勇者と魔王と、その娘
ようやく祝宴から開放されたアレクシスは、他のふたりと一緒に部屋に戻ると、むしゃくしゃした気分のまま長椅子に身を投げ出した。
「あーあ、そんな風にすると服が皺になるよ」
「知ったことか」
シャロンの小言に苛々と吐き捨てていると、どこから掻っ払ってきたのか、寝酒とは言えない量の酒を持ったバルドが、アレクシスにグラスを持たせてくる。
座り直したアレクシスは上着を脱ぐと、注がれた琥珀色の酒を一気に飲み干した。
「うわ、それってやけ酒?」
「飲め飲め。飲まねえとやってらんねぇだろ」
バルドは空になったアレクシスのグラスに酒を注ぎ足すと、自分は瓶に口を付けた。
今度は半分ほど喉に流し込んでから、アレクシスは深々と溜め息を吐いた。
「……あれはもう、寝てるか」
フィオドラが使っているはずの部屋の方を見ながら思わず呟いた。
つられたように扉を振り返った二人は苦笑を零して頷いた。
「あんま調子よさそうじゃなかったからなぁ」
「それはあんな祝宴、フィオドラには居心地悪いだけでしょう」
「居心地どころか、胸くそ悪りぃだろ」
ふたりの言うことはもっともだ。フィオドラにとって魔王討伐の祝宴など辛いだけだったろう。
それでも彼女は顔を上げて凜と真っ直ぐに立っていた。
夜を模したような紺色のドレスはよく似合っていた。漆黒の髪が白い背に流れ、小さな顔は普通の令嬢にはない凛とした美しさがあって、まるで夜の精のようだった。
その美しさに惹かれた者たちが何人も声を掛けようとしては彼女に逃げられていたが、それだけでもアレクシスは気分が良くなかったし、実際フィオドラが他の男と踊っているのを見たときは、相手の男を殴り飛ばしたくなるほど腹が立った。
周りに多くの人が居たのでどうにか外面は取り繕ったが、目が合ったフィオドラには感づかれただろう。こっちを見ていた彼女の顔が若干引き攣っていた。
そういう変なところでは勘が良いのに、フィオドラは酷く鈍い。
彼女はアレクシスがどうして苛立っていたのか、その理由にまったく気付かない。
「まあ、彼女も覚悟の上でここに来てるんだから、僕たちがどうこうしようもないよ」
「確かにな。それよりも、アレクもしんどいよなぁあ。仕向けられたからって、まさか惚れた女の親父さんを殺しちまったんだもんよ」
慰めるつもりか、加減しない力で肩を叩いてくるバルドの手を叩き落とす。
「……お前ら、もう黙れ」
アレクシスは、眉間に寄った皺を押さえて深々と溜め息をついた。
閉じた瞼の裏に、魔王城のきらきらした星明かりが浮かぶ。
あれは、魔王の胸に剣を突き刺した後のことだ。
「なぜ、抵抗しなかった」
そう問いかけたアレクシスに、魔王は顔をあげた。
綺麗に切り揃えられた黒髪が、天上の明かりに照らされて光を吸収し、額を飾る黒水晶が満天の星空を閉じ込めたような煌めきを見せた。
勇者の剣に胸を貫かれ、玉座に縫い止められたままされたこの質問は理不尽なものだろう。即死する急所は避けているにしても、受けている痛みは相当のものであるはずで、早々に止めを刺してやった方がよほど慈悲深い。
けれど魔王は負の感情を映さぬ瞳でアレクシスを見返していた。
何かを喋ろうと口を開いた瞬間、言葉の代わりに魔王の口から出てきたのは大量の血だ。
喉を迫り上がる血で吐血を繰り返す魔王の胸は、刺し貫かれた傷と合わさって血だらけである。
薄暗い闇の中なら黒い服と同化して判別できなかっただろうが、星明かりは容赦なく黒と赤の違いを浮き立たせた。
飛び散る返り血を気にすることなく、アレクシスは魔王の言葉を待った。
魔王が何を考え他の魔人をこの場から遠ざけたのか、なぜ易々と城への侵入を許しこの広間へ通したのか、知らなければならなかったのだ。
