〔2〕
明け方近くに館に戻ったレンカは、熱い湯に浸かってようやく安堵の息を吐いた。
十四歳の時に当主である父を失い、十八歳で婿を取り正式に家督を継ぐまで仮初めの当主を勤めなくてはならないが、課せられた月に一度の任務が辛い。
天下平定の大戦が収束し、世に平和が訪れて久しい。
大戦時代、功を焦ったレンカの一族に、霊山の人為らざる者と契約し強大な力を持って戦を制しようとした者がいた。しかし、その企みは後に天下を平定した一族の知る所となり、未然に阻止されたのだった。
ところが首謀者である本家当主の首を刎ねた後も邪悪なる契約は生き続け、霊山頭頂の『地獄釜』と呼ばれる裂け目から幽鬼が現れ里の人間を喰らうようになった。噂でしか聞いた事は無いが、幽鬼に噛まれた人間もまた鬼となり、人を襲うようになるという。
そのため通例であれば御家断絶皆殺しとなるところ、一体なりとも幽鬼を里に下ろさない事を条件にレンカの一族は許されたのである。
任を果たすため幼いときから剣技を磨いてきたが、いくら鍛練を積もうと自分がムゲンやクヨウのように強くなれない事は身に浸みて解っていた。
一族の罪を負い、象徴として家督を継いで任を果たす事が重要なのだ。
湯浴みを終えたレンカは小袖と武者袴姿に着替え、まとめ上げた髪を結い直すと大切にしているサクラの髪飾りで留めてからクヨウの姿を探す。
屋敷の奥に続く廊下を歩いていると、ちょうど朝餉の膳を下げる下女中と行き会った。
「クヨウ殿は在室か?」
レンカの問いに年配の下女中は膳を足下に置き、腰を落とした。
「いえ……夜が明けてからの御帰りでしたので温めた床を御用意したのですが、朝餉を摂られた後、何処かに行かれました。軽装でございましたから、お屋敷内にはいらっしゃると思います。御用でしたら、わたくしが探してお連れいたします」
「いや、自分で探す」
下女中は湯上がりのレンカを見て、優しく微笑みながら礼をした。
幼いときから世話になっている女中だ。レンカが許婚のクヨウを探している事を、好ましく思っているらしい。
実際の用向きは、女中の思う艶事など微塵も無い。立場上、クヨウに苦言を呈する事が出来ないムゲンに代わって、昨夜の行動を諫めるために探しているのだ。
勤めのあった日、寝付く事が出来ないとレンカは武道場で鍛錬を行うか庭を散策して、非日常から日常へ頭と身体を切り替える。
ムゲンは部屋を暗くして寝てしまうが、クヨウはレンカと同じように武道場か庭にいる事が多かった。
最初に庭に回ってみると、予想通りクヨウは敷松葉に覆われた池の辺に立ち、冬の庭木を眺めていた。敷松葉とは苔を霜から守るために庭に敷く松の葉で、景趣としては寂しいが冬の趣としてレンカは好きだった。
枯葉色ながらも艶のある松葉に霜が降り、朝日にキラキラと輝いている。冬木のナンテン、ヤブツバキ、サザンカが彩りを添える中、梅の花は蕾が付いたばかりだ。
声を掛けようとするとクヨウは、葉も蕾も無い一本の寒々とした枝振りをした大木の下に赴いた。レンカが一番好きな、サクラの大木。
「見ろよ、レンカ。一番日当たりの良い枝に蕾があるぞ! このところ小春日和が続いたから、勘違いしたんだろうなぁ……倉卒な性格は、レンカそっくりだ!」
気配でわかったのだろう、レンカに顔も向けずに明るい声で話しかけてきたクヨウの言葉に、レンカも枝を見上げた。
確かに日当たりの良い枝の先に、硬く小さな蕾が付いている。
「あっ、本当に! まぁなんて、せっかちな……」
自分で言いかけてレンカは、ようやく言われた意味に気が付き眉を寄せた。気が短く、慌て者の意味だ。
「……クヨウ、真面目に話を聞いて欲しい」
「わかってるって! 俺のせいでレンカが危険な目に遭ったと、ムゲンのヤツ、かなり怒ってたもんなぁ」
着流しに綿入れを着込んだクヨウが、レンカに笑顔を向ける。
「だからさ、レンカはもう勤めに出るの止めた方が良いよ? そうしたら俺も面倒がらずに、ムゲンと鬼狩りに行くから」
「仮初めとはいえ、父の亡き後は私が当主。任から逃れる訳にはいかない」
レンカの応えに肩を竦め、クヨウは溜息を吐いた。レンカは切ない気持ちで、細く長く、白い息が流れるのを見つめる。
「それが、うぜぇって言ってんだよ……」
突然、クヨウの語調が低く変わり、レンカの肩を強く掴んで引き寄せた。
「あのなぁ、正直に言わせてもらえば剣の腕が役にも立たない姫様が戦いに赴いても、邪魔なだけなんだよ? 俺とムゲン、二人の方が効率が良いんだ。お前を守る必要が無いからな。実際、ムゲンが怪我をしたのはレンカのためだ。敵が少ないから、お前に花を持たせようと思って俺は近くで待機してたけど結局、助けに出なきゃ為らなかった」
「そんな……!」
言い返す言葉が見つからず、レンカは唇を噛み俯く。
自分でも、わかっていた事だ。しかしクヨウの口から、はっきり言われるとは思わなかった。
「元々、俺は戦うのが嫌いなんだ。化け物相手に命を賭けるなんて冗談じゃねぇ。実際、二度も死にかけてるからな。おまえと夫婦になったら当主の権限で、ムゲン筆頭の部隊を組んで仕事をさせるつもりさ。贖罪とか責務とか、馬鹿馬鹿しいんだよ。仕事を続けるための跡継ぎだけ作れば、俺には何の関係も無いね!」
言い捨ててから抱き寄せ、口付けようとしたクヨウをレンカは突き飛ばした。
「クヨウ……それは、お前の本心か? 今の言葉は、お前に託した父上の信頼を踏みにじるも同然だ!」
「やれやれ、いらちな姫様だ。死んだ人間の信頼に、何の意味があるんだよ? まぁ、いずれ俺の嫁になれば、逆らう事もなくなるか?」
楽しそうに高笑いを上げ、クヨウはレンカに背を向けた。
「ああそうだ、そのサクラの髪飾り。塗りが剥げて、みっともないから捨てちまえよ? 新しいの買ってやるからさ!」
屋敷に戻っていくクヨウを、レンカは呆然と見つめる事しか出来なかった。
サクラの髪飾りは、父がクヨウを許婚と決めた十四歳の時、クヨウが自ら恥ずかしそうにレンカの髪に挿してくれたものだった。
知らず、目頭に溢れたものが頬を濡らした。