第一部 4
あれから数週間が経った。
弘人も楓も、そろそろお互いその存在に慣れてきていた。どう接していいのか、どう振る舞っていいのかを。
弘人は相変わらず仕事では楓を務めて無視する事で、楓は極力仕事中の弘人に干渉しないようにする事で、昼間はどうにかやっていた。だが、お互いに日を重ねる毎に強くなっていく感情があった。
それは『昼間も一緒に何かやりたい』という事だった。
第三者から見れば馬鹿な事だと思う。しかし、離れる事ができない二人には、仕事中のこの時間が堪らなくもどかしく感じるようになっていたのだ。
そして弘人はある日、店内に誰もいないのを見計らって楓にある提案をする。
「なあ、明日は俺休みだろ?だからさ、思い切ってどこか出掛けないか?」
「へ?だっ、だって?!」
周りには聞こえないが、楓が弘人の提案に驚いて大声を出す。
ここ数週間の間、弘人は休みの日はなるべく自宅から出ないように心掛けていた。それは楓を引っ張って街に出るわけにもいかず、仕方なく自宅で退屈に過ごす日々となっていた。そろそろ、弘人がその限界に達しようとしていたのだ。
「で、だ。人のあるところじゃ何かと不便も多い。そこで明日は二人で釣りにでも出掛けてみないか?ちょっと山に入ればほとんど人の来ない、いい釣り場があるんだよ。山女がいい感じに釣れるところだけれど、行かないか?」
「ルアー釣りですね?あ、それっていいかも。うんうん、じゃあ明日は二人で釣りに行こう!行きましょう!!」
楓も一日二人だけで遊べると解って大いにはしゃぐ。そして「明日は何を使おうかな?」などと言って店内のルアーコーナーへと飛んで行ってしまった。
一緒に行くだけで、楓は実際に釣りなどできもしないのに。
どうやらこの店は楓が弘人から離れて動ける限界の広さのようで、近頃は弘人の仕事中は一人で勝手に店内で遊んでいる。
最近、楓が弘人から離れられるのが半径二十メートルくらいだと判明した。この店もちょうどそれくらいの広さなので、楓も慣れてしまえば以外と楽しく過ごしている様子だった。
ただ、やはり困ってしまうのは他の店員達に飲みに誘われた時。こればかりはいつまでも断っているわけにはいかず、とうとう一昨日、繁華街に飲みに行ってしまった。
くっついて来るしかなく、繁華街の居酒屋などに用のない楓にとって、弘人が飲んでいる間は退屈この上なかったのだ。
さすがに弘人もそのまま色町に行けるわけもなく、悔しい思いで帰宅する事になったのだ。もちろん、原因はこの時に楓の冷えた視線を浴びたからに他ならない。
「お金で女の人とイチャイチャする人ってサイテー。」
楓のその一言で、実は昨日の夜喧嘩した。散々口喧嘩をした後、消えて姿を現さなくなった楓に対して弘人が仕方なく折れた。今後飲みに行っても、よほどの事がない限りはその手の店には行かないという約束で。
楓の方も自分の立場と弘人の事を考えて仲直りした。
そして楓が仲直りの時にいった一言。
「今の私には弘人しかいないんです。確かに私は幽霊だけど、だからって他の女の人と弘人が仲良くしているのはイヤ!それが例えお金を出してイチャイチャするようなところでも絶対にイヤです!」
涙ながらに楓の言ったこの言葉は、弘人にある決意をさせてしまった。
それは楓を一人の女性として扱うという事。幽霊であっても、取り憑かれていても、もし楓が無意識のうちに弘人の生活を乱す祟りを持っていたとしても、弘人は楓という存在がある限りは楓を尊重して生活する。
そして楓も弘人の決意を聞いてある約束をした。弘人が自分の事を考えてくれるなら、楓も弘人の事を尊重して側にいる、と。
世間ではこういった関係を一般には『恋人』と呼ぶのだろうが、弘人と楓の場合は何とも言い難い。憑依している側、されている側。『離れられない関係』というならばいっそのこと『夫婦』と言った方がいいかも知れないのだが、状況を考える限りはそうとも言えないような気がする。
