強敵
ルナは驚いていた。
経験上、いろんな町や村を知っているが、これほど活気がある村も珍しい。
神風の噂か、異形のモノを全く心配しなくて良い村。
ラースニアの近くまで来たのだから、もう安心だろう。そういう言葉まであるらしい。
南に出来た、異界との道。そこに近い村であるはずなのだが、一番安心できるという不思議。
ルナは、レイモンドも居れば、村の守りは完全になるのだろうと思う。
人間世界の外れ近くにあり、妙薬という名産はあるものの、それ以外には特に珍しいものもない。
しかし、行商もこの村は安全と知ってか、足を止めて宿を取るものも多い。
人が留まるところは、賑わうもの。
王都の付近の町や村よりも、活気では優っている。
王都は逆に、行商が仲介となり、商品のやり取りの中枢。
流通の中心ではあるが、王都も名産というようなものは少ない。
村もどきの事もあり、また、ラースへ戻るにも日数がかかるため、ルナ一行はラースニアで宿をとることになった。
いちおうはジグルの家に招待はされた。しかし、食事にとジグルの家で出されたものが粗末すぎた。
大人数の行軍を相手にするような家など、この村には無いのだ。
粗末な食事を出されて口にはしたが、誰もがその後に空腹を口にする。
そんな理由で、みんなして食堂にきていた。
騎士や兵達は、王都のよりも華やかな食堂に驚いていた。
シュリアやリリ、そして、新しく入ったファリス。その他にも美形揃い。
さすが女主人が”フロア係は顔で選ぶ”を公言してるだけある。
ファリス以外にも新人も居て、また、厨房も新人が増えている。
ラースニアが賑わうほどに、食堂の従業員も増えていた。
だが、大所帯になればなるほど、混乱するものだ。しかし、この食堂では、それはありえない。
大勢の騎士や兵士が注文を頼んでも、誰の分もも聞き逃すこと無いというのも凄い。
店員に何かを頼んで、聞き逃されるというのはよくある事だ。
そういうことで騒ぎになったりする場面も、よくある光景の一つ。
しかし、聞き逃されたと思う直後にシュリアか、ファリスが客の元を訪れて、注文を再確認している。
これだけ騒がしいのに、ちゃんと聞こえているのかと、注文した方も唖然とする。
再確認に行くのも、ちゃんと聞こえていたというアピールでも有る。そうでもしないと、何度も呼ばれて面倒だからだ。その辺はシュリアからファリスが教わっていた。
1番人気のウェイトレスはやはり騎士や兵士達の注目を集めているが、武術や戦闘技能に優れたものの目は、シュリアやファリスの方へ向く。
ファリスは戦闘は得意ではない。しかし、その目と耳の良さは平衡感覚をも良くしている様だ。
バランス感覚が良いと思わせる感じで、客と客の間を上手にすり抜けていく。
ファリスに気づいて避ける人もいるが、大体がファリスが先に気づく。
シュリアに至っては、あまりに普通に移動しているのが不思議なくらいだ。
人と人が動きまわってる中を、まるで誰もいない場所を歩くようにスイスイと動く。
何よりも誰も、シュリアが通ったことに気づかない。
気配を消しているわけではなく、溶け込んでいるというのが正しいだろう。
「ここは……なにか……達人の村なのか……?」
武術も習い、作法も習い、マナーも学んでいるルナ。
足さばきや動きに関して、このウェイトレス達の中の数人には、勝てる気がしない。
しかもウェイトレス達は、食事や、片付けた皿、更にはスープや飲み物と言った液体まで運んでいる。
平衡感覚もまた、凄いと言わざるをえない。
平衡感覚を鍛えるのに、姿勢を鍛えるのに、頭に本を乗せて落とさずに歩くというのが有る。
この店のウェイトレスの数人は、それを人混みの中でもやってみせるだろう。
特にシュリアだ。注視していなければすぐに見失うが、その動きは見れば見るほど無駄がない。
「私は、少し思い上がっていたようだ」
ルナはなんとなく口にした。
「どうかされましたか?」
側近が飲み物を口にしながらに聞く。
「いや、ウェイトレスというのは着飾って食べ物を運ぶだけと思っていたのだが……」
側近は特に武術に長けてもいないのだろう。というか、見栄えに目が行っている。
「これほど体術に長けて居る者達とは思いもしなかった」
色んな所のウェイトレスに聞けば、この店が特殊すぎると言うのはすぐ解る。
