第一部 8
暮れも押し迫ってきた。世間ではクリスマスだの何だのと騒いでいるが、弘人はその日仕事だった。楓に何もしてやれなかった事をすまなく思ったが、楓は楓で弘人に何もできなくて残念そうだった。
そんなクリスマスも終わって、だいぶ冷え込むようになった朝。窓には霜も降りている。弘人は朝の光に照らされてモゾモゾとダブルベッドの中、一人で寝返りをうつ。
「弘人、弘人。起きてください、もう八時半ですよ?お休みだからってぐうたらしてたら、あっと言う間にお休みが終わっちゃいますよ?」
そういって弘人を揺さぶるのはもちろん楓。微睡み続ける弘人を再び揺さぶる。
「弘人ってばぁ。起きてくださいよぅ。」
「んあ?あれ、楓。いつ起きたんだ?」
「もうっ、寝ぼけてないで朝ご飯、食べましょう。」
トーストの焼ける香り、煎れたてのコーヒーの香り。ゆっくりと起きあがった弘人の目には四畳半のテーブルの上に並んだ朝食があった。横を見ると腰に手をあてて弘人を見下ろす楓の姿。クリーム色のセーターにエプロンを着けた格好でいる。
「おはよう、楓。」
「おはようございます、弘人。」
そしておはようのキス。ごく普通の、新婚夫婦のような生活がそこにあった。
弘人は並んだ朝食を見てベッドから急いで抜け出した。せっかく楓の作ってくれた朝食だ。冷めないうちに食べたかった。
楓は短時間なら難なくその物に触れ、運んだりできるようになった。そして、ほんの少しの間ならば弘人に触れられるようにもなった。
弘人も何とか少しだけ自分から楓に触れる事ができるようになった。だからおはようのキスもできるのだ。ここ最近の練習(とは一体?)が効果を発揮しつつあるようだ。
そして、毎朝の食事を作ることが楓の日課になった。とはいっても、包丁で固い物を切るような事はまだできないので、簡単な料理だけだが。
それでも、目を見張るような大進歩である。幽霊が料理をするのはあまり想像できないが、現に楓が作っている。それが弘人には何とも嬉しい事だった。
ただし、これにもいささかの問題があった事は確かなのだが。
それは楓が幽霊だから直面する問題。『味見ができない』という事だった。だから最初に楓が挑戦した料理、『味噌汁』は惨憺たるものだった。いや、生前に何度か作った事はあるのだろうが、その記憶も曖昧で、弘人は一口啜った途端に吹き出した。味噌が濃くてしょっぱい事この上なかったのだ。
しかし、弘人はその味噌汁を全部平らげた。楓が自分のために初めて作ってくれた料理だったのだから。その時の楓の嬉しそうな表情を弘人は忘れる事ができないだろう。
だがその晩は喉が渇いて喉が渇いて寝付けなかった。何度もベッドから起き出しては楓を起こさないようにそっと水を飲みに行った。塩分の過剰摂取で死んでしまうかと思ったものだ。
「ねえ弘人、今日ホットケーキを焼いてみたいの。やってもいいですか?・・・・あふ。」
弘人が食事するのを見ていた楓がそういって欠伸をする。どうやら物に連続して触れるのは楓にとっては随分と疲れるらしく、料理をした後は決まって眠そうだ。
「ホットケーキねぇ。別に構わないけれど、ホットケーキミックスなんて家にはないぞ?買ってくるなら・・・・。」
弘人がそう言って楓に視線を移すと、楓はテーブルに頬杖をついて居眠りをしていた。それを見て苦笑する。
弘人は楓を抱き上げると、そっとベッドへ寝かせてやる。そして朝食を食べ終え、食器を片付ける。新しいコーヒーをカップに注ぎ、新聞を見る。年末番組の記事やら今日の番組の予定を見て、大して興味を惹くものがないのを確認して、それでも取りあえずテレビを付ける。
楓を起こさないように音量を小さく絞る。弘人はしばらくの間テレビを見ながら新聞をめくっていた。
しばらく経った時、玄関のドアが小さく叩かれた。控えめな叩き方からしてお隣の源抄だろう。毎日のように楓の様子を見にやって来る。
