表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

歴史とDNA

古代中国とハプログループ

作者: とびうお君

 新たな情報から再度整理したい。実は前から知っている情報、それを稲作の北上と重ねて再度考えてみた。歯抜けだが一部中国南方の古代のY染色体ハプログループは分かっている。文明ごとにあったりなかったりするので、今まで放置してきた。だが稲の北上と絡めると使えるかもしれないと思いなおした。


 可能性の高いのが山東省。これについては近い時代で山東龍山文明と言う中原に繋がる文明がある。これはハプロが分かってない、ベタな遼河文明の担い手のN系からの延長ではないか?と考えている。ただこの問題の難しいのは、この付近で渡来時期前後越がO1Aじゃないか?といわれてる王の国があった事になる。他にも中国東北部に突っ込んだ渤海湾でO1B1の主流系統とは違うハプロが繁栄している。


 ただ、この渤海湾のハプロは曹操の上位ハプロで中国南部に多いハプロとは系統がかなり昔に別れていて違う。当時から既にO1B1は多数派のハプロでは無いと見ている。ただし、1つの遺跡で決め付けるのが危険なのは、この辺りコーカソイドが出た地域なので、古代時間差、地域差でいろんなハプロが出てくると見ている。


 中国の稲作文化は広がっている。だが遺伝的に広がったか?と言うとそうでもない。この辺りはやはりM134の出現率が古代においても高いと思われる。当時既に、人骨がベタな北方系に変化した地域なので。人骨の形質からハプロを決めるのは危険だが、今のハプロの状況から、中国は北方形質を持ったM134が南下したのはほぼ間違いない。その時代は弥生時代に重なる呉越楚が生まれた時代より前の周よりさらに前になる。ただ、それ以前の稲の北上に関わる時期の山東龍山文化のハプロは特定できてない。取りあえずは周辺からN系統だとするしかない。


 ついでに秦の時代の徐福が山東省の出身で、この系統の子孫の下位系統になる。NからいつM134に変わったのか?で、骨の形質の変化がある程度は参考になるのでは?と考えている。だがこれがハプロの混乱を引き起こしてる元になる。


 扱いにくいのが、長江の河口のこうそ省になる。ここはさすがに現在のハプロからはO1B1が食い込んでくる。過去は当然今よりO1B1の比率が高かっただろうと見ている。その根拠として、呉越文明が渡来時期に発生していて、これは長江の南側の今の江西省のあたりの遺跡からO1B1が大量に発見されていて、漢民族のハプロは数%しか発見されてない。ただこの南北の距離の違いがとても大きい。ハプロががらりと変わってしまう。山東省内陸部に近づくほど漢民族の割合が高くなるし、今現在でもそういった状況が当時ほどじゃなくても残っている。


 こうそ省はちょうどこの間になる。ここのハプロが実は分からない…。何故私がこれは置いておこうと思ったか?と言うのは、ここに原因がある。肝心のここのデータが一切無い。ただ山東省からO1B2が渡ってきたはかなり今は皆無だが当時でも怪しいと私は見ている。


 稲の北上の遺跡を見ていて気が付いたのは、昔から南部の系統は北上後渤海湾にたまるのじゃないか?と見ている。それが高いO1B1の理由じゃないか?と。ただそのグループは陸稲を運んだのは考えにくい。陸稲は水田稲作が始まった時期すでに黄河流域に浸透している。渤海湾への北上のルートをさらに飛び越えている。確かにO1B1は中国内陸部にも広がっている。ただそれは果たして陸稲を運んだためなのか?はかなり疑問がある。それと言うのも韓国における陸稲栽培は場所によっては原始的水稲をして居た可能性が言われているから。


 それに対して内陸部は完全に畑作作物の1つとしか捕らえてない。根本的に文化が違う。半島における陸稲栽培は元々湿地帯での原始粗放稲作を経験していた江南人じゃないか?と思わせるから。まさにO1B2になる。遼河文明は後に黄河文明の影響を受けて変化して、かつ黄河文明には遼河文明の要素が大量に入っているといわれている。そこから民族の移動無しに米だけが伝わった可能性がかなり高い。