シュリアは注文を受けて運ぶだけでなく、厨房で手が回らなければ料理までこなしている。
そして味は、料理人が作るよりも美味しい。しかし、それをひけらかすこともない。
ファリスが聞き漏らしをフォローするので、その分が楽になったようだ。
ほかのウェイトレスから見れば働き過ぎとも言えるが、それでも軽くこなしている。
リリにも特技があった。それは、計算である。
妙に暗算が速く、しかも、正確。そして、記憶力も良い。
大体の注文を覚えていれば、すぐに金額がでる。
客の少ない日など、その日の売上合計をサクッと口にするほどだ。
ただし、動きはシュリアに遠く及ぶものではなく、ドジっ子な立ち位置。
しかしそれも、シュリアとファリスがフォローして、問題が起きないようにしている。
アスレイ家の3人娘のおかげで、他のウェイトレスは随分と仕事が楽になっている。
軽く口にした言葉でもしっかり聞かれているものだから、ルナがお酒が弱いとかという話がちらりとでも出た後、出てくる飲み物は、アルコールではなく、ジュース系だ。アルコールであっても果実水で割られたもの。
我慢してアルコールを飲もうかと考えていたルナに、シュリアがにこやかにお酒風のジュースを出す。
傍目には酒を飲んでるように見えるが、実質は果実飲料。
「司令官様。よろしければこちらを」
他の店で、こんな気遣いを受けたことがない。
大体は酒の方が値段が高く、司令官等と地位が高いと金を使わせようと、高い酒を勧められる。
「この食堂は、妙に気分が良いな……」
全てを読み取られるというのは、戦いにおいては負けを意味する。しかし、こういう場所では意志が通じるという意味では気分が良いと感じる様だ。
村人でお金を手にした者や、行商の者、村もどきの者、そして今回の行軍の者達。店は大繁盛だ。
その中で誰かが言った言葉に、ルナが過敏に反応した。
「シュリアちゃんは可愛いなぁ。あれでレイモンドの嫁じゃなかったらなぁ……」
思わず立ち上がろうとして、テーブルの上の飲み物をこぼしてしまう。
すぐに駆けつけたのはファリスだが、すぐにシュリアも来た。
「あのシュリア殿……レイモンド殿の妻というのは本当なのか……?」
驚いてる表情のルナに「はい、本当ですよ」と片付けながら答える。
ルナは妙に落胆して「そうか……」と俯いてしまった。
シュリアは直感した。この女だ。この女がレイを狙ってる。女の勘の相手は、この女だ、と。
シュリアはにこやかだが、シュリアを再度見上げたルナと視線が合うと、妙な緊張感。
まわりも、どうかしたのだろうと、気になるほどの緊張感がうまれていた。
シュリアが注文を聞く以外で、立ち止まって無言などというのも、珍しい光景に見える。
「うちの”夫”がどうかされました?」
言葉になるべく棘を仕込まず、しかし、夫を強調するシュリア。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
ルナの方から視線をはずした。
女の戦いに慣れていないのか、それとも、妻が居ることに衝撃を受けたか。
視線を外した直後に、すぐに片付けが再会され、代わりの飲み物が置かれる。
足の装備についた飲み物もささっと拭かれて、遠慮する暇さえもない。
「失礼いたしました」
ルナがありがとうをいう暇もなく、シュリアは笑顔で一礼して仕事に戻っていってしまった。
立ち居振る舞いも負けた気がして、ルナは落ち込んでしまった。
「えっと、まあ食べましょう。」
側近の気づかいか、それとも、空気を変えたいだけかの言葉。
「そうだな。食べよう」
ルナのそれは、やけ食いに近かった。
レイモンドはルナ達が無事に城塞からラースニアに戻ったのを確認すると、海岸線の確認に出掛けていた。
家に帰るのも良いが、いつまたルナが家に訪ねてくるかもしれない。
そうなれば、勇者だなんだと騒がしくなり、また、王都に連れて行かれそうになるかもしれない。
シュリアに任せっぱなしだったラースニアの近くの守護も、今は自分がやろうと考えていた。
食堂で楽しそうに仕事をしているのに、異形のモノの相手までさせる訳にはいかない。
しかし、海岸線上にも、防風林になってる森の中も異形のモノの気配はない。
シュリアにが狩り尽くしたか、それとも、侵攻が止まっているのか。
可能性のもう一つ。地面の下での巣作りだ。