「ああ、弘人さんおはようございます。」
「おはようございます、源抄さん。」
ドアを開けると予想通り源抄が立っていた。合掌して弘人にお辞儀をする源抄。弘人はそんな源抄を招き入れると、お茶を用意しに台所に立つ。
「ああいや、お構いなく。おや、楓さんはまたお休み中ですね。」
四畳半に座った源抄が楓を見て微笑む。源抄が最初にこの二人を見た時には、まさかこのような生活になるとは思いもしなかった。絶対数週間、一月そこそこのうちに疲れ切ってしまうだろうと、正直たかをくくっていたのだ。
それが近くに来てみればどうだ。時を重ねる毎に二人の中は深まっていく。最近はまるで夫婦のように仲睦まじく暮らしているではないか。
源抄はこのような事は例がないと、興味津々で二人を見守っている。
「聞いてくださいよ源抄さん。楓のヤツ、ホットケーキを焼いてみたいとか言い出したんですよ。」
セリフに反して嬉しそうな声色の弘人。
「ホットケーキですか?」
「ええ。朝食を作るだけであれだけ疲れてしまうっていうのに。それで、ちょっと心配なんですよ。楓が疲れるっていうのは力を消耗するって事ですよね?」
「そうですね。」
「あまり無理すると楓の身に何か起きるんじゃないかと心配なんですけど、どうでしょうか。源抄さんはどう感じますか?」
「ふむ・・・・。」
一度楓を見た源抄は弘人の顔をまじまじと見る。
「な、何か?」
「うん、それは大丈夫でしょう。楓さんは弘人さんから十分な活力を得ています。楓さんも弘人さんに活力を与えています。疲れてしまうのは『馴れ』の問題でしょう。」
「そうですか。」
源抄の答えを聞いた弘人はホッと胸を撫で下ろす。
「ああそれで源抄さん。楓が起きたらホットケーキミックスを買いに行くんですけど、何か買ってくる物とかあれば言って下さい。」
「そうですか?それでは・・・・いえ、拙僧も一緒に行ってよろしいでしょうか?」
一緒に行くと言い出す源抄に弘人は目を丸くした。しかし別に困る事もないのでOKをする。
弘人と源抄がしばらく共にお茶を啜り、他愛もない話をしていると、楓がベッドから起き出してきた。
「あれ?あ、源抄さんいらっしゃい!」
「やあ楓さん。おじゃましていますよ。」
勢いよく源抄の隣りに走ってきて座る楓。
「弘人ごめんなさい、疲れて寝ちゃって。」
「いいよ。いつもの事だろ。疲れはとれた?」
「はい、バッチリです!」
そう言って楓は弘人にガッツポーズをしてみせる。それを見て源抄の口元が緩む。
「起きたんならスーパーにでも行こうか。ホットケーキを焼くんだろ?ホットケーキミックスを買ってこないと。」
「あ、はい。じゃあ行きましょう。」
「源抄さんも行きましょう。楓、源抄さんも一緒に行くってさ。」
「ほんとう?!わあ、嬉しいです!」
「拙僧も少なくなってしまった生活用品の買い出しをせねばいけません故、ちょうど良いのです。それに・・・・。」
「それに?」
嬉しそうに源抄と話す楓。まるで人懐こい子犬のようだ。
「ああ、いえ。そういえば拙僧、財布を持ってくるのを忘れていました。弘人さん楓さん、少々お待ち戴いてよろしいですか?」
「構いませんよ~?」
弘人も自分の財布をズボンのポケットにねじ込み、車の鍵を探している。
「弘人、どうしたんです?」
楓がそう聞きながら、壁に掛かっていたジャンパーをとって弘人に渡す。
「いや、車の鍵・・・・。あ、あった!ジャンパーのポケットに入ってた。」
ジャラリという音と共に出てくる鍵束。部屋の鍵と車の鍵と・・・・、何やらたくさんの鍵が付いている。
「ほう、随分とたくさんの鍵が付いていますね。」
「ああ、これですか。車の鍵、部屋の鍵。店の鍵と店内の棚の鍵。倉庫の鍵と・・・・。」
弘人が鍵を鳴らしながら答える。
「弘人は鍵っ子です。」
「おい・・・・。」
意味が違うと突っ込む。
