第一部 2
(2)
「おはようございます。」
目を醒ますと目の前に篠崎楓がいた。
ちょこんと座って弘人を嬉しそうな瞳で見ている。
「うおっ?!」
とっさにベッドから飛び起きて距離をとる。
昨夜、楓がくっついて来てしまってから一応床につき、まんじりともしない夜を過ごした・・・・つもりだった。第一寝られるわけがない・・・・と思った。
ワケの分からない地縛霊に取り憑かれて、何かされるんじゃないかと内心不安になりながらの一晩だった・・・・筈だった。
部屋の灯りは点けっぱなしにして、楓を意識しないようにと壁に向かってしばらく目をギュッと閉じていた。しかし、逆に静かにしている楓がどうにも気になって、ゆっくりと振り返ると、楓は床に横になった姿で弘人とは反対を向いていた。
つまりは楓も寝ていたのだ。
んなアホな・・・・。
その夜何度も口にした一言がまた出る。どこの世界に寝る幽霊なんているんだろうか。まったく持って聞いた事もない。
いや、実際の所はどうかは知らないが・・・・。
少し向こうが透けて見える楓。弘人はそれを見て、自分の薄手の布団をかけてやった。もちろん、例え幽霊だからといって女の子を床に寝かすような野暮な事はしたくない。
そう思って、布団だけでもと思ったのだが、予想通り楓をすり抜けて布団は床に敷かれた。
だからといって布団を奪い返してまた自分で使うのもはばかられる様な気がしたので、その晩はそのままにしておいた。この様子なら楓が弘人が眠っている間に何かしようという気はないように思えた。
だから弘人もまた、そのまま眠りに落ち、朝を迎えたのだ。
それでも朝起きて楓が目の前にいると、正直驚いて後退りしてしまう。
本当のところは、目が醒めたら『すべて夢でした』というオチが待っている事を期待していたのだが、どうやらダメだったようだ。
そして今、楓は弘人が自分を気遣って布団を掛けてくれた事にものすごく感激している様子だった。
楓の瞳が強烈にそれを物語っている。
「おはようございます!」
飛び退いた後反応のない弘人を見て、また楓が声をかける。
「あ、ああ。おはよ・・・う・・・・。」
戸惑う弘人に構わず、楓は立ち上がるとその場で伸びをした。幽霊のくせに、だ。
やはりこいつはどこかおかしな奴だと弘人は再認識した。どう考えてもこんな幽霊の話は聞いた事がない。あるとすれば、それは映画の中での話だ。実際にこんな幽霊が、もとい、幽霊自体が本当にいるとは思いもしなかったわけである。
そこまで考えてから、弘人はふと時計を見た。今は朝の七時四十分。釣具屋は十時開店で、その準備のために一時間ほど早くつけばいい。店までは車で行けば二十分くらいだから、あと一時間は朝食を採ったり洗面をしたり出来る。
「あのぅ~。」
弘人は楓が何か言いたそうなのを無視して顔を洗いに行く。トイレに入り、手を洗ってから朝食のパンを焼こうと台所に立つ。
その間楓はつまらなそうな様子でいたが、弘人はなるべくいつもの生活パターンを守って行動した。
別に楓を無視したいわけではないので、楓の言葉に適当に相槌をうつ。
すぐにできあがる焼きたてのパンとコーヒーを持って四畳半に座り、テレビをつける。
朝番組の占いが始まった。弘人は別に興味がないので取ってきた新聞に目を通す。
と、そこで楓がその番組に興味を示した。
「あ、占いだって!なになに・・・・。」
楓は楽しそうにテレビにかじりつく。それを見ると本当に普通の女の子と変わらない。
「わぁ・・・・今の朝番組って、お天気お姉さんもとってもオシャレで楽しそう。ショートアニメも可愛い♪」
「知らなかったのか?」
何気なく言葉を返したが、その後に楓の返事は返ってこない。気になって新聞から視線を楓に移す。
楓は・・・・泣いていた。
「あ、しまった・・・・。」
楓が最近の番組の事など知りようもないのだ。あまりに楓が普通にそこにいるので、弘人も思わず普通の返事の仕方をしてしまったのだ。
「ごめん・・・・。」
「いえ、弘人さんが悪いワケじゃないですから。」
そう言って楓は涙を拭いて笑った。
弘人がテーブルの上を見ると、楓の座っている側には涙の落ちた跡があった。