城に入ってから魔王と対面するまで、アレクシスたちは他の誰とも出会わなかった。それは故意だとしか思えず、もしかしたら帰り道にこそ罠が仕掛けられているのかもしれなかった。
入り口の所で待たせていた仲間たちが、魔王を討ち取ったのを見て近付いてくる。
アレクシスは魔王から目を離さぬまま、片手を横に伸ばした。
アレクシスの意図を汲んで、数段高くなっている玉座の前でバルドとシャロンは立ち止まった。けれどフィオドラは、制止を無視して近付いて来た。
硬質な靴音が淀みなく段を上がってくる。
「フィオドラ、下がっていろ」
声音をきつくして制したが、彼女はアレクシスの指示に従わなかった。後ろからかけられる二人の声も聞かず、フィオドラは魔王の前に立った。
人間界と魔界の境界にある街で出会ったフィオドラは、確かな実力と柔らかな心根を持った少女だ。
儚い印象を持ちながらもときどき見せる心の芯は、はっとするほど強い。こうと決めたら梃子でも動かない強情さも持つけれど、こういう場面で仲間の言葉を聞かないような愚か者ではないはずだった。
魔王の意識が勇者から側にやって来た少女へと移った。
何かがおかしいと、無理矢理にでもフィオドラを後ろへ下げようとした瞬間、アレクシスの手が彼女の華奢な肩にかかるより前に、フィオドラは膝を折って魔王の手を取った。
「……お父様」
か細く震えた星の瞬きのような声だ。不安定に揺れているのに、確かな存在感のある声がこの場に似つかわしくない単語を形にする。
フィオドラの放った言葉の意味を理解できずに固まっているアレクシスの前で、魔王が微かな笑みを浮かべた。
「ああ、フィオドラ。君には辛いものを見せてしまったね。すまない」
彼女の手を握り返して謝る魔王に、彼女はふるふると首を振った。魔王の手を何度も撫で擦る。
硬直しているアレクシスの横にバルドとシャロンが並ぶ。二人も状況が理解できないのか、難しい顔でフィオドラたちを見下ろしていた。
魔王がそんな三人に視線を戻して笑った。それは苦笑であっただろう。
「どうして抵抗しなかったかと聞いたね。……死していく者の言葉なら、君たちは聞いてくれるだろうと思ったからだよ」
ひどい打算だろう、と肩を竦める。
そういった動作の一つひとつが体に響くのか、魔王は何度も血の混じった咳を繰り返した。びっしりと額に浮かんだ汗が、魔王の苦痛を示している。
「……何を」
「フィオドラが、娘が君たちなら頼めると言うのだよ。私は娘の目を信じている」
「だから、何を……」
説明を求める目が、自然と仲間の方へと行く。
フィオドラは膝を着いたまま真っ直ぐにアレクシスたちを見上げていた。
「騙していてごめんなさい。私は魔王の娘。ある願いを叶えるために貴方たちに近付いたの」
「……魔王の、娘?」
自失から抜けきれないアレクシスを案じて、バルドが一歩前に出た。大剣を握る手は、油断無く力が込められている。
「フィオドラ、これ冗談じゃなくて真面目に言ってんの?」
「本当のことよ」
「……そーか、そーか。どうするよ?」
首をひねって意見を求めるようにバルドがアレクシスを見る。だが彼は、まだ何も言えなかった。
シャロンが難しげな顔を崩さずフィオドラを見据える。
「君は魔人で魔王の娘で、父親を殺させるために仲間になったの?」
「……ええ」
「魔王を殺しに来た僕らに対して、君たちは敵意はないと? 君だけじゃなくて魔王も魔人たちも?」
「ええ。……たとえ魔人の中にあなたたちを敵視する者がいても、この件に関しては私が責任もって抑えるわ」
フィオドラが決然と言うと、こちらも納得しないわけにはいかない。