源抄は笑いながら財布を取りに戻り、弘人と楓は車のエンジンをかけて待つ。
「なあ、楓。」
「はい、何ですか弘人?」
「さっき源抄さんに心配はないって言われたんだけどさ、お前料理した後・・・・いや、物に触った時とかに苦しかったりすることはないのか?」
「いえ、別に?何でですか?」
「ああ、大丈夫なら何でもないんだ。ほら、楓がキツイ思いをしながらやってるんじゃ可哀相だと思ってさ。」
「へへへ~、心配してくれるんですね。嬉しいです。」
そう言って後部座席にいる楓は弘人の横まで行って頬にキスをする。
「わっ、楓!」
「照れない照れない、です。」
「そうじゃなくって、源抄さん見てるって!」
「え?あ、きゃあ!」
二人がイチャついているところを、源抄が車の外から呆れ顔で見ていた。
「あの、やはり拙僧遠慮いたしたほうが・・・・。」
「わぁっ!源抄さん気にしないで!コイツのいつもの『自爆』ですから!!」
「『自爆』・・・・。」
「ああっ?!弘人ひどいですぅ~(泣)。」
普段他の人間には見られる事がないからと、内心安心しきっていた弘人と楓であるが、こうやって源抄に見られてしまうと、どうにも気まずいものだ。しかも相手は僧侶。弘人も楓もちょっとした罪の意識が芽生える。
何とか源抄を車に乗せて、近くのスーパーマーケットへと向かう。
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
途中、誰も言葉を発しない。
気まずい。三人の誰もがそう思っていたのだ。特に気まずい思いをしていたのは源抄であろう。二人の生活に割って入っているような気分がして、咳払いの一つもできなくなってしまっていた。
有能な法尉であっても、この手の話題は苦手であった。
弘人も楓もそれは同じであった。弘人はどうしたものかと思案に暮れたが、考えていてもどうしようもない事は明らかだった。どんな事でもいい。意を決して源抄に話しかけようとした。
しかし・・・・。
「ぬ、あれは?」
先に声を発したのは源抄であった。ほぼ同時に楓も少し先の信号を指差す。
「あそこの信号機に、誰か座ってます。」
信号機?座ってる?
弘人は楓の指差した信号機を見た。確かに、対向車線側の車両用信号機の上に誰かが座っている。まったく、危ない事だ。
「なにやってんだアイツ・・・・。あれ?女の子?」
弘人が見たのは信号機の上に座って楽しげに流れる車を見ている少女の姿だった。何故か短い丈の黒い着物を着て、同じく黒いタイツ。どこぞのお正月番組にでも出てきそうな服装である。
その少女の座る信号機が近付くと、都合良く信号が赤に変わる。弘人達の車は先頭で停止線の位置に停まった。
「何やってるんでしょう、あの娘。」
楓の言葉を聞くでもなく、三人ともその少女に視線が集中する。しかし、見ていたのは少女の方だった。
三人が少女を見た時には、すでに少女はこちらを見てニコニコと笑っていた。
「まさか、源抄さん。」
「うむ、現世の者ではありませんね。かといって未成仏の浮遊霊というわけでもないようですが・・・・。」
源抄がそう口にした途端、少女は立ち上がると、ふわりとこちら側の車線の信号機に飛び移ってきた。祐に6メートル程もある場所へ軽やかにだ。
そして、次の瞬間には再びふわりと弘人の車の目の前に降りてきていた。
「お?!」
「こちらに気付いていましたか。」
源抄が懐から鈷杵を取り出す。
側に来てみれば、年の頃は10歳ほどの可憐な少女だった。長い黒髪をポニーテールのようにまとめている。細面でちょっとつり目の少女は弘人達を見てクスリと笑うと、身を翻して消えてしまった。
「な、何だったんだ?」
「何でしょう、あの娘。」
「不思議な雰囲気の少女でしたね。」
呆気にとられている三人。しかしボウッとする暇もなく、後ろの車のクラクションで我に返る。信号はいつの間にか青に変わっていた。