驚いたが、幽霊の涙の跡という話は聞いた事もある。どうやらこれは本当だったということになるだろう。
「十年・・・・。」
「え?」
不意に楓が弘人の隣りに座り直した。
そして弘人のシャツの袖をちょこんと摘む仕草をした。驚いた事に、引っ張られる感覚がある。
それを意に介さず、楓は弘人の眼をじっと覗き込んでこんな事を言った。
「十年間、誰にも気付いてもらえなかった。誰ともおしゃべりできなかった。すごく・・・・さみしかった・・・・。」
楓がまた泣き出す。
弘人はこの幽霊の少女が十年間、たった一人でいた孤独をまったく理解していなかったのだ。罪悪感が弘人を襲う。
「ごめん、余計な事言って。」
「ううん!弘人さんは知らなかったんだから悪くない。今ね、私すごく嬉しいの。私の事に気が付いてくれて、こうして一緒におしゃべりまでしてくれる人がいるなんて。だからね、今泣いているのは悲しいけど、嬉しいの。」
弘人の袖をつかんだまま、しゃくり上げる楓。その振動がどういうわけか弘人のシャツを伝わって感じられる。
その理由は今考えるべきではなかった。考えるのは楓の事の方だった。
「なあ、俺で良ければその・・・・、話し相手ぐらいにはなるよ。」
照れながら楓にそう言う。
「弘人さん・・・・!」
楓の嬉しそうな声が突然耳元に飛んできた。
袖の感覚からいって、弘人はもしかしたらこのまま楓に触れられるんじゃないかと思ったのだが、そこまで上手くいくはずもない。
「はうっ?!」
楓は弘人に抱きつこうとして、そのまま身体をすり抜けて弘人の後ろへと飛んでいった。
弘人も楓を受け止めようと身体が反射的に準備していたので、何とも言えない虚脱感が弘人を襲う。
しばらくの沈黙。
「あ、あははは・・・・私ったら、嬉しくてつい・・・・。ごめんなさい、はしたない女だと思わないで下さいね。」
照れ笑いをして起きあがる楓。弘人も同じく照れ笑いをして返す。
「あ、そろそろ店に行く準備をしないと。」
時計を見て慌てて立ち上がる弘人。財布だの車の鍵だのをズボンのポケットにねじ込む。
「そうだ、お前、ちゃんとこの部屋で待ってるんだぞ?仕事場になんてくっついて来るなよな。幽霊に取り憑かれたから一緒に連れてきましたなんて言えるワケないからな。」
まだ座ったままの楓にそう言い渡す。しかし楓は咄嗟に立ち上がると、弘人の心を落ち込ませる様な事を言ってきた。
「やっ、そんな事できません。私は弘人さんのごく周辺にしか居る事ができないんですよ?だから弘人さんがどこかへ行くなら私も一緒に行かなきゃいけないんです。」
「んなにぃ?!」
驚く弘人をよそに、「私も他に方法がないんだから仕方ありません。」と涼しげな答えを浴びせる楓。
「だ、だったら、もしかしてこれからどこへ行くにも一緒って事かぁ?!」
「たぶん、そうなります。弘人さんから一番離れていても、もう本当にすぐそこなんです。その限界が来たら私もズルズルと引きずられていきますから、たぶん無理だと思います。」
一度くっついて来て、やはり迷惑をかけないように交差点に戻ろうとした時に実証済みだと言う楓。
つまり二人はある意味、『離れられない関係』になってしまったわけだ。
とんでもない事になった。弘人は直面した状況にどうして良いか解らず、頭を抱えた。
そもそもどうして良いかなど解るわけもない。どこぞの書店にでも『幽霊との暮らし方~異性の幽霊との同居編~』なんて参考本が置いてあれば話は別だが。
「勘弁してくれよ・・・・。」
途方に暮れるのは昨日から一体何回目だろうか。しかも仕事にもう遅刻しそうな時間帯になってきている。
「ああもうっ、だったら一緒に来い。他の人には見えないんだろう?ただし、一日大人しくしてろよな!」
半ばやけくそになって玄関を飛び出す弘人を楽しそうに見ながら、楓も走って(?)ついてくる。何故か玄関を出るとちゃんと靴を履いていた。
「車に乗れよ。今鍵開けるから。」
そう言う弘人の横を通り過ぎ、助手席側にまわった楓は、鍵が開くのを待たずして車のドアを開けずに乗り込んだ。
「・・・・・・・・。」
何も言えずに車のロックを自分のためだけに開ける弘人。何だか自分が惨めに思えてしまう。
