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森と雨  作者: 森本泉
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うそだ。私は、兄が死んだときの両親の嘆きを見てびっくりした。びっくりしたし、ああ私たちの親は、心の底からダメな人たちだったんだ。そういうことが分かったので怖かったし、絶望もしたし、やがて私が先に死んだらやっぱりこんな風に嘆くのだろうかと思ったら、かなり気持ち悪かった。そう、私たちの両親はかなりおかしな人たちだった。何がおかしいのか。頭だ。決まっている。


「本当にくそみたいな兄だったのよ。痴漢で補導されたり。万引きでつかまったり。振り込め詐欺しようとして警察にみつかったり。車からガソリン盗もうとしてつかまったり」


「全部つかまっているな」


「バカだったから。ああ、なんて言うことなんでしょう。私の身の回りにはバカな奴しかいないわ。せめてむいちゃんくらいはかしこいままでいてくれたらいいんだけど」


 そんなどうしようもない兄が死んだとき、両親は本気で嘆いていた。私は何がなんだかわからなかった。


 どうしようもない不良に育った兄を、両親は無かったことにしていた。警察に引き取りに行くとき、母は念入りに化粧をしていちばんきれいな色のスーツを着て行った。そしてスカートのすそを汚して、顔をぐちゃぐちゃにして戻ってくるのだ。


 いい家に育って、ちょっとの間だけおかしくなっているだけなんです、と、泣いて訴えて息子の減刑を泣きながら願う品のいいお母さん、を演じるために。私たちの親は世間体しか気にしなかった。世間に顔向け出来ていればどうだって良かった。


雨はかわいいわねえ、雨はかわいいわねえ。私の方はそれだけを言われて育った。良かったわあ。女の子は見た目が良くなくっちゃ。かわいいこに生まれてよかったなあ。と。両親は私の顔だけしか見なかった。そんな物は骨と筋肉と皮膚の塊で、私自身と呼べるものはその奥にちゃんと座っていて、ここですよおと彼らを呼んでいたのに。とことん私の見た目が人よりもいいことしか気に掛けなかった。雨はかわいいなあ、雨はかわいいなあ。もっとかわいくなればいいなあ。


世間が大事だった。見た目が大事だった。だから兄が警察の世話になる時に、自分はやることをやっている、と思えていればよかったのだ。兄はすぐまた他の迷惑行為で警察にひっぱられた。両親は、同じことを繰り返すだけ。


 なのに、死んでしまった時は本当に嘆いていた。これは世間体じゃない。本気で嘆いていたのだ。自分たちの子どもが死んでしまったから、本当に悲しくて仕方ないのだ。父も母も泣いて泣いて使い物にならないので、親戚の小父さんが集まってみんなでどうにか兄の葬式をやってくれた。


 両親は、盛り上げ役の泣き女みたいにただ嘆いていた。私はすることがなかったので高校の制服を着たまま、あっちにふらふらしたりこっちにふらふらしたりして、時々兄を見に行った。少年漫画のやられ役みたいに、顔にななめの傷が走った兄の死に顔を、棺桶の窓を開けては眺めていた。誰にもとがめられなかった。


「まさかそのお兄さんと恋愛関係だったなんて言うなよ」


 ゲンゴは単純な奴だ。


「肉体関係はあったわ」


「ウソだろ」


「ウソよ」


 そう、肉体関係は、なかった。でもどこまでを肉体関係と呼ぶかはきっと定義によって違う。辞書を引いてみたい、と私は思った。




 次の日は昼からの講義だったので、私は例のごとく部屋でぼんやりと髪の毛をとかしながらニュースを見ていた。傍らにコーヒーのカップ。裁判では中年男の供述が二転三転して関係している人たちが迷惑そう。自分は宇宙からのメッセージを受け取っていますとかなんとか言っていて、話が全然先に進まない様だ。せめて宇宙人から命令されて殺したのだと言ってくれたらいいのだろうけど、すぐに宇宙人なんてこの世には存在しない、と言い始める。関係している人たちは本当に迷惑そうだ。テレビのレポーターだけが、仕事が出来てうれしそうにしている。仕事は大事だ。それがないと、生きていけないもの。


 ラインが入ったコールが鳴ったので、枕の下になってしまっていたスマホを出してみたら、むいちゃんからだった。


「今日雨先輩んちで晩ご飯たべてもいいですか」


 とあった。私は髪をばらけたままちょっと考えて、返信を打つ。


「レアンのバカがバイト終わってから来るって言ってたから、九時くらいまでだったら」


「了解でーす」


 とすぐにむいちゃんは返事をくれた。ラインを切ってしまうと、また部屋の中は夢からこぼれた匂いで溢れた。このごろいつも同じ夢ばかり見ている。でも、夢の中ではいつでも初めて来るように私は戸惑ってしまう。森の中に私はいる。


 深い森で、葉っぱから漏れてくる光が鋭いから、どうやら朝なのだと分かる。でも木が多すぎて辺りは薄暗いのだ。そして私は道を急いでいる。なぜか、急いでいる。木の根を踏んづけて、コケで足を滑らして、ふかふかする枯葉の上をひたすら歩いて。私は森の奥へと進んでいく。


 で、いつも間に合わない。何にか。森の奥で誰かが私を待っているのだ。でも、私は間に合わない、その人は行ってしまった後だ。私が霧と汗ですっかり冷たくなった体を連れて森の真ん中に立っている大きな木にたどり着くと、そこにはその人が、いた、気配だけが漂っていて、姿はない。ああ、行ってしまったんだ。私は、間に合うことができなかったのだと、それだけの夢なんだけど、毎晩のように見ている。見ない日はレポートが間に合わなくて徹夜してしまうような夜だけだ。昼間、うたたねをしていても私は森の夢を見ない。


「もしかしたら」


 木の根もとで私を待っている人の見当はついている。だから、もし出会ってしまったら私はなんて声をかければいいんだろう。ひょっとして私は、待っている人に会わないためにわざとゆっくり進んでいるんじゃないだろうか。いや、やめよう、こんなことを考えるのは。夢じゃないの。私はフロイトを信じない。ああいう理屈は否定する方法がいくらでもあるのだから。

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