急いで車を発進させる弘人。目的のスーパーマーケットはもうすぐそこだ。慌てずにゆっくりと車を運転する。内心はドキドキものだったが。
『またおかしなことが起こるんじゃないだろうな。』そう思った弘人の胸騒ぎは的中する。源抄も楓もまた、同じ事を考えていた。
ホットケーキミックスを買ってきた。
その他に洗剤やらゴミ袋やら。源抄の買い物も同じようなものだった。店の中では源抄の紫色の法衣と小手やら脛当てやらが随分と人目を惹いていた。
源抄はまったく動じずに買い物をしていたが、弘人は周りの視線が気になってしょうがなかった。源抄の服装は珍しい。小手や脛当てが法に触れる事は全くないので問題はないが、まるで僧兵のような出で立ちの源抄は注目の的になっていた。
別に悪びれる必要もない。そうは思っていても、やはりちょっと気恥ずかしかった。
これで楓が他の人にも普通に見えるのであれば何の問題もなくなるのだろうが、傍目から見れば男二人、ごそごそと(つまりは楓の相手をしながら。)買い物をしているように見えるのだ。しかも一人は僧侶。おかしな構図に見える事は確かである。
家に戻ってきて、やれやれというのが弘人の正直な感想であった。
しかし、先程の少女は何だったのかという疑問はまだ三人の間で交わされている。
「拙僧はあの少女から不穏な気配は感じられませんでしたが、楓さんはどうですか?」
「いえ。私、幽霊ですけどよく解りませんでした。」
役に立たないヤツ。そう思いながら弘人は買い物袋から買ってきた物を出して四畳半のテーブルに並べていた。
「ほら楓、ホットケーキミックス。」
「あ、はい。」
弘人の放り投げた袋を上手くキャッチする楓。
「どれ、できるかどうか見てやるか。」
「拙僧も拝見。」
「やんっ。そんな、緊張しちゃいますよぉ。」
顔を赤らめる楓。料理をする所を見られるのが恥ずかしいのか、作った後の味を期待されるのが恥ずかしいのか。幽霊とはいえさすがは女の子である。恥じらう姿が可愛い。
弘人と源抄が談笑するなか、楓は一生懸命になって泡立て器と格闘している。
弘人はそんな楓も可愛いなと思ってニヤけてしまう。
楓にこれで大丈夫かと言われて確認をする。箱の後ろの作り方と間違ってはいないので大丈夫だろう。
そしていざ焼こうかという段になったとき、突然玄関のドアが叩かれた。
楓が慌てて生地の入ったボウルを置く。
誰かが入ってきた時にボウルと泡立て器がひとりでに浮いていたらビックリされるだろうからである。
「はい?」
弘人が玄関に向かって応える。
「大滝弘人と篠崎楓の住まいはここか?」
扉の向こうから聞こえてきたのは子供の声。しかも何故か楓の名前が出た。
「な、なに?!」
弘人が慌てる。源抄は鈷杵を取りだして構えた。楓の存在が解っているという事は、霊能関係の者である事は確かである。
弘人は一瞬躊躇したが、源抄に促されてそっとドアを開けた。
「ん?誰もいない?」
「失礼な、ここにおろう?」
「え?おわっ?!」
下の方から聞こえてきた声に視線を下げると、そこにいたのは先程の少女。
勝ち気そうな笑顔で弘人を見上げている。
「うむ、なれが大滝弘人であるな。篠崎楓はここにおろう?会わせよ。」
驚く弘人をよそに少女は言い放つ。
「キミは誰だ?何で楓を?」
「我は永槻祭如女乎耶。なれのところにおる篠崎楓にちと用があっての。おるのであろう?」
「永槻祭如女?!これは、なんと・・・・。」
源抄が相手の名を聞いて驚いている。
『なれ』とは確か古語でお前とか君などという意味だ。随分と古くさい喋り方をする子供だと弘人は思った。しかし、それよりこの少女が何故楓を知っているのかが解らない。
どうして良いかと源抄を振り返る。源抄は緊張した面持ちであったがゆっくりと頷く。鈷杵はもう下げていた。とりあえず危険は無いという事であろう。