よく考えてみれば幽霊に対して「車に乗れ。」とはおかしな話だ。
とにかく考えている暇のない弘人は急いで車を出す。
「ねえ弘人さん。」
「なに?」
「私が喋ってもお店じゃ答えてくれないんですよね?」
「そりゃ、人前でお前と喋ってたら『なんだコイツ?』って思われちまう。」
「じゃあ、私がちゃんと声を出したら答えてくれます?」
「は?」
弘人は楓の言っている事が理解できずに一瞬彼女の顔を見る。『ちゃんと声を出す』とは如何なる事か。おかしな響きが部屋に反射してはいたけれど、今まで普通に喋っていただろうに。
「私は今まで弘人さんだけに直接話しかけてたんですよ。」
「そりゃ、俺しかいなかっただろうに。」
変な事を言う奴だ。そう思ってまた一瞬楓の顔を見る。楓は何だかイタズラっぽい顔でこちらを見ている。
「つまり、私は今までテレパシーみたいなもので弘人さんと会話をしていたんです。」
「?」
「だから私が他の人にも聞こえるように空気を振動させれば、私の声は他の人にもちゃんと伝わります。」
「ちょっと待て、じゃあ俺は今まで端から見るとぶつくさ独り言を言ってるおかしな奴だったって事か?!」
「ええ・・・・そうなりますね。」
楓の言葉にかつてない衝撃を味わう弘人。このままどこかに突っ込んで、楓と無理心中をしてやりたい気持ちになった。
「だからみんなにも聞こえるようにすれば・・・・。」
「や・め・ろ!」
「ええぇ~、どうしてですかぁ?」
「それこそ大騒ぎになっちまうじゃねえか。」
「そうですよね~。周りの人が変に思うから、交差点にいた時にもあまり使わなかったんです。じゃあ、やめときましょう。」
イタズラっぽく笑う楓。この少女は状況を楽しんでいるに違いなかった。
「いや、ちょっと待て。そんな事ができるなら、何でもっと早くに両親が花を献げに来た時に使わなかった?何でその辺にいる人達に直接言わなかった?」
はたと思いついた、そんな疑問を楓に投げつける。
「それは・・・・私、死んでるんですよ?死んだはずの娘の声が、娘の死んだ場所から聞こえてきたら、どう思います?何も知らない人が、交差点で死んだ人の声が聞こえるって分かったらどんな事をします?」
それに答えてやる事は、残念ながら弘人には出来なかった。きっと答えたとしても、悲しい答えしか待っていない。
それは、弘人に思いつく答えが一つしかなかったから。
「もちろん、私だってみんなに聞こえるように叫んだ事はあります。でもそうしたのは、事故から他の人を護りたいと思ったから。もう、私みたいに死んで欲しくなかったから。」
楓から聞こえる切ない響きが弘人の胸をうつ。この少女は十年間、交差点で危険を叫んでは、いくばかりかの人を救ってきたのだろう。そして救いたくても救えない人がいた事を、昨夜の会話が物語っていた。
それを考えると、楓の今までの苦しみと孤独はなかなか言い表す事ができないと弘人は思った。
それに、自分だったら耐えられるんだろうか?回りにこれだけの人がいて、誰にも気付いてもらえない世界だなんて。
そこに自分が現れて、楓と今こうやって会話をしている。それが彼女にとってどれほどの価値を持つのか、想像もできない。
弘人はその事を考えた時、楓が堪らなく可哀相で、堪らなく愛おしい気持ちになってしまっていた。一人の人間として、どうにか彼女を救う事ができないかと思っていた。
そのために自分は何ができるのだろう、と。
「とにかく、店の中では返事しないからな。」
「はい・・・・。」
楓が残念そうにしょぼくれる。
「まあ、店に誰もいなくなってたら話は別だけどな。他の店員に見つからないように喋ろうぜ。」
「・・・・・・・・はい!」
楓が驚いて一瞬沈黙した後、嬉しそうに返事をする。
「やっぱり、弘人さんはすごく優しい人なんですね。」
「ば、馬鹿言うな。」
「へへへ、私には馬鹿とかアホとかいっぱい言いますけどね。」
それは状況が状況だけに混乱していただけだと言い訳しても、たぶんこの幽霊少女には通用しないだろう。確かに何度も馬鹿だのアホだのと言い放っている。
今後は少し控えようと決めて、弘人は店への最後の信号を左折した。
つづく