シュリアなら気づくと思うが、ニアスを襲った蜘蛛型の様に気配が薄いモノも居る。
そういう系統のモノが巣作りをしていたら、流石に被害が出るまで気づかないだろう。
いや、被害が出ても気づかないかもしれない。
ニアスの時は、何人も捕まっていた。
感覚を研ぎ澄ましても、偶然でも無ければ見つけられない蜘蛛型の一種類。
あれはある意味、一番厄介だ。
もしあれが、勢力を広げ、また繁殖すれば、村の近くに危機が及ぶ。
シュリアやファリスの知覚に反応するものならば、シュリアが対処出来るだろう。だが、近くできなければシュリアでさえ被害に合いかねない。
それは絶対に有ってはならないこと。
レイモンドは普段の戦闘のように速くではなく、緻密に周りを探りながら探索していた。
ラースニアとラースアムの間に巣を作っていたのに、誰も気づけなかった。
そんな敵が近くにいれば、人知れず誰かが死んでいる。
レイモンドにとって、一番許せないことだ。自分を許せなくなることだ。
だから、居ないとしても探し尽くす。
そして、居れば倒す。
レイモンドの信念に迷いはない。ただ、守るものが増えすぎている。
本来、レイモンドの信念に優先度は家族以外には少ない。しかし、その家族が増え、更に、他にも守りたいものが増えている。
そして、変化。
守りたいが為に、命を賭した戦いをしてきた。だが、それでは行けないと感じる。
命を賭した戦いをして、命を落とせば、守れないのだ。
自分が死んだ後のことはどうでもいいというのでは、意味が無い。
守りたい相手を、守り続けるために戦う。
簡単な答えが、今までは必死過ぎて頭に無かった。
自分が生きていなければ、誰かを守る事など出来ないのだ。
だから、生き残らなければならない。そして、倒し続けねばならない。
勇者でも英雄でもない。戦うために戦うんじゃない。守るために戦う。生き残る為に戦う。
それが自分の戦いと気づいた。
気づいた瞬間から、自分が少し弱くなったと感じている。
攻め切れない。
しかし、父親に言われたことがある。
「自分の心の弱さを認めてこそ、心は本当に強くなる。」
そして、もう一つ。
「何が何でも、生き残ったものが勝者だ」
騎士道とははずれるかもしれない。そして、人の道とも外れるかもしれない。
何が何でもというのは、逃げかもしれない。
だが、その何が何でもが、自分が化け物であることを認めることならば、レイモンドは出来る。
化け物になろうと、生き残ったものが勝者だ。
生き残る限りは、守ることが出来る。
教わったことは、一つ一つはわかりづらい。だが、自分が経験していく上で、意味を理解していく。
意味を理解する度に、考えに答えを得ることが出来るようになる。
いろいろ考えながらも、探索を続けるレイモンドの感覚に、妙な違和感が引っかかる。
遠いが、違和感。
方角は西。グレッグの村が有った方角だ。
既に反乱軍の侵攻で村はない。だが、それを知らないレイモンドは、やはり周囲を確認しながら動く。
違和感が小さすぎる。
集中して、その方角を探っても、感じられるものはない。だが、違和感。
武器を手に、違和感がする方向を探りながら進む。
周囲の警戒も怠らない。蜘蛛型なら、糸を張っているかもしれない。
しかし、糸も無く、違和感に近づいていく。
悪寒もせず、嫌な感じもしない。だが、危険だと感じる。そして、違和感。
今まで感じたことがない感覚。
まさか、今まで対峙したことがない異形のモノか、と構えを崩さずに慎重になる。
違和感の正体は動かず、ただ、待っているだけのようにも感じる。
何を待っているか。餌が近づくのを待っているのか。
少しずつ近寄っていくと、そこは岩場だ。
人が通る街道とも離れ、しかし、獣道はある。
僅かな違和感しか感じず、しかし、岩場の隙間に恐怖がある。
聖鎧とも戦ったレイモンドに、恐怖を感じさせる存在。
それほど大きくないのか、しかし、岩の隙間は大きい。
そこに隠れている。
わかるが、しかし、手が出せない。
出したら危ないと解る。
イメージが先行する。自分が手を出し、相手の攻撃で腕をもがれ、そして、体を裂かれる。
どうする。どうすればいい。
穴の中からこちらを伺う異形のモノを、野放しにすることは出来ない。
だが、穴に近づけば、やられるのはこっちだ。