弘人はゆっくりとドアを開け放ち、永槻祭如女乎耶と名乗る少女を招き入れた。
「おお~♪おったのう。なれが楓か。おお、なんと先程の法尉もおるではないか。」
弘人と源抄の予想に反して乎耶の嬉しそうな声。どうやらいきなり楓に危害を加えるような事はないらしい。乎耶は玄関で履いていた下駄を脱いでさっさと楓の元へ行ってしまう。下駄を脱ぐと更に乎耶は小さかった。見ると下駄は10cmほどの高下駄であった。
「あら、あなたはさっき信号で・・・・。」
「おうおう、ようやく話が出来るのう。随分と苦労したことよ。・・・・これ、大滝弘人。」
「え?」
今度は呆気にとられている弘人に向き直る乎耶。
「客人が来たのだ。茶ぐらい振る舞ってたもれ。楓、なれもまったく無粋な男の元に身を寄せたものよのう。」
「は、はい?」
困惑する三人をよそに、乎耶は四畳半へと進んで勝手に座り込んだ。
仕方なく、弘人は茶を煎れて乎耶に出す。
「不味い茶だの。濁っておるし。」
「なっ、なにを?!」
来た途端に失礼な事を連発しているのはどっちかと弘人は頭に来たが、子供相手にムキになるなと源抄と楓に止められた。
「それで?楓に用って何なんだ?」
取りあえず、テーブルを挟んで向かいに座る弘人。
「うむ、用というのはだな・・・・。これ、楓もここへ。」
言いかけて、乎耶が楓を呼ぶ。
「あ、でも私、ホットケーキを焼かないと・・・・。」
「は?!」
楓の言葉に弘人が振り向くと、何故か楓はすでにホットケーキの生地をフライパンに流し込んでいた。
ジュウッという音と共に甘い香りが部屋の中に立ち込める。
こんな時に料理を再開してどうする。
「おお?!なんぞ拵えておるのか?良い香りだのう~。」
それを見た乎耶は言うが早いか、立ち上がって楓の焼くホットケーキの元へと飛んでいく。
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
弘人と源抄は乎耶の行動を見て呆気にとられるだけ。
呑気な楓だけが乎耶の相手をしている。
「弘人、弘人!」
しばらくして楓が慌てて弘人を呼ぶ。何事かと弘人が楓の元に行ってみると、真剣な眼差しでフライパンを見つめる楓の姿があった。
「どうした?」
「弘人、これをこれから・・・・ひ、ひ、ひっくり返します。見ててください!」
弘人はその言葉に脱力する。
「い、いきますよ~。せ~のっ!」
勢いをつけて楓がフライパンを振る。しかし、ホットケーキはぴくりとも動かなかった。
「あれ~、おかしいなぁ。ほいっ、ほいっ!」
何度かフライパンを振るが、一向にホットケーキは動かなかった。
「なあ楓、お前一度ホットケーキをフライパンから剥がしたか?くっついてたらひっくり返らないぞ?」
「あ、そうでした!てひひ~。」
軽く戯けて、楓はホットケーキをフライ返しで剥がす。そして改めて身構えた。
「よしっ、では!・・・・ん~・・・・ほいっ!」
鮮やかな手捌き・・・・には見えたが、残念ながらホットケーキは少し捲れ損なってしまっていた。弘人と源抄がそれを見て苦笑する。
「あ、あははは・・・・。残念、残念。」
楓はそう照れ笑いをしながらフライ返しで形を整える。しかも、ホットケーキは少し焦げてしまっていた。
「あらら・・・・。」
「楓、なれは不得手だのう。」
楓の横にくっついていた乎耶がそんなツッコミをいれる。
しかし弘人は別の疑問にぶつかっていた。何故、乎耶はこんなにもあっさりと楓に触れられる?そういえば、スーパーマーケットへ行く途中で出逢った時にはクルリと身を翻して消えた。どう考えても普通の人間でない事は確かだ。
そう考えてから、弘人は玄関を見た。乎耶の脱いだ高下駄はちゃんとそこにある。という事は、乎耶は霊体ではなく実体と言う事になるのだろうか。
それ以前に弘人の出した茶を不味いとかいいながらちゃんと飲んでいたではないか。