そしてもう一つ、これもどうかと思うのだが、一度楓の両親のところへ行って、今の状況を説明しようというものだった。これは楓が言い出した事。
最初、弘人は反対した。そんな突拍子もない事が楓の両親に理解されるのかと。
第一、楓は弘人以外には見えないのだ。今まで楓に気付かなかった彼女の両親にも見えるはずはないように思えた。
それでも、楓は十年ぶりに自分の実家に帰ってみたいという。弘人も楓の気持ちが解らないではないので、とりあえずダメ元で楓の実家へ行ってみる事にした。
実際、弘人には楓が家に帰ったら、そのまま楓はそっちに残る様になるのではないかという不安があった。だが、何故そんな事を不安に思う気持ちが生まれるかを、弘人は懸命に否定しようとしている。しかし、それは昨日からどんどんと肯定する気持ちへと変わってきているのだ。
楓の方はどうなのだろうと、考える日々が続いているが、それを聞くのが怖くて未だに聞けないでいる。何という事か、幽霊である楓に対して『恋心』を抱いている自分がそこにいるのだ。こんな事、楓でなくても他の人に言えるはずがなかった。
そんな事もあって、最悪の場合楓が自分から離れる事になってもケジメが付けられるようにと、明日遊びに行く事を提案したのだ。
楓は弘人がそんな事を考えているなんてわかっているのだろうか?さすがに幽霊でも他人の心までは盗み聞きできないのだろうか?
どうもその辺がすっきりしなくて、弘人はジリジリとしている。
「ねえねえ弘人、明日これ使いましょう!」
しばらくの間、そんな事を考えながら接客や他の店員と棚の整理などをしていると、誰もいなくなったのを確認して楓が小さなルアーを一つ持って走ってきた。
ここ最近で楓の方も色々と頑張ったのだろう。ちゃんと物に触れて、それを移動させる事を身につけていた。
「なっ、ばか!」
弘人は慌てて楓の手からそのルアーをむしり取った。
「防犯カメラがあるからその辺の物に触るなって言っておいたじゃないか!」
店には何カ所か防犯用のカメラが設置されている。当初楓が防犯カメラに写るのではないかと心配になって確認をしたが、これといって楓が映る事はなかった。
だから安心した弘人は楓を自由に店内で遊ばせていたのだ。
だが今回は状況が違う。店の商品を楓が持ってきた。それは防犯カメラには商品だけがふらふらと浮遊して移動しているところが映るという事である。しかも慌てた弘人はそれを咄嗟に掴み取ってしまった。
これを誰かに見られたら大変な事になるだろう。
「大丈夫ですよ、防犯カメラはここを写してないから。」
弘人の焦りをよそに、楓は涼しげな顔で言ってのける。
「は?写してない?」
「うん、だってここはあのカメラも、そこのカメラも、あっちのカメラからも死角になっているんです。ちゃんと確認してるから平気ですよ?」
楓の言葉に弘人は慌ててカメラの位置を確認する。楓の言う通り、ここはどのカメラからも微妙に死角になっているようだった。
一応念のためにと、弘人はビデオデッキのある部屋へと向かう。
「あ~、私のいう事信じてないんだぁ、ひど~い。」
と言う楓の抗議はもちろん無視である。
「あ、本当だ。写ってない・・・・。」
安堵の表情を浮かべる弘人。だがしかし、楓のおかげで防犯カメラの死角を知る事ができた。これは今後店のために役立つだろう。
それというのも、ご多分に漏れず、この店も幾ばくかの万引き被害に遭っているのだ。それもこの数週間で頻発している。
そしてさっき弘人のいたところは少し高めな、稀少ブランドを置く棚でもあったのだ。レジからは見えるので、カメラの視野外になっていたのだ。
「ほらね、写ってなかったでしょ?」
後からやってきた楓が得意気な物言いをする。