 文明や農業の危機が無くても、何度も南方人は北上しては渤海に溜まっていた可能性がある。O1B2はたまたま稲作文化が陸稲だが隆盛してから移動しただけじゃないか?となる。なら北方のO1B1はどんな文化だったのか?なら狩猟採取民となる。私がO1B2に想定していた漁労文化になる。


 農業より、狩猟採取の方が移動をしやすいと見ている。このちょっと前に移動したのがC2グループの東北部への移動だと見ている。たまたまO1B2は焼畑陸稲栽培なので、移動したのでは?と見ている。それなら、山東省のやや原始的に近い最古の遺跡もO1B2であった可能性がある。基本焼畑陸稲、場所によって湿地における原始的な粗放農耕。縄文人が弥生時代以前に過去やっていたやり方になる。


 ただ問題は、遼河文明N系が主流はプロでO1B1なんて微塵も出たことが無い。O1B1がいつ渤海湾に来たのか?これはかなり問題になる。O1B2はどうなのか?と言うとこれはたんに遺跡に引っかからないだけじゃないかな?と見てる。O1B1のような大きな集団じゃないから。この後日本や朝鮮で増えるので、この時期はまだ数が多く無いと見ている。


 今回の稲というテーマでO1B1はあまり重要じゃない。南方から北上してたまり場として渤海湾があると書きたかっただけなので。そのための最古集団がこの集団になる。O1B1は中国全土に南方系も北方系も薄く分布してるので、北方O1B1系統とO1B2の移動の前に移動したおそらくO1B2が黄河北部に稲を運ぶきっかけを作ったと見ている。


 民族の移動とそれが大きく発展するのはまた別問題だと思う。弥生時代付近では山東省では土着の人達が模倣するか?混血するか?で民族の移動は多分とまってしまってるとは見ている。それが日本半島への渡来に直接ルートからの移住が会ってもO1B1が含まれてない理由だと見ている。


 私はそもそも日本半島南東部への直接ルートは小集団の移動しか考えて無い。日本への大集団の移動は独自に発展させた遼河河口に土着したO1B2が半島に移住しそこからの移民だと思ってる。


 渤海湾のO1B1が何故O1B2と別なのか?と言うと、一緒なら、何故日本にO1B1は極端に少ないのか?となる。江南ルート、沿海州ルート、半島ルート、半島以外にはどのルートにも居るO1B1が日本には居ない。しかも特に一番重要な半島ルートにO1B1が来て居ない。これは、O1B1は江南出身だが、別集団で時代がずれてると考えるのが妥当だ。


 じゃもっと後の時代では?それも十分に考えられるが曹操の事を考えると魏建国までに民族のルートを問わないぐらい溶け込んでないといけない。もっとも曹操の祖父が曹操の父を特定の民族だと知って養子にした可能性もあるが、多分それは考えにくい。古い時代からすでに北方民族として自然に漢民族に溶け込んでいたと見るのが妥当だ。


 後からあれだけ巨大な漢民族とは別系統の南方集団が移動するって不自然だし曹操の存在がまた奇妙だ。曹操が違ってるのではないか?も十分考えられるが、他にもあの系統は自然に中国人として溶け込んで歴史上の人物を産んでいる。それは特に特別な南方民族としてではない。その点南方民族としての出自が関係してる孫文などとは違う。広東人の海外移住は有名だから。


 漢民族は人種ではなく文化の共有で、これが古い時代から守られてる。確かにM134(O2a2b1)と言う漢民族の大半を占めるサブグループはある。だがミャオ族ぐらい離れてる劉邦のハプロも漢民族の重要な一員として組み込まれてる。孫文も毛沢東もおそらくO2ですらない。特に古い時代には漢民族の出自は出鱈目だと私は感じている。


 自分達が東夷と読んだりした他の蛮族が漢民族のルーツになってる。そういった4方向から混じる事で中華の文化は創られてきたから。それがハプロから分かってくる。渤海湾のO1B1の系統は多分自然に漢民族に溶け込んだそういった系統だと見ている。大半は満州人になったけど。それも最終的には中国人になってしまっている。


 もっと言うならここは東夷と北狄が交錯する場所になる。歴史時代に逃げてきた江南の末裔である可能性はある。中華初期の発展に加わったグループなのか?それとも、それらから締め出されて満州地区に逃れたグループなのか?


