マグカップ
仕事終わりにスマホを確認すると元カレの名前
心臓をグッと締め付けられるような痛みが走る。
忘れたくても忘れられない男
名前だけで震える。
良くも悪くも私の心臓を鷲掴みにして離さない
そんな人からの久しぶりのメール
指先が震える
わかっている
わかっている
彼がやり直そうなんて言ってくれるわけない。
それでも馬鹿みたいに
塵ほどもない希望に心が躍る
見たくないのに見たくて堪らない
私は駅の反対側の人の少ないコーヒーショップまで歩く
足取りがいつもより速いのは気付かないふりをする。
会社の人にこんな顔は見られたくない
家族にもこんな顔は見せられない
実家住まいの女の逃げ場なんて男とコーヒーショップくらいしかない
女友達といる時には、どこかで見栄を張っているのが女って生き物だ。
好きな男の前だけで子供みたいに笑って甘える。
そう、もう親にも見せないような無邪気さを見せる。
今の私の逃げ場はコーヒーショップしかない。
もう別れて一年になる。
忙しい、結婚できない、責任も取れない、と彼は言った
結婚なんて紙切れ一枚役所に出せば成立するんだよ…
言えない言葉を何年も飲み込みながら付き合っていた。
それでも幸せだった。
美化された彼が私を引き留める。
わかっている
彼はもう私を愛してない。愛しているのは私だけ
そんな事はもうわかっている。
それでも、どんなに新しい出会いがあっても彼の影がチラつく
彼だったらと、タラレバが心で暴れる
涙目をコーヒーショップの前で空を仰いで瞬きで誤魔化す。
飲み慣れた、カフェラテを一杯
カウンター席に座って
ポケットの中のスマホを取り出す。
見たくない
見たら終わってしまう
妄想は所詮、妄想
わかっていても、確認せずには帰れない。
あの男はこんな私の気持ちを欠片ほどでも考えたことがあるのだろうか?
無糖のホットカフェラテはミルクの微かな甘みの後にコーヒーの苦みが残る。
甘いコーヒーの方が好きなのに砂糖を入れなくなって何年経つのだろう?
大人になったわけじゃない
砂糖を入れるのが面倒だと思うようになったのだ。
自分の為に砂糖を追加する事さえ面倒になったのだ。
ふぅー
深いため息を付いて
会社からコーヒーショップまでの道のりで考えた
甘い妄想を全部吐き出す
このメールに甘い事は書かれていない
それでも私は身構えないと開く事さえできず
ひと時の甘い夢を見る事を望んだ。
どんだけ未練がましいんだと笑える
傍から見たら不審者だなとコーヒーショップのお洒落な天井を見上げて覚悟を決める。
《引っ越しの準備していたらマグカップが出来てたけど、どうする?》
瞬間的に有名ブランドのお洒落なマグカップが私の頭の中に思い浮かぶ。
私が彼と過ごすために買ったペアのマグカップ
長年使いたいと思って百貨店で何時間もかけて選んだマグカップ。
捨てるには惜しいほど綺麗なマグカップだった。
彼はインスタントだったけど私のコーヒーには砂糖とミルクを入れてくれた。
自分はブラックしか飲まないくせに
美化された思い出が一気に再生される。
真実はそんな甘くない。
前を向くしかない。私は今でも彼を愛していた。
だから絶対に二度とそのマグカップを使う気はない。
《捨てたら?》
私はそれだけ打って送る
涙が零れる
外はもう暗い
きっとマグカップも私みたいに捨てられる。
大切だったって顔しながら容赦なく捨てる彼の顔が浮かぶ。
返事はない。
そんな男だって頭では理解している。
彼は私に捨てる罪悪感を押し付けたかっただけだ。
無意識にそう言う事をする酷い男だ。
私は立ち上がり紙カップをゴミ箱に捨てる。
紙カップを捨てているだけなのに思い出のマグカップを捨てているような錯覚に襲われながら