……そうか。――そうか!」
ヘイデンは、腰が抜けたままのベルダを抱え上げるとくるくると回りだした。
「ちょ、ちょっと危ないわ!」
「そうか! そうか!」
くるくると回り続ける二人に、元気な声が飛んできた。
コートニーが丁寧に布に包まれた荷物を持って現れたのだ。
「あ! ベルダさん! 今日はもう一日休んでお嬢様のドレスを仕上げるようにとのことです。あとヘイデンは、ドレスが無事仕上がるまでドレスの護衛ですって! 騎士団長様には許可をとってあるそうよ!」
コートニーの言葉に二人は顔を見合わせた。侍女長様には敵いそうもない。
その日、ベルダが仕上げた刺繍は、温かい色合いの花々が一面に散らされた見事なものだった。
二人は、半年後、刺繍と同じ花々に囲まれて、敷地内の教会で小さな結婚式を挙げた。
もちろんドレスはベルダのお手製で、ヘイデンの正装もベルダが誂えたものだった。
お嬢様も、ベルダの刺繍の入ったお出かけ着で顔を出してくださり、ベルダの花嫁姿に滂沱の涙を流しているコートニーにハンカチをくださったそうだ。
コートニーが宝物にしたそのハンカチには、お嬢様のハンカチと同じ柄の刺繍が入っていた
明るい春の花がモチーフのそれは、もちろん、ベルダの刺したものだった。