 この点は分からない。古代ここは中国と言うには微妙な土地。もっと東ならほぼ確実に文化圏が違う。満州、朝鮮の文化圏になる。古代の中国は国の範囲が狭くて、ここはギリギリの場所になる。燕が関わっていた土地の境界線になる。後々高句麗のあとに渤海が起こる地区。きし朝鮮がこの下あたりになる。漢の時代に明確に中国に加わる部分だけど、燕がそもそも異民族を束ねた国家として存在していたので、とてもややこしい場所。


 戦国時代にはこの付近も領土に加えてしまったためかなりややこしい地区。その何度も異民族の国家の領土になってる。何かしらの亡命するならこの地区は確かに相応しい。だがそれは先ほど書いたようにそういった出自は付いて回る。後の北魏の皇帝も過去に中国から移動した歴史を持っていて、かつハプロからそれがそのとおりだと分かる。鮮卑は本来C2系のハプロが多い集団。古代の住民からC2系のハプロが検出されている。だからある程度M134から別れて移住してきた中国系だと分かる。


 そういった歴史が残ってないのは、歴史前にすでに移動していたと見てしまう私の癖かもしれない。私はそういう風に考えてしまう。O1B2の場合中国の歴史から消えてしまうのでまた別問題だと思う。ハプロが1つの民族集団を示すわけじゃないが、渤海湾のO1B1はそれだけ特異な分布になっている。


 歴史が意識される前にすでに移住したと私は考えている。おそらく米と無関係。ひょっとしたら黄河流域に陸稲を伝えた担い手の可能性もあるけど、渤海湾に集中しすぎて、そういった移動畑作民族を想定しにくい。最大の問題は、この付近からN系か後の時代にはC2かO2系しか出てない問題。それが何故なのか?は分からない。後の時代に統一中華じゃない時に亡命のため移住した江南の民族である可能性はある。だがその場合南方にもそのグループが残ってもおかしくない。後の時代になればなるほどおかしな話になる。


 本当に困った問題。O1B2の陸稲焼畑移住集団としてこのO1B1の存在がかなり邪魔。彼らがその担い手だとすると、O1B2が必要なくなってしまう。満州最大の江南ハプロはO1B2じゃない、O1B1だから。誰が満州に朝鮮半島の元となる陸稲を運んだか?で彼らほど適任者は居ないから。


 東北部の騎馬民族以外の文化的な流れは大体この遼河文明の流域から来てるから。ここものすごく重要なポイントになる。藤原家の鹿もこの文化がルーツだと見てるから。沿海州はこの文化の分家みたいなものになる。後の農業民となる前の文化として縄文採取文化の頂点にここが位置する可能性と、東北日本海側の全国平均に対して高いN系のルーツだと見られている。


 もしインドネシアの下位グループまで発展した高いO1B2の割合がなければ、間違いなくO1B2はここにいるだろうO1B1の祖グループから分岐したと見てるだろう。理屈的に江南でかなり後の時代まで下位グループが発展してから移動し無いと、満州からインドネシアに行ったなんて変な話をしなくてはいけなくなる。


 あのインドネシアのO1B2が日本人の移民って単純なストーリーなら本当にすぐ解決できた話。別集団の江南の同系統がいるのが本当に困った問題だ。日本に一緒にやってきたらどれほど楽だったろうか?その場合直接ルートになる可能性が高いけど。


 メラネシアについてはD系が見つかってるので、ひょっとしたら日本人の子孫である可能性がある。ただし日本に多い47zと言うタイプのサブグループではない。その点はたまたまそっちだけ消えてしまっただけかもしれない。流れ着いた縄文人だって無茶な話しもあるが、それならx47zがどうしているんだ?が旨く説明できない。メラネシアはかなりややこしい。O1B2だけインドネシア同様流れてきたというのもあるが、その場合D1B系が何故居るのか?の部分の説明が難しくなる。


