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森と雨  作者: 森本泉
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「確かに軽の兄妹は古事記の説話の中でも一大恋愛譚という位置づけだな」

「どんな意味だったの」

 私はさっき読んでくれたページをのぞき込むために、腹這いになってゲンゴに近づいた。きっと胸の谷間が見えるに違いない。なのにゲンゴは何も反応しない。ああ、想い合っていていいことです。と私はちょっと呆れた、この友人たちと、自分自身について。

「山の高い所に田を作ったので、水を引くために樋を土の下に埋めた。私の心もおなじことだ。埋めるようにかくして、こっそりと問わなくてはならない私の妻、人に聞かれないようにこっそりと泣いているその人に、今夜こそは心安らかに触れることができた」

「えろいね。もう一つのほうは?」

 せかすと、ゲンゴはもう一つの和歌の方も現代語に訳してくれた。というか訳は書いてあるんだけどそれをかみ砕いて教えてくれる。

「こっちのはな。笹の葉にあられが打つように人が騒いでも気にしない。こうして寝てしまったからには人の心が私から離れてしまってもかまわない。コモを刈ったときのように辺りがすっかり乱れてしまっても、こうして寝てしまったからには、なんだと言うんだ。そんなような意味だ。だからな」

 ゲンゴは私を見た。私はころんと仰向けになったので、ゲンゴが私を見下ろして、私がゲンゴを見上げている。私は部屋着で、ゲンゴは何を考えているのだか。そして私の心はどこをさまよっているのだか。

「森の中」

 つい口をついて出てしまった。

「なんだよ」

「なんでもない。あんたこそ何よ」

「俺もむいもお前を心配しているんだ。さっさとレアンとより戻しちまえよ。見ろ、あいつの涙ぐましい努力を。今一体何人の女ともめていると思っている」

「そんなのあいつの勝手じゃない。私はまだ信用したわけじゃないの」

 レアン、大広礼安、私が一回生の時に短い間付き合っていた男は、チャラ男だ。それも半端ないチャラ男だった。ナンパの殿堂なんてあだながついているほどに。私と付き合っている間にも何人かの女の子と付き合ったり出かけたりしていたので、当然すぐ別れた。なんで私一人じゃいやだったの。と聞いてみた、一応、振る側の礼儀として聞いてやったのだ。

「八十年生きるだろ? その間、会えない人の方が多いじゃないか。俺は雨にだってその他の誰にだって、会えたことが嬉しくて仕方ないんだよ。みんな好きになりたいんだよ」

 と、言われて背中を蹴って部屋から追い出したのだった。私は思う。こんな男と付き合っても仕方がない。

 でもレアンは言ったのだ。すべての女と別れる。一度死んだつもりになって、違う人間に生まれ変わる。

「だからもう一度俺だけの雨になってくれませんか」

 とばかばかしいことを言った。何が俺だけの雨ですか。女をとっかえひっかえしているのはあいつの方だっていうのに。私は、絶対に真に受けたりしないようにしよう、と思っている。

「髪だって黒く染めちゃったんだぞ。これならモテないだろうって」

「発想が貧弱すぎるわ」

 私はため息ついて、ゲンゴの隣に体を起こした。

「あんな奴とより戻せなんて、あんたも案外友達甲斐のないこと言うのね」

「あのバカが好きなんだろ」

 至極当然のことを言った。

「そうよ。あのバカが好きなの」

「あのバカのどこが好きなんだ」

 ゲンゴは重ねて私に訊いた。私は返事のつもりで、聞きたかったことを尋ねてみる。

「ゲンゴはむいちゃんのどこが好きなの。それがきっと私の答えよ」

「むいなあ」

 ゲンゴはむいちゃんへの片思いをこじらせて、誤解もあったりして、すれちがいもあったりして、一度は大学をやめて実家に帰ってしまったほどだったんだけど、なんというのかむいちゃんが追いかけて行ったというのか、めでたく誤解や擦れ違いが解消されて、今に至るのだった。おめでたいひとたち。

「むいの、発する言葉が好きだな」

「じゃあ私とおんなじね」

 ゲンゴは黙っている。黙って、文字の列を指でなぞっている。

「なんで悲恋歌なんて俺に読ませる。レアンが好きならそれだけの事だろう。お前たちは別に何に拒まれた間でもない。軽の兄妹とは違う」

「ゲンゴ、むいちゃんにやすくはだふれた気持ちはどうですか」

 私は難しい歌の中で唯一意味が受け取れたところを友達にぶつけた。ゲンゴは苦笑している。

「人んちの布団の中を邪推するなんて悪趣味もここに極まるだろう」

「ほう。もうあんたんちですか。一緒に暮らしてるの」

「それはむいの親御さんが許さないからな。とりあえずは俺が大学卒業して就職してからだ、いろんな話は」

「ほう、いろんな話はしているんだ」

 ゲンゴは私を向き直った。

「ああ、そうだ。俺たちはいろんな話をしている。だからお前も早くレアンと話し合え。あいつの体力がもっている間に。本当に見てて哀れだな、友人として。あいつこのままだと廃人になるぞ」

「私にも兄がいたのよ」

 廃人になるんだったら、いっそなってほしいと私は思った。そうしたらレアンも、もうこんなに神様みたいに、みんな好きになりたいなんてバカなことを言ったりしないだろう。人はけして、好きになる価値あるものではない。そんな素敵な出会いなんてこの世にはない。そのことにレアンだって気づくだろう。だから、私のことだって忘れてくれるだろう。私は朝起きた時夜眠る時にそればっかり祈っている。早くレアンの目が覚めますように、と。

「いた? 過去形だな」

 とゲンゴが言った。話をとばされたことには注意を払わないようだ。

「六歳年上の兄がいたの。私が高校生の時に死んだわ」

「それは。おくやみもうしあげます」

「いいのよ。誰も悲しまなかったから。くそったれ兄貴だったから」

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