彼女の薔薇色の瞳にはそれだけの意志が込められていた。
「……くそっ」
アレクシスは無意識に悪態をついた。
その声に気づいて、気の毒そうな視線をこちらに投げてくるバルドを睨み返す。
剣士は軽く肩を竦めて魔王たちに向き直った。
「んじゃあ、まあ、フィオドラのことは取り敢えず置いておくとして、そのあんたらが叶えたい願いってのは、命懸けるほどのことなんか?」
「そうだよね、簡単に命を捨てるような奴の言葉なんて、僕たちには大した重みを持たないよ」
眉を寄せるシャロンを、フィオドラが睨み上げた。いままでの冷静さが嘘のように眦をつり上げる。
「簡単に命を捨てられるわけないじゃない。父様はそうしなきゃいけない覚悟を決めただけよ!」
「フィオドラ」
激昂する娘を宥めるように、魔王がその髪を撫でる。
親子なのだと言われてみれば、確かに彼女と魔王の髪は同じ、闇夜よりもなお深い漆黒だ。
髪を優しく撫でる手が淡い光を放ち始める。――消滅の時が近付いている。
それに気付いたフィオドラはくしゃりと顔を歪ませた。
そんな娘の表情に魔王は苦い笑みを浮かべた。
「ああ、もうあまり時間が無いね。勇者よ、話を聞いてくれるかい?」
魔王は始めから変わらぬ穏やかな声音でアレクシスに問いかけた。
アレクシスは一度フィオドラを見て、魔王に目を戻し、そして深々と溜め息をついた。
「仕方ないから、聞いてやる。手短に話せ」
尊大な態度で促すと、魔王は安心したように息を吐いた。何かを思い出すように瞼を閉じる。
青白い顔色と淡い光が相まって、それは安らかな死に顔に見えた。
「私たちは昔、人間に……ログゴートに大切な物を奪われた。それをどうしても取り戻したいんだ。それはおそらく、かの国の城の中にある」
「奪われた物とは何だ」
アレクシスの問いに魔王は答えず、ただ笑んだ。
「私の結晶を持って、君たちはただ城に帰還すればいい。その時にどうかフィオドラを連れて行ってくれ。そして出来れば、娘の邪魔をしないで欲しい」
魔王が死んで生まれる結晶は、魔王討伐の証だ。それを持ってなら、アレクシスたちは堂々と城へ帰還できる。
──奪われた物を取り戻すため、城の中に娘を送り込みたい。
それは彼にとって命を懸けるに値することのようだった。魔王の表情に後悔は無い。
「いくつか質問する。魔物はお前たち魔人も襲っているようだった。お前たちは魔物の制御が出来るわけじゃ無いのか?」
「魔物は我々にとっても脅威だ。意のままに出来るならどれだけ良いか。もちろん人間を意図的に襲わせることも出来ない」
魔王はこちらの聞きたいことを正確に答えてくれた。
魔王城にたどり着くまでの魔界の旅で、魔人も魔物に脅かされているのは目の当たりにしてきた。
その被害は遙かに人間界よりも多い。だから魔王の言葉は信じられた。
「奪われたというが、それは本当に魔人の物だったのか?」
「間違いようもなく。あれはこの魔王城にあった物で、あって然るべき物だ」
「それをログゴートから取り戻した場合、あの国にどんな損害が出る?」
「全てがありのまま。元の状態に戻るだろう」
アレクシスは眉を寄せた。魔王の言葉は要領を得ない。
別にログゴート自体に思い入れはないが、それでもあの国でしか生きられない人々が居ることを、アレクシスは知っている。
魔王はアレクシスの懸念を悟ったように首を振った。
「もともと彼らが持って居なかった物だ。失ったからといってどれほどの損害だというのだろう。むしろ持っているからこそ不利益になっているだろうに」
「そんな物を、なぜわざわざ国が奪ってまで所有するんだ」
「分からない。けれど、人の欲とは恐ろしいもの。奪われたのは遙か昔だ。私たちは何よりもあれを奪還することを優先しなければいけない」