 確かにハプログループと民族の移動は面白いが、解けない謎になってしまったら知らなきゃ良かったって思う部分もある。日本は特に謎に満ち溢れた起源地が失われた民族ばかりで困ったものだ。


 しかもだ、古モンゴロイド系のC2系と新モンゴロイド系のC2系が日本に居る可能性もある。こんな民族他に無い。韓国もその可能性はあるが、私はある程度は、半島に人は居なかったというのはあるとは思ってる。全く居なかったわけじゃなくて、他の地域に較べて少なかったとなる。


 韓国は土着のC2系があまり残ってないとは見てる。韓国のC2系はおそらく東北部から流入してきた騎馬民族だと見ている。遺伝的には残ってるのはもう出ている。だがハプロで残ってるか?は別の話しになる。それならそもそもおそらく中国にも居ただろう、非チベット日本のD系もどこかに消えてしまってるが、こういった古い遺伝子は核DNAではおそらく残ってる形跡が見られる。


 南方系のO系とも違う別の遺伝子が東南アジアほど残っているらしい。その担い手は北方遊牧民化する前のCとDだろうと見てるから。縄文系のC2は入ってこなかったって説もあるのでなんとも言えないけど。


 古モンゴロイドは、南方モンゴロイドと出アフリカに近い形態を残したモンゴロイドに分かれていて、Cは古いタイプでどうなのか?と見てる。ただ韓国の記事を読むと、すでに早い段階でアジアのモンゴロイドは北方モンゴロイドに近い形質を持っていた可能性がある。日本は、出アフリカに近い民族と直接融合したためこれが分かりにくい。


 例えばC1系とC2系の違いがある。C1系は明らかに出アフリカに近いが、C2系は北方モンゴロイド化、または混血する前からすでに北方モンゴロイドに近い形質だった可能性がある。(今ではそのタイプのC2系が残ってないため分からない)北方モンゴロイドは骨だけの特徴じゃないから。むしろ私は免疫にその真髄があり、他はついでだと見てる。だから北方モンゴロイド化の前から持っていた可能性があると見ている。耳たぶや一重二重も骨に残らない。


 これと同様にO系はすべて北方モンゴロイドのO2系に南方といえども近い可能性がある。ハプロと骨を見比べて吟味しなくてはいけない話しだけど。南方系、出アフリカ(私が中東系と読んでるもの)、北方系とモンゴロイドは大きく分けて3つのタイプに見えるんじゃないかと見てる。


 話しを燕に戻して、万里の長城が渤海湾を囲むように存在している。これは大きな証拠になるかもしれない。北方O1B1は万里の長城を無視して、同心円状に北に広がっているこれは長城が出来る前じゃないと無理じゃないか?と思う。その後の北魏の時代に入り込んで広がった可能性もあるが、それなら何故南方系?いろいろ考えるとこれは万里の長城の前じゃないと成り立たないのではないか?と予想できる。ここを中心に自由に行き来して広がったように見えるからだ。かなり北方まで食い込んでいるので、それはもう騎馬民族化したグループだと見て取れる。ただしこのグループモンゴルではかなり少なくなるので、満州と華北に限られる。それなりにウイグルまで高い数値が出て広がってるので、今の中国の地図で北部だが、昔だとやはり騎馬民族化したと見て良い。


 ちなみに南部に多いO1B1はO1B1A1で、北部に多いO1B1はO1B1A2となる6番目の数字が1と2で分かれる。コレは古い分岐で、早くに移動した可能性を考えてしまう部分。彼らを南方の稲作文化から切り離したいのが目的でいろいろ調べるが、決定打は今の所無い。


 O1B2の江南から予測する移動経路と、陸稲の広がりは驚くほど似てると私は考えている。過去に稲作のルートだと言われていたルートそのままになる。だからその前に陸稲文化圏をO1B1に作られていると邪魔だと思ってるから。古い時期に移動したならそれはこの辺りは有名な狩猟採取グループで、東夷の夷は弓を意味して、縄文人も弓を扱うのに長けていたといわれている、その最高点とも言えるのが、遼河文明なので、その時期にはもう関わってるのではないか?と見ている。


