杏仁茶
ハンビット陛下は日ごろ、湖水地方にある夏の離宮、ヴォニパー城に住んでいるらしい。
「なんであんなとこに」
「王都に近づくと、幽閉されていた日々のことを思い出してしまわれるそうですね」
サモワールからティーポットを取って、ノブローが言った。
「どうぞ。杏仁茶です。バターミルクとはちみつを入れて、コーンスターチでとろみをつけました」
カップに注がれたのは、白くとろりとした飲み物だった。お茶っぽくはないな。
「ん! 甘くていい香り! これわたし好きです! おかわりください!」
ニーニャはお茶をがぶがぶ呑んで、からっぽのティーカップをノブローに押しつけた。
「殿下、お口元が……!」
珍しくお茶会に加わったパールは仰天した。ニーニャが、口周りをミルクひげでまっしろにしていたからだ。
「ヴィータ、お願いします」
「ほい姫ぴ、拭き拭きしようね」
「殿下……!」
無抵抗に拭かれるニーニャを見て、パールはもう一回仰天した。
パール、あんまりお茶する機会ないから、素直に甘えるニーニャを見たことないんだな。
「いつもこんな感じだよ」
「ふむ……あがっ!? みっ、みか、す、と」
相づちを打ちかけて、相手が俺であることに気づいて、パールはあががってなった。
なんだろう、一生打ち解けてくれないのかな。
「まいっちゃうねえ」
杏仁茶をすする。乳と蜜と、杏仁の甘い香り。とろっと重たい舌ざわりに、バターミルクのこくがいい。
「これ新感覚だなー。うまいわ、うんうまい、あーこれいいなあ、呑んだ後もまだ香ってうまい」
お茶請けは、じっくり塩炒りにした榛実。甘じょっぱくて香ばしくてかりかり。これもうれしいねえ。
「おかわりください!」
「ほい姫ぴ、拭き拭きしようね」
「うむむ……」
俺たちがあまりにもふわふわしているので、パールはちょっと咎めるニュアンスの唸り方をした。
「我らは、怨敵ハンビットの居城に赴くはずでは?」
「まあまあパールさん。今から気合入れてもしゃーなしでしょ」
「それは……そう言われてしまえば、そうなのあがっ」
もうちょっとの感じあるな。旅の間に打ち解けられそう。
「うし、じゃーマジメな話する? 騎士ぴ怒ってるし」
ヴィータが机上にアルヴァティアの地図を広げた。
「今ウチらここね」
ロシェ山脈にほど近い、地図の下端を指でつつく。
「ほんでこっからこう、ずずずいーっと西に行って」
山脈の切れ目に位置する三日月形の湖まで、指を引っ張っていく。
「ミィエル湖。淡海乃海と謡われる、アルヴァティアで一番でっかい湖ね。ヴォニパー城は湖中島のドラーフ島まるごと普請した要塞なんだって」
「知ってますけど」
「や、知らなそうなおじぴが一人いっから」
「助かるよ、ヴィータさん」
「ヴィータ殿! ミカド・ストロースだぞ! 氷原の五連星と恐れられた男だ!」
パールがぷりぷりし、ヴィータがへらへらした。まあたしかにミカド・ストロースで氷原の五連星かもしんないけど、それは無収入で無教養な子ども部屋おじさんであることと矛盾しないからなあ。
「んで、けっこう距離あっから」
ヴィータは指を右についっと動かし、ミィエル湖の東岸に置いた。
「ゾートーンのセヴァンで一泊してから、湖岸をのんびり進んでドラーフ島ね。ま、のんびり行ってきなよってこと」
「ミカドさん、ゾートーンはいいですよ」
急にノブローが前がかりになった。
「そか、ノブローさんはゾートーンの代官をしてたんすね」
ノブローはうなずいた。
「湖水地方は温暖で、人の性質もあたたかいんです。今の時期のセヴァンはねえ、午後の光に照らされたミィエル湖の美しさと言ったら! 多くの詩人に閃きをもたらしたあの湖面を、荘館から飽きずに眺めたものです」
めっちゃ早口になってる。いいところなんだろう。これは楽しみになってきたなあ。
「ブザンバル卿が転封されてからは、あまり良い噂を聞かんが」
パールが言うと、ノブローはいきなり拳を机に叩きつけた。
「愚王ですよ、ハンビットは! 我が第二の故郷を、天領として半分も抉り取って! ゾートーン伯は湖水地方の気風そのままに、偉大で温厚な方でした。それを北部の、菩提樹も生えないような僻地に追いやったんですから! ……失礼しました」
突如としていきり立ったノブローは、俺たちの視線に気づくと、顔を真っ赤にして小さくなった。
宮中の編纂室で働いていたノブローは、ゾートーン伯ブザンバルに見初められ、しばらく代官をやっていたという。湖水地方への思い入れは、そりゃ強いだろう。
「あなたの愛するゾートーンが、湖面のように美しく穏やかなままであることを確かめてきますよ」
ニーニャが微笑むと、ノブローは気まずそうにほほをかいた。
「ありがとうございます、殿下」
「ノブロー、なにかおすすめはありますか?」
「ミィエル湖で採れたホッキョクイワナの、皮目を炙ったものをご賞味いただきたいですね。まるまる肥った鴨も、よいものです」
「ええ、いただいてきます」
「そうだミカドさん! ゾートーンにはねえ、すばらしいぶどうが実るんですよ。セヴァンの土は最高ですから、ワインはどうしたって飲まなくちゃあいけません。ふかしたじゃがいもにラクレットチーズをたっぷりかけて、ワインを呑るんです。もちろん、湖に沈む夕日を眺めながらですよ」
「あーそれ最高すね。絶対にやろう。うわなんだ、もうチーズとワインの口になってきた。チーズとワインしか食べたくない」
俺たちがわいわい盛り上がっているあいだ、パールはずっと呆れてため息をついていた。
イージィ、イージィ。