どうすればいいか、レイモンドは考えあぐねている。
敵は目が良いか悪いか、そして耳が良いか悪いか。
速いか、遅いか。
僅かにさがり、落ちている木を拾う。
その木を、居るであろう場所に投げ込む。
次の瞬間、それは何かに挟まれ、そして折れた。
レイモンドの頭に浮かんだイメージは正しかった。
そして、その木を投げ込んだ瞬間に見えたものは、異形のモノの一部だけ。
本体はそれほど大きくはない。ムカデ型と同じだ。しかし、木を折った部分は巨大だった。
一体なんなのか。
そして、それは月の光で僅かに姿を現した。
レイモンドが見たこともない形の異形のモノ。
巨大な鋏を両手に持ち、尻尾の先に毒針を持つ高速で動く異形のモノ。
それは、穴の中に住むサソリ型。
今まで対峙したことのないそれは、レイモンドにとっては脅威。
山林の中でも、サソリには出くわしたことがない。
もちろんレイモンドは、サソリが毒を持つことも知らない。
見えるのは巨大な鋏。口が何処にあるのかさえわからず、また頭の位置も特定しづらい。
頭を一撃で一閃出来れば倒せるかとも思うが、レイモンドの攻撃が届くよりも速く、鋏がレイモンドを捉えるだろう。
月夜で見える鋏は2つ。同時に攻撃してくるのならば片方を避けても、もう片方に捕まる。
鋏は2つしかないか? しかし、まだあれば、それがレイモンドの敗因となる。
更に一歩下がり、足元を探る。
先ほどよりも太い、大きい枝を探す。
投げつけて、それを鋏で掴んだ瞬間に攻撃する。それしか、今は思いつかない。
頭は岩穴の奥ではなく、手前に有ることを願いたい。
鋏を持つ手、その間にあれば、隙を作れれば貫ける。
レイモンドは拾った木々を、一気に投げる。そして、投げた瞬間に突撃した。
命を捨てるつもりはない。だが、倒さなければならない。
そして、その木を挟むかと思われた鋏は、木を掴むも一瞬で砕いた。
レイモンドは投げた木が届く前に、囮としたそれらは砕かれ、間にあるものはない。
さがる余裕もなく、既に行くしか無い。
自分の速度を信じる。
普通に走るのではなく、地面につま先を刺し、前に飛ぶ。
鋏がレイモンドを狙い、しかし、1つめの鋏はレイモンドを捉えきれずに空を切る。
だが、しかし、もう一つの鋏は違った。
レイモンドが飛ぶであろう場所を、通る前に閉じ、そして、そこにレイモンドは飛び込んでしまった。
足が鋏で掴まれ、そのまま鋏が振られ叩きつけられる。
斬られはしなかった。だが、何度もたたきつけられ、そして、もう一つの鋏が迫る。
レイモンドの上半身を挟んだそれは、レイモンドを引きちぎろうと力を込めている。
イメージした自分の死に様が、蘇ってくる。
そして、イメージと違う攻撃。
レイモンドを捕まえきったサソリ型は、その姿を全て現した。
弧を描く尻尾の先に、毒針。
レイモンドを引き裂こうとするのはそのままに、その毒針がレイモンドの肩に突き刺さる。
毒が毒針から体に入ってくるのが解る。
体中の筋肉が痙攣し収縮する、そして、呼吸が厳しくなる。
動けなくなる。
鋏で引きちぎられそうなのも、踏ん張ってなんとかなるのも限界が近い。
今はシュリアが作ってくれた服が、なんとか体が千切れないようにしてくれているに過ぎない。
裸なら、既に腕と足はちぎれているだろう。
レイモンドを肉片に出来ないことで、何度も、何度も、地面に叩きつける。
その度に血反吐を吐く。
毒がまわって、体の動きが自由にならない。呼吸さえままならない。
たとえ鋏から開放されても、戦えるかどうか。
だが、戦う。
呼吸など、しなければいい。
筋肉が動かないなら、動く場所だけ使えばいい。
刺されたのは左の肩。
まだ左手の先なら動く。そして、挟まれて骨折はしたが、足もまだ動く。
治りは、遅い。毒のせいか。だが、行くしか無い。
目の前のサソリ型は、また岩穴に戻ろうとしている。
戻らせたら勝機はない。
毒針を使い、鋏を使ってもなかなか死なないレイモンドに驚いたか、サソリ型は少し動きを鈍らせている。
どう攻撃するか、間合いを取ろうとしている。
だが、レイモンドの攻撃は常に直線的。
間合いを取ろうとした隙は逃さず、一気に詰め寄った。
そして、頭であろう場所に、右手の剣で一閃。
サソリ型に首の部分はない。首であろう部分は、甲殻の継ぎ目の様になっている。