 ただ古代にO1B1が渤海で出てきたら多分すごい注目されると思う。案の定出てこないし、そもそも今数多く居るM134すら滅多に出てこない。Nばかり出てくる。たまにC2が出るぐらい。


 ひょっとしたら、C2Cっぽい扶余と合流したワイはくかもしれない。わいがO1B2ではくがO1B1だとするとすっきりするが、それなら、同じように行動する事が多かったわいはくが別れて日本に来た理由が分からない。わいはくは、47zとそうじゃないグループの可能性もある。わいはくはツングースだとあるので、O1B2だと思ってなかったが、おそらくO1B2は遼河文明と合流してツングース化してる。これはハプロが見つからなくても良い。無文土器がここから広がってるので、みつかりにくい少数民族の人骨に期待するのは苦しい。


 ドルメンから江南から来たと決めツケをしてるけど、私は妖しいと見ている。無文土器はここから遡れない。おそらくドルメンの江南起源から勝手に推測してるだけだと見ている。


 O1B2が陸稲の担い手だとすると何故良いのか?と言うと、どうも韓国の稲作は本格化するまえ、数1000年ぐらい前の山東半島の稲作に似てるから。何が変わったのか?と言うと、平地で0から水田を作る。これが江南から来た弥生人が発展させた新農法だから。何故縄文人は稲作を最初水田でやらなかったか?と言うと、特定の場所の湿地農法で、あくまで農地として他に使えない、代替的な意味合いが大きかった。


 それは縄文人も試した後がある。そしてそれは朝鮮でも同じ事がされている。結局主流は陸稲になる。


 特定の場所を選ぶ点で、焼畑稲作に対して特別優れた農業ではなかったから。あるときこれが変わる。それは別の誰かが数1000年進んだ稲作を持ってきた?と考えるほうが合理的だから。


 実はD系縄文人と、O1B2系朝鮮人は全く同じ行動を取ってると見ている。それはO1B2で無いのでは?当然それも考えられる。ただ、直接じゃなくて間接的に取り入れたなら、すでに稲作を知ってる方が自然だと考えたから。後は2系統に別れた可能性。これは47zがまさにそれになる。満州組=x47zのO1B2となり、海岸ずたいに半島南部に移り住んだのが47zになったとすると、密接に日本と関わった関係の深さが変わるから。


 47zだけ直接ルートで半島南部に来たのでは?私は現地で湿地稲作に縛られた人と別れたグループだと見てるので、それなら何故O1B1が一緒に来ないんだ?って点も引っかかるから。M134系は一緒に来ても日本に今でも多いので分からない。だからそういう可能性はある。だが、O1B1はむこうでの比率から本当に居ない。


 今回テーマにした当時の現地でのハプロから、直接ルートではこうそ省北部か?山東省以外考えられないと見ている。江南のO1B1と別行動を取る理由があったと考えていて、後れた農法の時期に出てしまったのではないか?と見ている。私は水田稲作でも場所を選ばない労働集約的な大規模農業こそが分かれ道だと見ている。だからその発展の前に出てしまったグループと見ている。出て行く理由は豊富にあの時代の中国には存在するので。


 古代は海岸南部に、O1A、長江全域にやや時代は古いがO2系のミャオ族のM7と、O1B1。これらにM134若干絡む程度、この割合がいつ今の様になったのか?が分からない。当時の遺跡も民族の割合を見るには偏ってるといえなくも無い。


 O1B2が大挙して船で直接やってきたと言うのが怪しいのが、この付近のハプロが日本に無さ過ぎる。何故O1B2だけが特異的に入ってきたのか?直接ルートはあっても少数だと見てて、しかも漢民族に入れ替わった山東省南部からこうそ省北部にかけてのものだと見てる。さらに後の時代には山東半島からのルートが考えられる。


 人骨の形質の変化から、北方化があったとは見られている。その時M134が南下したんだろうと見ている。渡来時期の山東省は影響を受けていて、M134中心の集団であってもなんらおかしくはない。ただし分かってるのは当時の住人である徐福が子孫からおそらくM134の系統であると言うことぐらい。