先程魔王が自身で言ったように、これは死に往く者の最後の言葉だ。
人の本質がもっとも現れるこの瞬間、確かに魔王は真実を語っているとアレクシスには感じられた。
たとえそれがアレクシスに理解しきれないものだとしても。
熟考する時間がないときは、たいてい直感が正しいと経験から知っている。だからアレクシスは、何か面倒なことに巻き込まれたと苦い思いを持ちながら渋々頷いた。
「俺はフィオドラを信頼している。彼女が魔王の娘だと知った今でもだ。だからお前たちの願いは叶えてやる」
はっとしたようにフィオドラが振り返る。
潤んだ薔薇色の瞳に一瞬魅入られ、見つめていられずに目を逸らす。
魔王の手を取った彼女の手が血で濡れているのを見たくなかった。
「……感謝するよ」
吐息のような声で魔王は礼を述べると、疲れたように長い息を吐いた。
魔王の手を握るフィオドラに、魔王は少し寂しそうに微笑んだ。その輪郭が淡く消えていく。
泣かないフィオドラと光となる魔王の姿に、ひどく息苦しさを覚え、アレクシスはそっと目を伏せた。
前髪をくしゃりと掴んで、アレクシスは深いため息を吐いた。
起こってしまったことは仕方ないし、後悔のしようが無い。どちらかというと、彼は嵌められた側なのだ。
いままで起こったことは魔王とフィオドラが望んだことで、アレクシスはまんまと手のひらで踊らされただけ。
怒ってもいい立場だと思いながらもアレクシスがため息を堪えられないのは、ひとえに彼がフィオドラに惚れているからだ。
彼女がアレクシスのそばに居ることに苦しんでいるのを見れば、彼も身動きが出来なくなるのだ。
最近では、まともな会話をしたのもいつだったか思い出せないほどである。
フィオドラが仲間になった当時も彼女とは険悪な雰囲気だったが、いまの微妙な空気ほど居心地は悪くなかった。
最初、彼女が仲間になることをアレクシスは反対していた。
魔王城を攻めるなら魔道士は必要であるとシャロンに諭されて渋々了承したが、いざというときには守ってやらなければいけない相手というのは不快だったし、また女に背中を守られるのは屈辱的であった。
だが、だからこそあの頃は言いたいことを好きに言えていた。
その言い合いが、苦痛でなくなったのはいつの頃からだろう。
フィオドラは、アレクシスがどれほど悪態をついても、悪辣な言い方をしても、自分が信と思ったことを真っ向からぶつけてきた。
普通の女なら泣き出してもおかしくないほどの暴言を投げかけても、真っ直ぐに顔を上げて理詰めで説得してくる。それがまた道理にかなっていて、最終的には彼女の言葉に頷かずにはいられなくなってしまうことが多かった。
それが不愉快だったはずなのだが、その強さに興味を持ったのが最初だ。
凜と通った姿勢、意思。信じられないことに、その視線はアレクシスさえも怯ませることがある。
もちろんそれをおくびにも出しては来なかったが、気づけばその姿を目で追って、一挙一動を気にしていた。
柔らかな頬のライン。神秘的な薔薇色の瞳。軽やかに揺れる漆黒の髪は、いつでも彼女の快活さを表している。澄んだ声音が語る言葉は胸の奥を引っ掻くようで嫌いだったのに、それが好意からくる胸のざわめきだと気づいてしまった。
笑った顔を、とくに自分に向かって笑んでくるのを見るのが好きだった。もっと笑わせてみたくなる。けれど、他の男に笑いかけるのを見るのは不愉快で、彼女の興味を奪うものに苛々する。
他人に対して初めて経験する感情を味わった。
しかしこの感情の行き先は、魔王を討ったことで永遠に失ったのかもしれない。
フィオドラの笑みを、もうずいぶん見ていない。