「なあ、ええと・・・・何てったっけ?」
「永槻祭如女乎耶じゃ。乎耶でよい。」
楓のホットケーキが気になるのか、弘人の方に振り向きもせずに応える乎耶。
「そうか、それじゃぁ乎耶。お前が何をしに来たかって事の前に一つ教えてくれ。お前は一体、どういった存在なんだ?」
弘人の質問に今まで黙って様子を見ていた源抄も頷く。
源抄は永槻祭如女という存在は知っている様子であったが。
「先程の身のこなし、貴方の喋り方。どう見ても普通の人間ではない。かといって霊体でもない。貴方は一体何者なんです?拙僧の知るところの永槻祭如女であるならば・・・・。」
源抄の質問に、今まで楓のホットケーキに興味津々だった乎耶がゆっくりと振り向く。何故か弘人と源抄は乎耶からただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
「ほう・・・・察しがいいのう。我は永槻祭如女。この世に迷うた哀れな魂を『黄泉』へと誘うのが務めじゃ。」
乎耶の面妖な口調にその場にいる全員がピクリと反応する。楓は持っていたフライパンを見つめたまま硬直する。
しばらくの沈黙。
「え?えと・・・・あの・・・・私、乎耶ちゃんの言ってることがよく解らないんだけど・・・・。黄泉って・・・・え・・・・?」
楓の焦った声が最初に響いた。
「つまり、貴方は楓さんを『黄泉の国』へと連れて行くために来た・・・・という事ですね?」
「うむ、だから今そう言うたであろう?」
「ってことは乎耶・・・・お前『死神』・・・・?」
誰もが乎耶から一歩後退る。楓の手から落ちたフライパンとフライ返しが、甲高い音を立てて転がった。
「失礼な事を申す男じゃのう。我は死に神ではない。この世に迷うておる魂を正しい道へと案内することが我の務めじゃと、先程言うたであろうにっ。」
弘人に向き直り、腰に手をあてて何が解らないのかと苛ついた表情をする乎耶。
「死神とは人の魂を抜き取る者。我ら永槻祭如は死んでから彷徨うておる魂を救う者。こう言えば、阿呆極まりないなれにも解るであろうや?」
溜め息混じりの乎耶。弘人は何となく解ったような解らないような。そして楓は今にも泣きそうな顔で弘人のところへと飛んでくる。
「ひ、弘人、弘人ぉ~・・・・。」
弘人は楓をしっかりと抱きしめた。
「い、いきなり来て楓を連れて行くなんて、そんな事許さないぞ。」
弘人は震えを堪えようと必死になっていた。楓を守りたい。だがこういった場合、抵抗が叶うかどうかは望み薄だと心のどこかで感じていた。
「ふむ。なれと楓がどのような関係であるかはよう見させてもらった。何とも仲睦まじき事、見ておるこちらの方が恥じらうようであった。・・・・それよりも・・・・。」
乎耶は自分の足元に転がってきていたフライパンを拾い上げる。
「楓、ほれ、なれの拵えておる、ほった・・・・なんぞという物がまだ出来ておらんぞ?」
拾い上げたフライパンの中にまだ焼きかけのホットケーキが引っ付いているのを見て、乎耶がにこやかに楓に差し出す。
「ホットケーキです・・・・。」
「ほっとけーきか。良い香りじゃのう♪我にも食させよ。」
「は、はい?!・・・・はぁ・・・・。」
弘人と源抄が面食らっている中で、楓はおずおずと乎耶からフライパンを受け取る。乎耶は再び楓がホットケーキ作りを再会するのをみて満足そうに頷くと、再び四畳半へと戻って茶を啜り始めた。
「ん?これ、大滝弘人。」
「な、何だよ?」
「うむ、茶が冷えてしもうておる。煎れ替えてたもれ。話はそのほっとけーきとやらを食しながらで良いではないか。」
あまりの展開に何も言えず、弘人は渋々と茶を煎れ替えて出す。法尉として辣腕を振るう源抄ですら、躊躇いながら様子を見るしかなかったのである。
冬の日溜まりの中で、弘人と楓の生活を揺るがす出来事が起きつつあった。