 遼河文明において、Nが発掘された時期とあまりに時代が違いすぎてN系の継承は今のハプロの分布から苦しいと見ている。遼河文明の後になる夏家店上層文化の頃にNからO2やC2が発掘されるようになったとある。半島日本の稲作開始時期と被る時代になる。ただ、ここ夏家店下層文化と較べるとモンゴル方面にずれすぎてる。渤海湾周辺のハプロの状況は分からない。ただ東湖の先祖となるグループだったのではないか?とあり、後の鮮卑がO2とC2の混合民族って私の想定どおりになっている。


 中国古代文明で、私の知ってる情報では、山西龍山文化においてO2の不明サブグループの多数の人骨、M134系数体以外ベタな漢民族のハプロを見た事は無い。そして古代において中国でO1B2が発見された事例は1つも無い。中国発じゃないと言いたいわけじゃない。それほど大きな集団で、かつ長江稲作の中心グループじゃなかったと見ている。確率的に当たらないと見ている。早くから移動したなら、当然当たる確立は低くなる。小集団、先史時代からの移動など。そういった条件で痕跡が発見されないと見ている。


 以上が今まで古代中国文明の遺跡から発見された、特定できるハプロからの考察になる。


 さてどこかで終わりを考えないといけない。わざと終わりの無い思考を楽しむのは私は好きじゃない。例え証拠が出なくても、証拠が出たら終るって終わりを現実的に想定し無いといけない。一体何が必要か?とそれは平易であるか?になる。例えば、不在証明のための発掘はキリが無い。O1B2の問題はそれがある。O1B2が今でも江南にわずかだけならあるのは分かっている。


 それゆえにO1B2が渡来時期付近の江南で高い割合で出ないのが論のキーになる。こうそ省で発掘した人骨を分析するのが一番早い。ただどれだけやれば良いのか?だとキリが無い。何か決定打は無いのか?


 あった、満州方面まで広げて、O1B2がいつ現れるか?の調査をすれば良い。満州方面の時代地域ごとの人骨のハプロの遷移の調査をすれば良い。O1B2が渡来時期に江南を北上したとなるから水田稲作の運び手となってしまう。もっと早く来ていたと分かったらその論は崩れる。特に水田の北上より早く来れば一気に壊れてしまう。逆に水田の北上と一致するなら、O1B2は水田稲作を江南から運んできた人達だとなる。


 この目的じゃなくて良い。さまざまな満州の遺跡の時代が特定できる人骨のハプロの調査があれば良い。後はこれを総合的に判断スレ乳母良いだけだから。これが不在証明をしなくてもある程度江南から水田稲作を伝播した民族であるの否定に繋がる。具体的なゴールや答えを想定しない考察は私は悪質な考えの持ち主だと思っている。私が歴史の考察が嫌いなのはここにある。本人達は終らない遊びをずっと楽しむため答えが出無い事がむしろ好ましいとするような悪質さを感じるから。


 N、C2、O2。C2のサブグループは不明。ここまでは満州の大雑把なハプログループは分かってる。これは現代も同じで、ここにO1B1とO1B2がくっつけば今の満州の大体はプロは分かる。ただし謎のR1Bは分からない。あれは契丹から遼の可能性が高くて、かなり後の時代になる。それとも太古の謎のR系統なのか?この辺りは分からないけど。


 後は民族としてのハプロぐらい。例えば、C2Cは騎馬民族の系統もあれば、原住民的な狩猟採取グループも居る。女真などはかなり後の時代まで古代的な狩猟採取+牧畜生活を送っている。朝鮮半島に突如現れた、高句麗、新羅、百済の支配ハプロであるC2Cはおそらく扶余族。これらはモンゴルからやってきたのか?それとも、ツングース系のC2Cが騎馬民族化したのか?この辺りが分からない。扶余の起源はイマイチ良く分からないとなってる。さらに土着のC2Cが支配層としてのし上がった可能性は?高句麗の子孫が日本でO2だったのは、気の毒だが、多分あっちで入れ替わったしまったんだろう。DやO1B2じゃないので、日本じゃないと思う。同族だといわれる新羅の一部の王や百済から考えてもおそらくC2Cだと見ている。


