壁と卵
「君は何を言ってるのか分からない」
いつも彼らの、いわゆるオルグと言われる勧誘のような会話の最後にハロインカボチャはそう言った。
新左系と呼ばれていた彼らの主張を聴かされている僕が言うのではない、話しをされて、その話はおかしいのではと反論している僕な対してハロインカボチャは言うのだ。
本来、何を言ってるのか分からないのはハロインカボチャだ。一通りの彼らの主張する考えは組織化され、教条するマニュアルも備わっている。熱心な新興宗教の信者が自分の言葉で勧誘するのではなく、レクチャーされた言葉を繰り返し、質問に対する答えまで、あたかも現在のコールセンターの受け答えが決まっているのだ。
マニュアルに書かれた質問以外はやはり何を言ってるのか分からないとなる。
確かに僕のような質問と持論を展開するような者はいないだろ。
そもそも、彼らのように僕は政治的活動には全く興味がなかった。興味がないと言うよりは非静的活動と思考を志向していた。
政治は政治で必要で立派なことだ。しかし、非政治も必要て立派なことなのだ。その間には埋めようのない、隔たりが歴然として存在している。
そして、このての話しにはこの隔たりを相互に理解する必要がある。
あたかも馬鹿の壁を理解しながらも交換として言葉を交わし、互いの立脚する地点をあくまでも尊重することが必要なのだ。決してこの地点は交わることはないのだから。
僕はその事を理解しながらも僕の地点からの話を展開するのだが、ハロインカボチャはそれを理解できない。
西洋世界の帝国主義的世界侵略に対するアジアの果ての日本が取らざるを得なかった日露戦争は遠い戦いだったろう。しかし、君死にたもうなかれ。との主張も同じように尊い主張なのだ。
家長の戦いが格上で、姉の嘆きが格下でとは、村の氏族社会的に未だに停滞する思考形態だ。急進的左系思想の薄皮の下には根強くこんな思考があったのだ。
己れの内なるブルジョワ根性を否定する(実際は否定する方法も意味知らない奴らだが)前に、原点から見つめ直す必要があるはずだ。
ハロインカボチャ達のやってることは、鼠男や下衆女やむじな男がやってることと、寸分変わらない価値観に根差していることにすら気が付かない。
30年後にある作家が素敵な言葉を言っていた。
「高く硬いシステムという壁があり、そして、その壁にぶつかり、割れてしまう卵があるならば、僕は常に卵の側に立つ」