「ああ、良く見つけたなぁ。ここ最近どうも売り上げと在庫の勘定が合わなくて、店長が困ってたんだ。よしっ、カメラの位置をずらしてもらうように店長に掛け合っておく。」
弘人は楓の功績を素直に認めて誉めてやった。
「えへへ~・・・・。」
昨日散々喧嘩した後とあって、楓はとても嬉しそうにしている。弘人はそれを見て苦笑いをこぼしていた。
「どう?私もちゃんと役に立つでしょ?」
帰りの車の中で楓が得意気にそう言う。
「ああ、大したモンだ。防犯カメラの死角を見つけたその日のうちに犯人が捕まるとはね。店長は俺に礼を言っていたけれど、本当は楓が礼を言われなきゃいけないよな。」
弘人が楓の発見した防犯カメラの死角をなくしたところ、あっさりと万引き犯が捕まった。それも数名のグループ。
よく店に出入りしていた連中で、一応買い物も普通にしていたので監視対象外になっていた連中だった。たまに店員を呼んで説明を聞きたがっていたが、どうやらその時に他の奴らが万引きをしていたのだ。
弘人は楓をその商品棚の前に張り付かせ、来る客来る客を監視させていた。そうしたらどうだ、弘人にしか見えない楓は例のグループが万引きするところを見て弘人に叫んだのだ。もちろん、位置をずらした防犯カメラにも、バッチリと彼等の行為は写っていた。
店長の目の前で、連中のポケットやカバンに弘人が手を突っ込むと、幾つか未会計の商品が出てきた。それもこの店だけでなく、他の釣具店の値札が貼ってある物まであった。
カメラに写りきっていない、細かな事で彼等はとぼけていても、楓が教える通りに弘人が実演してみせる事によって、観念したようだった。警察だけは勘弁してくれと調子のいい事を言う彼等を問答無用で警察に引き渡し、最近多発していた万引きは解決した。
今後彼等は顔写真を関連する同業者にも配られ、肩身の狭い思いをする事だろう。報復があるかも知れないが、日頃から山野を駆け巡っている弘人は上辺だけ勢いの良い彼等になど負ける気がしなかった。
しかも何を隠そう、弘人は高校・大学時代にやっていた空手で二段を持っているのだ。ちょっとやそっとでは喧嘩に負けはしない。
「しかしまあ、今日の事は楓がいなければ解らなかったし、証拠も楓が教えてくれなければ不十分だったから、第一の功労者は楓だな。」
「えっへへ~。」
「なあ、俺達探偵なんかやったら良いコンビだよな?なんていったってこっちには楓がいるから、証拠をつかむのも楽だもんな。名付けて『心霊探偵・弘人&楓』!」
「わ、そのネーミングはイヤです。それに・・・・。」
楓の声がどこか沈痛なのに気付いた弘人は楓の顔を見る。
「さっきの人達、一人お尻のポケットにナイフ持ってました。」
「え、そうだったの?!」
楓の言葉に弘人は慌てる。いくら空手二段だとはいっても、相手に刃物を持ち出されたらちょっと退いてしまう。
「もしかしたら弘人が刺されるかと思って、本当は怖かったです。お願いだから調子に乗って危険な事だけはしないで・・・・お願い。」
そう言って、ちょこんと弘人のシャツの袖をつかむ楓。それは本当に弘人の事を案じているものだった。
「わ、わかってるよ。冗談だって、冗談。」
そう言って弘人は楓が自分の袖をつかんでいる部分をそっとたたいた。まだあの時以来、楓は物以外には触れる事ができていない。どうやら人に触れるのは物に触れる以上に難しい事のようだ。
「ありがとうな。心配してくれて。」
弘人は自分がいま言えるだけの精一杯の言葉を言った。でもその後にいうべき言葉が恥ずかしくてなかなか出てこない。
自分には楓が必要だという気持ちを・・・・。
「はい・・・。」
しかし、弘人の上手く言えなかった言葉は楓には伝わっているようで、安らかな表情をする楓を見て弘人はホッとする。まだ楓は弘人の袖をつかんでいる。その感覚を感じて、弘人は安心して帰り道を急ぐのだった。
つづく