だが、レイモンドの振り下ろした剣は、甲殻の部分さえも貫き、敵の頭だろう部分を粉砕した。
意外と固くない。
硬いのは、鋏だけなのか。
まだ動くサソリ型を一気に叩こうと更に飛び込む。
しかし、その飛び込みを待っていたのは、サソリ型も同じだった。
またも鋏でとらわれ、毒針を喰らう。
今度は腹だ。
シュリアが作ってくれた服さえも貫通し、その針はレイモンドの体内に毒液を放つ。
胃に到達したのか、レイモンドが吐き出したのは、血や胃液だけではなく、サソリの毒液もだ。
間合いを取られ、毒を2度も入れられた。
立っているがやっとなレイモンドに勝機は薄い。
意識も薄まり、だが、傷の痛みのおかげでなんとか保つ。
倒すんだ。
守るんだ。
帰るんだ。
その気持だけで立っている状態。
次に攻撃されれば避けられないかもしれないという、先入観。
怖い。死ぬかもしれない。
死んだら、守れない。
生きて帰る。
心のなかで、生きて狩る事を何度も反芻し、そして、また前に出る。
手ごわすぎる。こんなのが何匹も来たら、倒しきれない。
悪い方に考えが向く。しかし、これ一匹でも倒しておかねば。
そしてまた、前に出る。
サソリ型は動かず、鋏も降りたまま。
毒が体中をめぐる。
既に目の前の敵が、ぼんやりとしてきている。
限界か。
人間の限界なら、とっくの昔に超えている。
こんなのも倒せなくて、何が化け物だ。
そしてまた、前に出る。そして、サソリ型は動かない。
もうすぐ目の前だ。
いつ鋏が来てもおかしくない。
捕まっても、根本を狙う。そして腕を落として、頭を狙う。
視界はすでに無く、触って確認しないとわからない。
だから、逆に狙わせる。
挟ませる。捕まえさせる。そして、こっちが倒す。
武器を振り上げる右手も、力が入っていないのが解る。
振り下ろしても、貫通するかどうか。
だが、しかし。すでに勝負は決まっていた。
頭だろう部分を粉砕した時に、既にサソリ型は死にかけていた。
そして、最期のあがきでレイモンドに毒を流しこんだのだ。
既に事切れたサソリ型は、その場で朽ちていた。だが、それはまだ生きてるような姿。
尻尾が既に地面に垂れ、鋏も地面についている。だが、元々地面を這うような姿なために、生きてるようにも見える。
レイモンドもまた、死にかけている。だが、巣穴なら、卵や幼虫がいるかもしれない。
倒さなければ。
倒して、村人を守らなければ。
フラフラで目も見えない状態。手探りで穴を探り、そして、穴がそれほど深く無いことを知る。
卵や幼虫の感じもしない。
ようやく、休めると感じた。
休める。だが、帰りたい。
ふらふらと、そして、ゆっくりとだが、レイモンドはラースニアの方向へ向かって歩く。
サソリ型の毒は、筋肉を収縮させる。そして、呼吸を阻害する。
普通の人の速度で歩くにも、命が削られていくのが解る。
帰るまでに、命がもつのだろうか。
そんな風にまで、考えてしまう。
帰りたいと願いながら、いつもの自分ならすぐの距離が、果てしなく遠い。
足を引きずり、毒で体の中が奪われ、そして、呼吸もうまく出来ない。
「やっぱり……化け……物の最期なん……て、こんな……もんか……」
諦めの言葉を、なんとか吐き出す。
自分に自分の最後を納得させようと、なんとか、言葉を吐き出す。
そして、レイモンドは倒れた。
だが、まだ這いずっている。
少しずつ、ラースニアに向かって、這いずっている。
前にも毒を持った敵に出会ったことは有る。しかし、毒に耐性が生まれ、そして勝てた。
だが、耐性が出来るまで、時間を稼いだからだ。
自分を過信しすぎた。化け物であることを受け入れるのと、過信は違う。
レイモンドの意識は、消えようとしていた。
毒が頭までまわったのだろうか、既に考えることも出来ない。
死ぬ前に耐性が少しで出来れば、と考えてしまう。
海岸線に近いのに、波の音も、風の音も聞こえない。
ただ、静かだった。
何もない。
全てを失った。
レイモンドは、しかし、這いずる事をやめることはなかった。
少しでも、少しでも、近くまででも、帰りたい。
視界は既に無く、そして、何も聞こえない。
ただ、這いずっているだけ。
いつか、死ななければ、ラースニアに帰れる。
そんなことも考えることも出来なくなっている。
レイモンドは、ただ這いずっていただけだった。