 高句麗はO2系かもしれない。鮮卑もO2系が混じってるため。どうも言語的に同じ扶余語なので後裔と称していただけで、それに従って百済は同族と言っただけだと思う。高句麗は同じ扶余族でも、多分C2系じゃない可能性がある。百済と同族ってのが父系で繋がった子孫って意味じゃない。これによって、百済のC2系はやはり土着の狩猟民じゃなくて、騎馬民族に近いモンゴル系だと思われる。東、南進してきた一族だとなる。


 日本は主に百済の王族の末裔が多く来日して、その関係でC2Cがそれなりの数値出すと見ている。後は土着の平民となる。高句麗や新羅の一部もそうかな?と思ったけどどうも高句麗は怪しい。後は石器時代のC2Cの縄文系の流入があったのか?なかったのか?になる。O1B2だけどうしてもハプロが古い時代の満州で出ない。半島に着てからじゃ遅い。半島には人骨から弥生にかなり近い時期を分かっていて、もっと前に満州に来た当時のものがほしい。


 江南から水田稲作を伝播したO1B2ってシナリオは、韓国と日本のDNAが近い理由を旨く説明できない。日本人は江南人に近いとなってしまう。例えば稲作江南人が半島に住んでそのまま弥生人になったとする。残った江南人が華北人、満州人と混血して朝鮮人になったとする。この2つの民族はもっと遺伝的に遠い民族にならないか?となる。


 すでに満州民族(中国東北部集団)と混血した江南人が朝鮮半島にたどり着き弥生人になったとしたらより韓国人と日本人のDNAは近くなる。韓国人と日本人のDNAは同一クラスタと呼んで良いぐらい近い。もちろん本土日本人は韓国を除けば、アイヌ沖縄に近いのだが、一番なら沖縄アイヌより韓国人の方が近い。


 さらに追記、かなり面白い話し見つけました。万里の長城を作るのと国境警備のための移民を行っています。その故郷は楚や越が多かったと聞きます。これはまあ後の項羽でも分かるように特に秦に反抗的な国だったからと思います。越は楚に組み込まれたのでとばっちりみたいなものかと。んまー移民があったのは事実ですが、楚人、越人だったと明確な歴史的記述は見つけられませんでした。


 渤海湾辺りのO1B1はこの可能性がかなり高いです。それだとますますO1B2のグループの中にO1B1が含まれてないのが変ですね。やはり直接ルートであった場合、山東省辺りから来たと言うのが真っ当な見方かと思います。


 後、追記で、満州ルートと海岸ルートがあった可能性があります。この万里の長城は新しすぎるのでここから100年ぐらいは遡らないといけません。だからこの人達が渡来人になったとしても、それはかなり後の事になります。初期メンバーじゃないです。私の予想でO1B1が一緒に来てるのは都合が悪いのでちょうど良いです。元々遼東半島から支石墓と無文土器が広がったので、それで一度ここでツングース化しただろうと予想してるだけです。


 問題は、半島西海岸に古い遺跡が無い点です。そこが見つかれば山東省からの移住ルートの復活となります。と言うかそっちが本命になります。海岸ルートです。


 離れてるだろ?となりますが、どうやらこの地域そもそも同一文化圏と見てて、かつもう一つあります。山東省の文化的影響があった墓がみつかったみたいで、かつ支石墓もあるんですよ。


 日本のO1b2と、朝鮮のO1B2系統的にちょっと違います。これに関して海岸ルート説ってのが採られています。陸ルートと海岸ルートに別れたため違いが出たのでは?って話しです。その場合水田稲作を伝播したのは日本に多いO1B2=47zってタイプになりますけどね。ここはどうやれば良いか?分からないです。


 沖縄のO1B2が低いのであまり現実的じゃないのですが、沖縄から陸稲を持ってきたO1B2って話をしてる人もいます。または長江から陸稲を直接持ってきたと。この辺りはぐちゃぐちゃな話しになるので、この辺で。これは南琉球のO1Bが高すぎるので面白いと思ってる話しです。再度調査したら変わると思います。


 それは置いておいて、渤海湾のO1B1の別系統ってこれかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